F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集 F1 STINGER 【スティンガー】 > スクーデリア・一方通行 加瀬竜哉 >  > 2010年2月11日  混乱必至の色彩共演

スクーデリア・一方通行/加瀬竜哉

謹んでご報告申し上げます。
『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。

[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。

[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己

混乱必至の色彩共演

遂に2010年シーズンに向け、各チームのニュー・マシンがヴェールを脱ぎ始めた。コンサヴァティヴなフェラーリ、昨年のトレンドを取り入れたマクラーレン/ウィリアムズ、初ヘレス・テストでの速さが印象的なザウバー。注目の新チームでは、ヴァージン・レーシングが第1号車となるVR-01をシェイク・ダウン、生憎の雨だったが、ティモ・グロックの手によりサーキットに颯爽とその勇姿を現した最初の”ニュー・カマー”となった。
マシンははヴァージンの事前発表でチーム・ウェアなどに見られた通り、黒地に赤のカラーリング、ウィングには白で”Virgin”のロゴ…..おお、何ってこった。光の加減によっちゃ、銀に赤/白でVodafone、のマクラーレンと区別が付かないぢゃないか!。それってもしや狙いか?。いや、目立ちたいんだったら逆効果だ。それともただの偶然?。ただでさえ今季は台数増えるし、メルセデスGPだっているんだから、テレビで観てて混乱する予感大だ…..。

サーキット観戦よりも、むしろテレビ観戦時に威力を発揮するF1マシンのカラーリング。カメラはマシンの動きに合わせてパンしてくれるので、瞬時に多くのマシンを識別出来、直前の順位と照らし合わせて誰が何処を走っているのかが解る。アップになれば細かいロゴも映るし、ドライバーのヘルメット・デザインも同様。で、それらが一体となって1コーナーを駆け抜ける際、色彩豊かなF1GPならではの光景が出来上がる。
まず、だいたいF1マシンのカラーリングというのは何を基準にして選ばれているのか、という根本的なハナシから入ることにしよう。これはもちろんF1に限らず、レーシング・カー全般に言えることではあるが、1950年に世界選手権としてスタートしたF1はイタリア/フランス/イギリスなどのヨーロッパ諸国のメーカーが集まって始まった。ここでは現在のマニファクチャラーやコンストラクターという構図以前に”国別対抗戦”という意識が存在し、当時のFIAはイタリア=赤、フランス=青、イギリス=緑といった具合に国ごとに振り分けを行った。これは基本的に各国の国旗のデザインに由来するが、現在そのような取り決めは存在しない。何故なら、近代F1はイギリスのコンストラクターがドイツ製のエンジンと日本製のタイヤでフィンランド人とスペイン人のドライバーを擁して闘ったりするからであり、同時にそのカラーリングはご存知の通りスポンサー・カラーに依存されるようになったからである。
しかし国民性/ナショナリズムとしてモーター・レーシングを観た際、イタリアン・レッド/フレンチ・ブルー/ブリティッシュ・グリーン、そして我々日本人にとっての”日の丸カラー”などは完全に”ステイタス”の域であり、同じ国からいくつかのメーカー/チームが参戦している場合は争奪戦となるケースもある。現在少なくともフェラーリがイタリアの象徴であり、その赤いマシンは唯一無比のものであることは疑いようがない。しかし、当然かつては多くのイタリアン・チーム/コンストラクターが同じイタリアン・レッドを纏い、それはスポンサー・カラー全盛期となった近代F1に於いても続いていた現象なのだ。
今回は、この我々を魅了してやまない”カラーリング”の歴史を振り返ろう。もちろん秀逸なものから、今考えても冗談みたいなものまで、様々なデザイン/カラーのマシンが存在した。そしてそこに見え隠れするチームやスポンサーの野望。”走る世界的広告塔”であるF1のカラーリング/デザインの謎に迫る。

まず、かつてFIAに登録されていた主な”ナショナル・カラー”を見てみよう。登録されていたのは全部で33ヶ国、しかし当然国旗のカラーのみで決めると複雑になったり、同じになってしまう国が存在するので、このような取り決めとなった。
イタリア=赤
フランス=青
イギリス=緑
ドイツ=白
ベルギー=黄
ニュージーランド=橙
オランダ=オレンジ
南アフリカ=金

