F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集 F1 STINGER 【スティンガー】 > スクーデリア・一方通行 加瀬竜哉 >  > 2009年5月1日  ブラウンGPのやったこと

スクーデリア・一方通行/加瀬竜哉

謹んでご報告申し上げます。
『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。

[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。

[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己

ブラウンGPのやったこと

’09年シーズンも前半の5週/4戦のフライ・アウェイが終了。「何を今更」ってな気はするけど、毎年そのシーズンの展望/予想をするのは関係者のみならずファンにとっても重要なこと。特に、大きなレギュレーション変更があった際には、それまでの勢力図がガラリと変わったりする可能性が高い。それは極端に言えば「万年Bチームの躍進」だ。もちっと簡単に言えば「常勝チーム以外の勝利/活躍」を期待したいのがレース・ファンの心理。いつも同じチームが優勝争い/表彰台を独占し、いつも最後尾のチームが8位1ポイントにどうしても届かない、の繰り返しは観てて当然飽きる。
…..って意味じゃ、2009年シーズンはなんとも衝撃的な幕開けだった。前年最終戦から僅か1ヶ月後のホンダF1撤退発表。全11チーム(スーパーアグリ含む)中コンストラクターズ・ランキング9位、世界を襲ったリーマン・ブラザースの破綻、そして何処よりも早い決断/実行(このあたりはさすがホンダだが)。結果的に宙に浮いた”弱小”チームを巡る買収話と悲観される現実。誰にも正解が解らないまま行われたマネジメント・バイアウトによってチームはロス・ブラウンのものとなり、周囲の不安と絶望の中、開幕まで1ヶ月もない3月初旬に初めてタイヤが転がったマシンが、
まさかの1-2フィニッシュ!
少なくとも、12〜1月の時点では’09年シーズンはマクラーレン・メルセデスとフェラーリの優勝争いにBMWザウバーとルノー、トヨタらがどう絡んで来るのか、という、言わば”前年の勢力図から大きく変化のない”予想が圧倒的だった筈であり、当然ながら我々もそれに異論はなかった。
だって、如何なる理由があるにせよ、まさかいきなり前年のトップ2がコケて撤退寸前のチームがフロント・ローを独占するなんて考えようがない。そのくらい、今シーズンのスタートはドラマティックで衝撃的なものだった。少なくとも、近年でこれだけのインパクトと結果を残したシーンは記憶にない。多くの要素、例えば急激なコンディション変化や上位走行中のマシンにトラブルが多発した際などに起こる”突発的”な偶然ならばいくつかあるが、あれほどの”事件”は少なくとも60年のF1の歴史の中でそうそう起きることではない。
中継時/速報誌などでも紹介されたが、記録を遡って行くと新チームの開幕戦優勝記録は1977年アルゼンチンGPのウルフ(ジョディ・シェクター)、1-2フィニッシュとなると1954年イギリスGPのメルセデス(ファン・マヌエル・ファンジオ/カール・クリング)しかない。ってことは、現在F1を御覧の方の殆どがご存知ナイ、ハナシにゃ聞いてるがリアル・タイムじゃないのでピンと来ない、というのが現実。かく言うオレ自身、’77年のウルフは間に合ってるがまだ観始めたばかりで良く解ってない。つまり「こんなのは〜年の〜〜以来ですね」なんて言われても比較のしようがナイ。
というワケでスクーデリア・一方通行、このF1史に残る偉業を何処よりも解りやすく解説してみようと思う。

’77年という年が今と決定的に違うのは、自動車メーカーがF1チームをやっているのではなく、独立コンストラクター、つまり個人のレーシング・チームがオリジナルの、もしくは他チームのシャシーを使用し、コスワース製のV8エンジンとヒューランド製のギア・ボックスを購入して参戦するのが一般的だった、という部分。最大で35台のエントリーがあった中、ルノーが初挑戦となるV6ターボ、フェラーリとBRMが自前、ブラバムのアルファロメオ、リジェのマトラのいずれもV12エンジンを搭載するチーム以外(半数以上)は全てコスワースV8搭載車(ウルフもコスワース搭載)。その代わり、今よりもシャシー・レギュレーションはずっと自由で、ボディ・シェイプやウイングなどに各チーム独自のアイデアが多く盛り込まれており、カラーリングを差し引いても見た目に個性的なマシンがひしめいていた。各チーム2台エントリーが義務付けられてるわけではなく、規模の小さな新興チームなどは1台エントリー、反対に大きなチームのマシンをプライヴェーターが購入して3台目/4台目を走らせることもあり、少なくとも現代に比べれば全てのチーム/ドライバーにチャンスがあった、と言える。
この年タイトルを獲得するのはフェラーリのエース、ニキ・ラウダ(自身初/通算2回)、選手権2位となったのが実はウルフのシェクターであった。ラウダとのポイント差は大きかったが、シーズン3勝/72ポイントの堂々たる成績はデビュー戦勝利が決してフロックではなく、ウルフが如何に完成度の高いマシンだったかを物語る。
…..で、何故ウルフはデビュー戦ウィンなどという奇蹟を起こすことが出来たのか。全くの新チーム/新マシンに、並みいる強豪を倒して勝利することが本当に可能なのか?。

