F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集 F1 STINGER 【スティンガー】 > スクーデリア・一方通行 加瀬竜哉 >  > 2010年1月27日  Icemanに捧ぐ

スクーデリア・一方通行/加瀬竜哉

謹んでご報告申し上げます。
『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。

[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。

[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己

Icemanに捧ぐ

スペインの英雄フェルナンド・アロンソが遂に真っ赤なレーシング・スーツに身を包み、栄光のフェラーリ・ドライバーとなった。皇帝ミハエル・シューマッハーは自らの恩人であるメルセデスと共にF1サーカスに帰還、新王者ジェンソン・バトンは祖国の新星ルイス・ハミルトンと共にマクラーレン帝国を背負い、これを迎え打つ。’10年は21世紀の4人の世界チャンピオンが激突する、極めてハイ・レベルなシーズンとなるのである。
…..4人?。いやもうひとり、21世紀を代表する世界王者がいた筈である。…..そう、’07年王者キミ・ライコネンは’10年のF1世界選手権にエントリーしていない。アロンソ獲得劇の裏でフェラーリのシートを失い、マクラーレンとメルセデスの訣別の影で行き先を失ったライコネンは、’10年の活動の場をラリーに求めたのである。
筆者が”no race, no life“シリーズで連載して来た”記憶に残る名ドライバー”シリーズでは、基本的にF1を”去った”ドライバーのみを取り上げて来た。現状ライコネンがF1に帰って来るかどうかは解らない。しかし、このアロンソの跳馬移籍、シューマッハー復活とメルセデスGP誕生の裏で忘れ去られて行くべきレーシング・ドライバーではない。が、ライコネン自身にとってのレーシングが果たして本当にF1にあるのか、の答も定かではない。
彼が再びF1へと戻って来ることを心から願いつつ、ライコネンを”記憶に残る名ドライバー”として取り上げることにする。

記憶に残る名ドライバーvol.10 キミ・ライコネン

キミ・マティアス・ライコネンは1978年10月17日、フィンランド2番目の大都市であるエスポーにて誕生。4,000gを越える大きな男の子だった。父マッティは大型の工事用車両を運転し、母ポーラは事務員として働く、ごく普通の家庭である。ライコネンは幼少期から無口で両親を心配させたが、5歳の頃にひとつ歳上の兄・ラミの影響でモトクロスに夢中になり、ドライビングに魅了されたライコネンは8歳の時にカート・キャリアをスタートした。「完全に自分だけの世界なんだ。誰にも何も言われず、運転に集中することが出来る」無口な少年はたちまちレースにのめり込み、国内の選手権を次々と制覇して行った。’98年、インターナショナル・カート・チャンピオンとなったライコネンは翌’99年にフォーミュラ・フォードへとステップ・アップする。しかし資金難で参戦継続を断念、冬期に行われるフォーミュラ・ルノーのウインター・シリーズにマノーから参戦し、出場4戦を全勝。マノーに高評価されたライコネンは翌’00年のイギリス選手権でレギュラー・シートを獲得、10戦7勝/全戦表彰台という圧倒的な強さでチャンピオンとなった。同年、F1チームであるザウバーからF1マシンのテストの機会を与えられ、9月のヘレス・テストで初めてF1マシンを走らせる。「キミの走りは素晴らしかった。今契約しておかないと絶対後悔すると感じたんだ」ペーター・ザウバーはこの若き天才に惚れ込み、翌’01年のレギュラー・ドライバーとして契約することを決めた。
…..カート以降、たった23戦のフォーミュラ・キャリア。それもF3すら未経験のF1デビュー。この前代未聞の人事にFIAは「待った」をかけた。当時、ドライバーへのスーパー・ライセンス発給はF1直下のF3000、または各国でのF3での成績が大きく影響し、当然ながらF3以下のカテゴリーしか経験のないドライバーへのライセンス発給は前代未聞であった。ザウバーはライコネンに計4,800kmに及ぶF1テスト走行の機会を与え、どうにかFIAを説得しようと試みた。結果、マックス・モズレーFIA会長は”4戦分のみの暫定ライセンス”発給を許可した。つまり、ライコネンは”仮免許”でF1世界選手権に参戦し、その走りを評価した上で正規のライセンスを発給するか否かを試されることとなったのである。