フェラーリがイタリアン・レッドを纏うように、アルファロメオやマセラティ、フィアット、ランチアなど多くのイタリア・メーカーのマシンが赤くペイントされていた。同様にイギリスからはクーパー、ヴァンオール、ERAなどが緑、そしてフランスからはタルボ、マトラ、ゴルディーニなどが青いペイントのマシンで闘った。ちなみにドイツは1934年以前は白で、メルセデス・ベンツやポルシェ、アウトウニオンらがホワイトのマシンで出場していた。が、ある日、現在に至る伝説のきっかけとなる重大な出来事が起る。

□シルバー・アローの意外な由来
1934年6月、メルセデス・ベンツはニュルブルクリンクで3.4リッターV8エンジンを搭載し、社運を賭けたニュー・マシン、メルセデス・ベンツW25をデビューさせた。しかし、最大重量750kgの規定に対し、レースの前日の車検でW25の重量が751kgであることが発覚。アルフレート・ノイバウア監督は「完全に計算し尽くされたこのマシンから1kgも重量を落とすために外せるパーツなどひとつも存在しない」と落胆。居合わせたドライバーのフォン・ブラウヒッチュは「このままではメルセデス/全てのドイツ人の顔に”泥を塗る”ことになってしまう」と嘆いた。
が、このブラウヒッチュの”泥を塗る”という言葉を聞いたノイバウアは、「そうだ、マシンの塗装を剥がすんだ!」とメカニックに命じた。チームが徹夜でドイツのナショナル・カラーである白い塗装を剥がすと、そこにはアルミ剥き出しの銀色のマシンが現れた。そして塗装を剥がされたW25は軽量を750kgジャストでパスし、ブラウヒッチュはニュルのコース・レコードを記録して優勝した。翌日、ドイツの新聞は”銀の矢の勝利”と書き立て、以来メルセデス・ベンツの代名詞はシルバー・アローとなったのである。従って銀はドイツのナショナル・カラーでもメルセデス・ベンツの社色だったわけでもなく、現場の人間による機転の利いたアドリヴの産物だった、というわけなのだ。

□日の丸カラーは妥協の結果
トヨタ、スーパーアグリ、BARホンダ、フットワークなど、日本資本のチームは大抵が白地に赤、のデザインである。それは疑いようもなく、日の丸カラーを意識したものだが、いずれも白地に赤のデザイン・ペイントであり、厳密な日の丸デザインではない(BARホンダのラッキーストライク・カラーはやや日の丸的だったが)。もちろんレイトンハウスのように、広告効果を優先して独自のカラーリングを施した例もあるが、かつては’74年に日本からF1にチャレンジしたコンストラクターであるマキF101、’77年のコジマKE009(日本GPのみ)、’96年の童夢F105(テスト走行のみ)などの日本のコンストラクターが日の丸カラーを纏った。が、もちろんこの日の丸F1にも元祖が存在する。
’64年、ロータスの裏切りによってシャシーも制作し、予期せぬチーム参戦を決行することとなったホンダは、創始者である本田宗一郎の「日本は黄金の国だ。マシンには金箔を塗っちまえ!」のひとことで、ホンダF1の1号車であるRA271をゴールドにペイントする。が、FIAは「ゴールドは南アフリカのナショナル・カラーである」と却下。困り果てた中村良夫監督に、FIAの担当者が「アイボリーではどうか」と提案するが、母国本社、いや宗一郎は自らの提案を却下されたことに憤慨。そこでFIA担当者が「だったら赤い丸を入れて日の丸カラーにしたらどうか」と再提案。宗一郎もそれなら、と受諾、こうして日の丸カラーのホンダF1は妥協の結果誕生したのである。

□母国の威信を賭けて
ナショナル・カラーが義務ではなくなって以降も、もちろん好んでその色を使用するチームは多数存在する。フェラーリの赤がいくら絶対的であっても、’80〜’90年代のF1バブル期にはスクーデリア・イタリア/ライフなどの小規模なイタリアン・チームがフェラーリ同様にマシンを赤くペイントし、リジェ/プロストはフレンチ・ブルーに、ジャガーがブリティッシュ・グリーンに、近年ではオランダのスパイカーが母国のナショナル・カラーである橙色にマシンをペイントしていた。ちなみにマクラーレンのニュージーランド(創始者ブルース・マクラーレンの出身地)はオレンジだが、数年前までシルバーであるべきマクラーレンが、シーズン前のテスト時などにオレンジ色のマシンを走らせていたのを記憶している方も多いだろう。
そんな中にあって、’91年にF1GPに挑戦したアイルランド人・エディ・ジョーダンのチームの処女作・ジョーダン191は、見るも鮮やかなアイリッシュ・グリーンで人々を魅了した。スポンサーにも7Upなどのグリーンをイメージ・カラーとする企業を集め、参戦初年度からズバ抜けた速さを見せたこともあり、極めて美しいマシンとして’91年のベスト・デザイン・マシンにも選ばれた。
…..が、策士エディ・ジョーダンはその後毎年のようにスポンサーに合わせてマシン・カラーを変え、いつしかグリッド上で最も節操のないチームとなってしまった。特に’96年にタバコ・メーカーのベンソン&ヘッジスと組んだ際の”ゴールド・カラー”は不評で、シーズンのワースト・デザイン・マシンに選ばれている(…..)。