ウルフ。2輪ファンの方でご存知の方もいると思うが、カナダの大富豪で大のレース好きのウォルター・ウルフのことである。レーシング・チームのスポンサードに始まり、遂にはチームを買収して自らのものとする、F1ではちょっと前ならベネトン、現在ならレッド・ブルが近い存在と言える。ウルフは’75年にこれまた大富豪チームのヘスケスの設備/人員を買収、更にウイリアムズ・チームに資本参入することでウルフ・ウイリアムズとしてF1に参戦、元々マーチ731というマシンを改造して作ったヘスケス308Cに更に改良したものをウイリアムズFW05として使用していた。ところが成績は散々で、チーム・オーナーのフランク・ウイリアムズは参謀のパトリック・ヘッドを伴ってチームを離脱し、新たに独自のウイリアムズ・チームを結成。これによりウルフ自身が残されたチームを買収し、新たにウォルター・ウルフ・レーシングとしてヘスケス308Cの設計者であるハーヴェイ・ポストレスウェイトが制作したオリジナル・マシン、ウルフWR1を擁して’77年シーズンを迎えた。
…..もう、この時点でお気づきの方もいるかも知れないが、これは今シーズンのブラウンGPに非常に良く似た状況である。大失敗作の翌年にチームの基盤が代わり、そこでモディファイされたニュー・コンセプトのマシンが他を圧倒する。丁度ポストレスウェイトがロス・ブラウンにあたり、ウイリアムズがホンダの立場になるわけ。
そこには当然ギャンブル性も存在する。何故なら、前年のマシンが使いものにならず、正常進化が望めない状況であれば、今までやらなかった新たなチャレンジが可能/必要となるからだ。むしろ前年”中途半端に”そこそこの成績を残してしまうと、そのマシンの良いところは保守した上での進化が求められる。が、ウルフ/ブラウンの両者の場合はその必要性がない。ホンダも’08年シーズンを”棒に振って”、新レギュレーションとなる’09年型車の開発に力を入れていた。事実、’08年がシーズン序盤から最後尾を争う状況だったことを考えればやむを得ない。これを機に”冒険”が許されるのである。
が、問題はそこからだ。良い筈だと思っていたことが裏目に出てしまった以上、本来選ばないチョイスやそれまで考えもしなかったアイデアの導入に迫られるわけで、”守るものを持たない自由度と冒険”が勢力図に大きく影響したと言える。