’01年開幕戦オーストラリアGPに向け、2月下旬にライコネンは生まれて初めてボーイング747に乗り、そして生まれて初めてヨーロッパ大陸を離れた。彼のチーム、ザウバーには’99年国際F3000王者のニック・ハイドフェルド。同じ年にデビューするドライバーには国際F3000/CART王者のファン・パブロ・モントーヤ、そして前年国際F3000選手権4位/若干19歳のフェルナンド・アロンソらがいた。周囲は明らかにこの”経験不足の新人”を冷ややかな眼で見ていた。が、ライコネン自身はそんな周りの空気をこれっぽっちも気にせず、マイ・ペースで初めてのF1ウイークを過ごしていた。予選はチーム・メイトのハイドフェルドが7位と絶好のグリッドを獲得、初予選となるライコネンは13番手。トップ・チームであるウィリアムズからデビューのモントーヤ(予選11位)よりもパドックの注目を集めた。迎えた決勝。スタート前、各ドライバー/チームは開幕戦恒例の”ドタバタ”の渦の中で、如何にこのレースを闘い抜くかの準備に追われていた。
ピット・レーン・オープン15分前。ライコネンの姿はピットの何処にもなかった。ザウバーのマネージャーであるベアト・ゼンターはライコネンを探しまわり、ようやくモーター・ホームのベッドに横たわっているライコネンを見つけた。「きっと、デビュー戦前夜は緊張して眠れず、レース直前の緊張感で冷や汗をかいて震えているんだろうと思ったんだ。ところが、キミは大きないびきをかいて眠っていやがったのさ!」ゼンターに起こされたライコネンはまだ開ききらない眼をこすりながらマシンに乗り込み、そして波乱のレースを走りきり、なんと6位1ポイントを獲得して帰って来たのである。「キミ、凄いぞ。初レースで初入賞だ!」「ふーん、そう…..」ライコネンは周囲が呆れるほど冷静だった。しかし、この仮免ドライバーのセンセーショナルな快走はFIAのド肝を抜き、今度こそ文句なしで正式ライセンスが発給された。その後もライコネンの快走は続き、第6戦オーストリア、第8戦カナダで4位入賞。最終的に9ポイント獲得でドライバーズ・ランキング10位。だがその数字以上に、ライコネンの走りは注目の的となった。ペトロナス名義でザウバーにエンジン供給する王者フェラーリがライコネンに興味を示し始める。が、それよりも早く、もうひとつの帝国がこの若き天才獲得に動いた。ライコネンはたった1年のF1キャリアで、引退する母国の英雄、ミカ・ハッキネンの後任としてマクラーレン・メルセデスへと抜擢されたのである。
「キミは凄いヤツなんだ。必ず世界チャンピオンになるよ」’98、’99年と2年連続で王者となったハッキネンはロン・デニスに対し、自らの後任としてライコネンを薦めた。’02年、フォーミュラ・キャリア僅か40戦でトップ・チームのシートを得たライコネンは開幕戦から最速ラップを樹立する速さを見せ、第11戦フランスGPではシューマッハーのフェラーリを抑えて堂々のトップ快走、しかしコース上のオイルに乗ってスピンし、惜しくも初勝利ならず。シーズンを通して17戦中リタイア10回と、マシン/エンジンの信頼性には恵まれなかったが、計24ポイントを獲得してランキング6位。
チーム2年目の’03年第2戦マレーシアGP。好調のアロンソ/ヤルノ・トゥルーリのルノー勢がフロント・ロウを占め、ライコネンは7番手。スタートの混乱をくぐり抜け、オープニング・ラップで4番手へ。チーム・メイトのデビッド・クルサードが電気系トラブルで離脱し、最初のピット・ストップを終えてライコネンはトップに立つ。その後方ではアロンソとフェラーリのルーベンス・バリチェロが激しく2番手を争っており、その間に逃げを打ったライコネンが独走で遂に初優勝。「まだ実感がないよ。きっと家に帰ったら解るんじゃないかな」あくまでも冷静なライコネンはこの年、最終戦までシューマッハーとタイトルを争う活躍を見せ、僅か2点差でランキング2位となった。’04年、マクラーレンMP4/19はナーバスなマシンとなり、前半戦は不調。チームが改良型のMP4/19Bを投入するとたちまち速さを取り戻し、第13戦ベルギーGPを勝利。翌’05年は7勝/ポール・ポジション5回/最速ラップ10回の活躍を見せるも、ルノーのアロンソに敵わずランキング2位。「もっと勝てた筈だった」またもマクラーレンの信頼性の犠牲になったシーズンだった。そして’06年、新車MP4/21は完全な失敗作となり、ライコネンはチームへの不信感を強める。折しもライバル・フェラーリは皇帝シューマッハーの引退に揺れ、その後任としてライコネンに白羽の矢を立てていた。未勝利に終わったこのシーズンを最後にライコネンはマクラーレンを離れ、フェラーリへの移籍を決めた。