□走る広告塔
モーター・スポーツは金がかかる。それは今も昔も同じだが、ナショナル・カラーにメーカー・ロゴとカー・ナンバーしか描かれていなかった時代は、当然メーカーのレース部門への予算のみでレーシング・チームが運営されていた。しかし、多くの国を転戦する世界選手権という概念の中、ロータス・チームの総帥であるコーリン・チャップマンはこの金のかかるF1GPを何か有効に使う手立てはないものかと模索していた。
迎えた1968年第2戦スペインGP、ロータスはそれまでのブリティッシュ・グリーンのカラーリングを捨て、車体を赤と白でペイントし、タバコ・メーカーであるゴールド・リーフのロゴを描いて登場した。これを機にロータスは”ゴールド・リーフ・チーム・ロータス”と名称を変更し、現在へと受け継がれる”冠スポンサー時代”の幕開けとなったのである。
以降、どれだけ多くののタバコ・メーカーがF1GPを彩ったかはご存知の方も多いだろう。特に’70〜’90年代にかけてはタバコ・メーカー無くしてモーター・スポーツは語れなくなった。しかしそれもヨーロッパを中心に広まったタバコ広告規制によって減少し、2010年現在もチーム名にタバコ・メーカーが入っているのはスクーデリア・フェラーリ・マールボロのみである。が、このマールボロは既にモーター・スポーツの代名詞とも言える存在であり、現状マシンにロゴを描けない時代となっても、既にその存在はF1にとって不可欠なものと言える。

□マールボロ・カラー
世界的に有名なデザインのひとつである赤と白のマールボロの絵柄は、白いタバコに口紅が付着した状態、つまり女性が手に持った白いタバコのフィルター部分に付いた口紅を描いたものである。それがタバコ同様に四角いフォルムを持つ自動車前部(ボンネット部)に描くのに丁度良かったのは事実だが、”オープン・フォーミュラ”という特殊な形状に対するペイントのセンスが実に絶妙だった。マシンを白地に塗り、細く長いノーズ部分に口紅跡のデザインを施し、最も目立つリア・ウィングにMarlboroの文字を描いたそのデザインはフォーミュラ・カーの代名詞となり、’70年代には黒地に金のJPSロータスと並んで秀逸なものとなった。しかも、マールボロは実際のパッケージに使用されている塗料よりもオレンジに近い赤を採用。これは「サーキットで太陽光を受けた際に濃い色だと黒っぽく見えてしまう」という理由によるもので、実際フェラーリの赤とも違う絶妙な配色がそのイメージを確たるものとした。まさに広告のために行われた見事な決断と言える。

□タバコ・メーカーの遊び心
モーター・スポーツの代名詞となったタバコ・メーカー/銘柄は前述のゴールド・リーフ、JPS(John Player Special)、マールボロ、そしてキャメルやラッキー・ストライクなどがある。それはフォーミュラ・カーに留まらず、ラリーや2輪の世界に於いても同様であり、基本的にはモーター・スポーツ=男の世界、というイメージからその流行へと繋がったものと考えられる。これによって例えばマールボロ・マクラーレンは赤白、JPSロータスは黒、などのカラーリングがタバコ本体のパッケージングと類似し、広告効果は絶大なものとなった。
’77年第16戦日本GP。JPSロータス・チームはマリオ・アンドレッティ/グンナー・ニルソンのふたりのドライバーを擁して来日。が、予選直前にピットでマシンが組上げられると、カー・ナンバー6のニルソン車のみがJPSの系列銘柄であるワイン・レッドのインペリアル・カラーへと塗り替えられた。決定が急遽だったために富士スピードウェイ付近の塗装業者が一斉に駆り出されての突貫作業となったが、我々日本人ファンにとっては1戦のみの想い出深いカラーリングとなった。
’86年最終戦オーストラリアGP。赤と白のが代名詞のマールボロが、このレースで引退するケケ・ロズベルグに粋なプレゼントを贈った。チーム・メイトのアラン・プロスト車はそのままに、ロズベルグ車を黄色と白の”マールボロ・ライト”カラーに塗ったのである。ロズベルグはパドックでも有名なヘビー・スモーカーであり、このプレゼントに感激しつつも「ライトじゃ物足りないよ(笑)」と彼流のジョークで感謝の気持ちを表していた。