続いては、デビュー戦1-2フィニッシュ達成のパイオニア”1954年のメルセデス”ってヤツ、こっちはさすがにリアルタイムの人は少ない筈(当然オレも)。
1954年シーズンはF1世界選手権が始まって(というかそういう名前になって)5年目。当時はコンストラクターという概念がなく、選手権は’57年までドライバーズのみ。’54年の参加マシンはイタリアのフェラーリ/アルファロメオ/マセラティ/ランチア/ミラノ、フランスのタルボ/ゴルディーニ、イギリスのERAなど。今の選手権から見るとずいぶんと偏って見えるが、未だ世界選手権というよりもイタリアの自動車メーカーによる選手権に近かった。んで、シーズン途中にインディ500が混ざってたりする。開催国はアルゼンチンとアメリカ以外は全て欧州、確かに世界選手権ではあるが、今と比べれば遥かに狭い範囲内と言える。
で、他国からの”殴り込み”となるドイツのメルセデスのF1参戦。この時点で既に様々なカテゴリーで多くの勝利をあげている”名門”の彼等が初めてF1参戦を果たしたのは実は戦前、つまりグランプリ・レースに”F1世界選手権”の名が冠させるよりも前。’30年代にはモーター・スポーツの頂点に君臨し、’39年に戦争でグランプリが中断された際にレース活動を一旦休止。つまり、F1世界選手権という名となったのは戦後の1950年なので、実際には’54年にF1初参戦というよりも、戦時中/後に休んでる間にグランプリ・シリーズの名称がF1に変わり、そこへ’54年に復帰した、と考えて良い。
戦後、’52年のル・マン24時間に勝利するなど順調にレース活動を再開して来たメルセデスはF1用マシンW196を制作し、’54年シーズン途中の第4戦フランスGPに初めてエントリー。マセラティのエースで前年の世界王者ファン・マヌエル・ファンジオを引き抜き、セカンド・ドライバーはこれがF1デビュー戦となる地元ドイツ出身のカール・クリングとハンス・ヘルマンを起用。予選でファンジオ/クリングが1位2位を獲得し、決勝でもファンジオ/クリングが他車を1周遅れにして1-2フィニッシュを達成(完走は僅か6台)。しかもこの年ファンジオは全9戦中5勝をあげてタイトル獲得(2度目/通算5回)。が、内2勝は移籍前のマセラティで得た勝利で、しかもコンストラクターズ選手権が存在しないので記録上はチャンピオン・ドライバーの”使用したマシン”でしかない。
この圧倒的勝利の理由は、元より他を圧倒していたメルセデスが、戦争を挟んで思うように開発の進んでいなかったレーシング・カーという分野で相変わらず最強だった/メルセデス抜きの選手権では、他のメーカーも飛躍的な進化を求められなかった、という点があげられる。現代のように毎年レギュレーションとの闘いを繰り広げていたわけではないので、ハイ・パワー/低燃費のエンジンを擁していることが重要だった。一旦築いた優位性はそう簡単には揺るがなかったのである。

’09年に大きな進歩を遂げたのはブラウンGPだけではない。レッド・ブル、トヨタらもまた前年のトップ・チームを凌ぐ完成度のマシンを送り込んで来ている。もちろんその中には他チームからクレームの付いた例の”ディフューザー問題”も含まれるが、違法スレスレ、もしくは論議必至のレギュレーションの解釈が’09年のカギとなっていることは確かである。第3戦中国GPではセバスチャン・ヴェッテルとマーク・ウェバーのレッド・ブルコンビがチーム初勝利を1-2フィニッシュで飾り、第4戦バーレーンではヤルノ・トゥルーリ/ティモ・グロックのトヨタ勢が予選フロント・ロウを独占。
しかし、選手権はブラウンGPのバトンが4戦中3勝/3位1回で独走中、2位もチーム・メイトのバリチェロ。ここまで来ると新チームのデビュー・イヤーのコンストラクターズ・タイトル獲得も現実のものとして考えられるレベルである。
御覧になって解る通り、’09年のF1は見た目にも明らかに昨年のマシンと違っている。これはフロント/リアのウイングのサイズなどの制約が激しくなったからで、つまり少なくとも空力学的には前年までのコンセプトが全く流用出来ないシーズンであることは間違いない。そうなれば、手の届かなかったトップ・チームとの差を一気に詰め/追い越す大きなチャンスとなる、ということ。上手くやった所が勝利の美酒に酔い、解釈と方向性を誤った所が取り返しのつかない失敗に苦しみ続けることとなる。

オマケにもうひとつ。
オリジナルのマシンでのF1参戦初年度にダブル・タイトルを獲得した例として’71年のティレルがある。厳密には元々ティレルはマトラのセミ・ワークス・チームが母体となっており、’70年シーズン後半からそれまで使用していたマーチに代えてオリジナル・マシンを投入し、ジャッキー・スチュワートがいきなりポール・ポジションを獲得。翌’71年にスチュワートがシーズン6勝でドライバーズ、デビュー・シーズンとなったチーム・メイトのフランソワ・セヴェールも1勝をあげてコンストラクターズ・タイトルを獲得している。
…..奇しくも、ティレルが’98年にBAR(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)に買収され、更に’06年にホンダに身売りし、そのホンダが今年ブラウンGPとなった。
新規参戦初年度ダブル・タイトルのDNAを受け継ぐBGP001。現行レギュレーションの中では奇跡とも言えるこの偉業、果たして我々は目撃出来るのだろうか。

「この旅はチャレンジングな試練であり、エキサイティングなものになるだろう」’09年3月/ロス・ブラウン

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