’07年、跳馬の一員となったライコネンは開幕戦オーストラリアGPでポール・ポジションから1度も首位の差を譲ることなく優勝。最速ラップも樹立し、フェラーリ移籍初戦をハット・トリックで終えた。しかしシーズン中盤に古巣マクラーレンが王者アロンソとデニスの秘蔵っ子であるハミルトンの活躍により躍進。残り2戦の時点でこのふたりがタイトルを争う影でライコネン自身はトップのハミルトンと17点差のランキング3位。タイトル獲得はほぼ絶望的な状況だった。しかし第16戦中国GPで優勝、ハミルトンはリタイア/無得点。首位とのポイント差を7点として迎えた最終戦ブラジルGP。お互いを意識し過ぎたマクラーレンのふたりが潰し合うのを尻目にライコネンは連勝、アロンソ3位/ハミルトン7位、マクラーレンのふたりに対し、たった1点差でライコネンが初タイトルを獲得したのである。これはF1史上稀に見る接戦であり、最終的にライコネンが逆転タイトルを獲得するとは誰も予想出来なかった。しかし、ライバル対決でヒート・アップするマクラーレンのふたりを尻目に、淡々と自分のレースを行ったライコネンが見事にシーズンを制したのである。「言葉では説明出来ない。でも僕らはそれを実現した。振り返ってみれば良いシーズンだった。チームや関係者の皆にお礼を言いたい」…..クールなライコネンにしては”極上の”ホットなコメントである。

しかし’07年をピークにライコネンを取り巻く状況は一変した。’08年は確実に力を付けて来たチーム・メイト、フェリペ・マッサがライコネンを上回り、シーズン最終戦までマクラーレンのハミルトンとタイトル争いを繰り広げ、翌’09年はKERS開発やシーズン序盤のディフューザー問題などでフェラーリが出遅れ、第12戦ベルギーGPでの1勝のみでシーズンを終了。更に、フェラーリはもう1年契約の残っているライコネンを放出し、アロンソの起用を決定。マクラーレンやレッド・ブルが獲得に動いたが、ライコネンは以前から興味を示していたWRCへの転向を決断。「F1のドアは閉じていない」としながらも、事実上一旦はF1を去る決意を固めた。
出走157戦、優勝18回、ポール・ポジション獲得16回、最速ラップ35回。’07年王者ライコネンはF1に背を向け、新天地へと旅立って行った。

ライコネンを表す最も適切なひとこと。それは100パーセント間違いなく”アイスマン”である。当の本人はこのジャーナリスト達が付けたニック・ネームが気に入ったようで、自らヘルメットに”Iceman”とペイントし、左腕にはIcemanのタトゥーまで入れている。これはもちろん冷静/無口でマイ・ペースなハンサム・ガイ、というクールな意味合いだが、ライコネンのそれは一般的なレーシング・ドライバーの領域を遥かに超えている。もちろん、ライコネンは笑う。が、その笑みは商業的/社交辞令的な意味合いを持たず、心から自分が楽しんでいる際にしかお目にかかれない。例えレースに勝ち、表彰台の真ん中でシャンパンを振っていても、何処かつかみ所のない冷静な表情を浮かべていることがある。が、これは巨額の投資を行うスポンサーにとっては”イメージ”という部分で非常に重要である。事実、ライコネンはいくつかのスポンサー・イベントをすっぽかし、その間マイ・ペースな”個人活動”を行った前科がある。
「俺がスポンサー・イベントに出席した数はキミの3倍くらいだね!(笑)」とはマクラーレン時代のチーム・メイト、クルサード。「彼は自分が興味のないことはしない主義なんだ。おかげでこっちは大忙しだけどね」フェラーリ恒例のスキー・イベントに新加入したアロンソと共に出席したマッサは「フェルナンドとは既に3年間一緒にいたキミよりたくさん話したよ」とジョークを飛ばした。「でも、キミとは別に話をしなくても上手くやって行けたんだけどね」ちなみに、マッサが’09年第10戦ハンガリーGP予選で瀕死の重傷を負った際も、ライコネンからは見舞いのひとこともなかったという。「別に気にしてないよ。だって彼はそういう人だからね」行動とは裏腹に、ライコネンの性格を嫌う関係者が少ないのも興味深い事実である。フェラーリ代表のステファノ・ドメニカリは「キミは非常に優秀なドライバーだったが、とても”閉鎖的”な人物でもあった。今のフェラーリにとって必要なのはアロンソのようにチームを牽引出来る人物なんだ。かつてのミハエルのようにね」それは確かにライコネン向きの仕事ではない。
また、ライコネンの英語に対する”苦手意識”も、元から無口なライコネンのイメージを助長している。フェラーリ在籍時にもイタリア語を「勉強が大嫌い」と全く覚えず、ティフォッシの反感を買うこともあった。が、世間がどんなイメージを持とうともそのマイ・ペースぶりを崩さないというのが”アイスマン”たる所以なのである。