□似た者同士
さて、そのF1のカラーリングの代名詞であるマールボロは、決してマクラーレンとだけ蜜月の日々を送って来たわけではない。多くのドライバーを個人サポートし、また多くのチームを支援して来た。’81〜’83年、イタリアのアルファロメオはマールボロの支援ドライバーであるブルーノ・ジャコメリ、マールボロの親会社であるフィリップ・モリス社重役の御曹司であるアンドレア・デ・チェザリスらが在籍していたことからマールボロ・カラーにペイントされた。しかしこれによって遠目ではマクラーレンと全く区別が付かなくなり、特に正面からのショットではカー・ナンバー以外の識別は極めて困難となった。
…..もっとも、これは昨年起きた事件に比べればシンプルな出来事である。’09年最終戦アブダビGP、トロ・ロッソのドライバー、ハイメ・アルグエルスアリはギア・ボックスの不調を訴え、レッド・ブルのピットに入った…..なんか、どうにかして貰えそうな気がしないでもないが、アルグエルスアリは自分のチームと良く似たカラーリング/同一ロゴの兄弟チームのピットを、自分のピットと見間違えてしまったのである。マシンそのものは良く見れば青基調のレッド・ブルに対して赤基調のトロ・ロッソ、と確かに違うのだが、何しろ同じレッド・ブルのロゴ、しかも’08年のコンストラクターズ順位で並ぶピットは隣同士。同情も笑いも起きる事件だったが、ブ厚いバイザー越しに見るドライバー本人達にとっては重大なことなのだろう。

□苦肉の策
そのレッド・ブルとトロ・ロッソが同じオーナー/スポンサーによる兄弟チームで、良く似たカラーリングを施したのに対し、同一チームの2台のマシンのカラーリングを銘柄で分けようとした例がある。
昨年撤退したホンダの前身、BAR(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)は見ての通り、BAT(ブリティッシュ・アメリカン・タバコ)資本のレーシング・チームである。F1参戦初年度の’99年、彼らは2輪で有名なラッキー・ストライク(白)と、ラリーで有名な555(トリプル・ファイヴ/青)の傘下のふたつの銘柄に2台のマシンを塗り分けることを発表した。しかしFIAは「同一チームの2台のマシンは基本的に同様のカラーリングでなければならない」とこれを突っぱねた。既にBARはジャック・ヴィルヌーヴ車をラッキー・ストライク、リカルド・ゾンタ車を555カラーにペイントした新車を公開していたが、紆余曲折あって結局異なるカラーリングの2台案は却下され、BARはマシンのノーズにファスナーを描き、左側を555、右側をラッキーストライク・カラーに塗った。なんとも単純な結末に世論はそのデザインの是非を議論したが、少なくともこの騒ぎでマスコミに取り上げられた回数を考えれば、BARの広告戦略は成功した、と言える。

□現実主義
マシンのカラーリングやロゴは、何もデザインを優先して行われるとは限らない。イギリスの名将ケン・ティレルは独自のビジネス論を持ち、自らのチームのマシンは”ティレル・ブルー”とも呼ばれる鮮やかな青色にペイント、そこに描かれるスポンサー・ロゴは可能な限り最小、という美学の持ち主だった。
’89年、マールボロ・ドライバーだったミケーレ・アルボレートがシーズン途中にチームを離脱、第7戦フランスGPからティレルは国際F3000王者の新鋭、ジャン・アレジをデビューさせた。その際、キャメルの支援ドライバーだったアレジを乗せるため、ティレルは青のカラーリングにキャメル・イエローを足さなければならなくなった。そこでケンが出した答はエンジン・カウル部分のみ黄色でCAMELの文字という、お世辞にもスタイリッシュとは言えないカラーリングだった。「キャメルがチームに齎してくれた金額はこれくらい、ということだよ」とは、何とも名将のケンらしいジョークである。

□ユナイテッド・カラーズ
F1が商業的に成功し、テレビ中継などで世界的な人気を誇るようになると、多くの”流行企業”達が、こぞってF1マシンを広告媒体として捕らえ始めた。’77年のヘスケス308Eはスポンサーにアダルト向け男性誌で有名な”PENTHOUSE”が付き、マシンのサイド・ポンツーンには横たわる半裸の女性のイラストが描かれた。これはテレビ観戦する子供達にとっては少々刺激が強過ぎるデザインだった。が、この頃から徐々にF1マシンのカラーリング/デザインは洗練されて行く。
極めつけはベネトンだろう。当初はティレルやアルファロメオのスポンサーとして参戦、チームのマシンをユナイテッド・カラーズ・オヴ・ベネトン”らしく派手にペイント。しかし’86年にトールマンを買収してベネトン・F1チームとすると、マシンをキャンパスに見立てて派手な彩色を行った。フェラーリの赤でも、マクラーレンの赤白でも、ロータスの黒でもない、赤/青/黄/緑などをふんだんに使った独自のカラーリングでグリッドを彩ったのである。この流れは’91年にキャメルのスポンサードを受けてイエローに塗られるまで続くが、F1史上間違いなく”最も派手なカラーリング”だったチームである。
派手と言えば…..’93年のローラT93はその戦闘力の低さも相まって多くのメディアから”F3000以下のセンス”と揶揄された。白地に燃える炎を描いたそのカラーリングは、確かに洗練されたデザインとは程遠かったことは事実である。

□ありがたくない通称
’90年、実に19チームものエントリーで予備予選が実施されていたこの年、期待されていたスバル水平対抗12気筒エンジンで大失敗したコローニ・チームは、問題のスバルV12から信頼性の高いコスワースV8にエンジンをスイッチしても相変わらず予選通過が壁となっていた。チームは日本/オーストラリアの最終2戦にスポット・ドライバーの起用を決め、その座は日本の新鋭、服部尚貴が射止めた。しかしチームの資金不足は変わらず、チームは一口2万円で個人スポンサーを募り、マシンのカウルに出資者の名前を記して行くという策を取った。人の名前がビッシリと書かれたコローニのマシンは”耳無し芳一”と揶揄されたが、結局このマシンが決勝レースを走ることはなかった。ファン自らが「我々の手で」と立ち上がったことは特筆に値するが、それを実現出来ないチームに生き残る術はないこともまた事実であった。
ルノーのチーム・カラーは黄色である。’77年、F1初のターボ・エンジン・マシンであるRS01を擁してF1に参戦したルノーは、レース中に度重なるエンジン/ターボのトラブルで毎戦のように白煙を上げ、コース・サイドにストップしていた。それを見たマスコミが付けたニック・ネームは”イエロー・ティーポット“。’85年に一旦撤退し、エンジン・マニュファクチャラーとしての大成功後、ベネトンを買収して再びワークス・チームへと復活したルノーは、今季新たなパートナーと共に、デビュー当時のイエローを纏ってグリッドに着く。昨シーズン、エンジンの信頼性が問題となったルノーに、再び妙なニック・ネームが復活しないことを祈る。

□本末転倒
…..この原稿を書いている時点で、最終的にシーズン開幕時にどうなっているのか、は解らない。が、昨年いっぱいでBMWが撤退し、チーム創始者であるペーター・ザウバーによってチームが買い戻され、紆余曲折の末に救済処置で’10年シーズンへの参加が認められたザウバーは、高額なチーム名称変更を避けるため、今季もBMWザウバーを名乗ることになる。が、エンジンはフェラーリ製なので、BMWザウバー・フェラーリとなる。そしてシェイク・ダウンされた彼らの新車、ザウバーC29は未だBMW時代の”BMWっぽいデザイン”のままである…..。

さて、多くのチームから’10年シーズンに使用する新車が公開され始めた。新たなシルバー・アロー伝説に向けて走り出したメルセデスGP、国旗を彩ったフォース・インディア、そして由緒あるブリティッシュ・グリーンを纏った新生ロータス…..。
多くのドライバー・シャッフルも含め、僅か1ヶ月後に迫った開幕戦バーレーンGPの中継で全てが見分けられるとは思えない。いやむしろ、メルセデスGPを見て「マクラーレンが…..」とか口走ってしまいそうな自分がいる…..。ともあれ、新たな色彩の共演に乞うご期待!。

「夢かと見まごう、鮮やかな色の集団」/高桐唯詩(1988年・フジテレビF1総集編より)

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