ライコネンのマイ・ペースぶりを象徴する事件は数え切れない。中でも’06年第7戦モナコGPは有名な一件だろう。2位でセーフティ・カー先導中の51周目、防熱版から火が出てリタイアを余儀なくされたライコネンはマシンを降りるとそのままピットへは戻らず、自身の所有するクルーザーへ直行、水着姿で仲間と共に酒を呑みながらレースを観戦する姿が国際映像に捕らえられた。当然パドックでは「職場放棄だ」と揶揄されたが、多くのライコネン・ファンはこれを「信頼性の低いフェラーリに対する最高のアピール」と支持した。
大雨でレースが赤旗途中終了となった’09年第2戦マレーシアGP。ライコネン/フェラーリ陣営はタイヤ交換戦略に失敗して後方へ下がり、31周目/残り24周の時点で雨足が強くなりレースは中断。各車がグリッドで再スタートを待つ間、ライコネンはマシンを降りてそそくさと着替え、偶然にもピットの冷蔵庫からアイスクリームを取り出してモーターホームへ消えて行く場面が国際映像に映し出されてしまった。これでライコネンは「アイスマンではなくアイスクリームマンだ」と揶揄され、レース放棄疑惑が流れたが、フェラーリからはいずれにしてもライコネンのマシンはKERSのトラブルで再スタート出来なかったと釈明。レース結果は14位となった。
タイトルを獲得した’07年の開幕戦でF1関係者が大忙しだった頃、ライコネンは”ジェイムズ・ハント“という恐れ多い偽名を使ってスノー・モービルのレースに出場し、優勝した。シーズン中には祖国・フィンランドで友人のスピード・ボートのレースに参加。多くの観客がライコネンがやって来ることを知っていたが、本人が騒がれるのを避けようとゴリラの着ぐるみで登場、まんまと観衆を出し抜いた。
またライコネンの祖国フィンランドは徴兵制度を持つ国である。当然ライコネンにもその義務を果たす必要があり、マクラーレンに移籍した頃には兵役についてもいた。「フィンランドとの往復は大変だった。それでも僕は国際レースに出場していたので70日ほど余分に休暇を貰えたんだ」実は”無許可離隊”でライコネンが収監された経験がある、という事実はあまり知られていない。

最速ラップ35回、というのはF1歴代3位の記録である。ちなみに1位はミハエル・シューマッハーで76回、2位はアラン・プロストの41回。デビュー9年/僅か30歳でこの数字は如何にライコネンのレース中のラップが速いかと同時に、勝利と予選トップの2倍近い数字であることからその安定性に疑問符が付くデータでもある。つまりライコネンは予選で本領を発揮しきれず、最終日の決勝では速いがリタイアが多い、という結論である。よって、当然チームとしてはブリーフィングなども含め、ライコネンに更なる”学習”の場を求める。が、当の本人は自らの感性を信じ、本能的な行動で結果を出す。極端に言えば、集団行動やチーム戦略はライコネンに向かないのかも知れない。しかし、それは多くのチーム・スタッフ/メーカー、スポンサーなどを代表して闘うこのカテゴリーでは通用しないことをも意味する。少なくとも、シューマッハーがフェラーリで行ったのはまさにそれだからである。
「我々のチームにとって、予選でトップ10に入るというのは素晴らしい出来事だったんだ。ところが、彼はそうでもなかったらしい」F1デビュー1年目、ザウバーのテクニカル・ディレクターだったウィリー・ランプは、若きライコネンの冷静さに驚いたひとりである。「だがその姿勢は我々チーム全体の士気にとても良い影響を及ぼした。彼が4位になって大騒ぎしていたら、キミは『倒さなきゃならない相手がまだ3人いる』と言ったんだ!」そしてライコネンは栄光のフェラーリ・ドライバーとなり、世界王者となった。もしかしたら、ライコネンの”倒すべき相手”は、もうF1にはいないのかも知れない。

筆者選出、キミ・ライコネンのベスト・レースは’05年第18戦日本GP。予選は雨で混乱、17番手スタートとなったマクラーレン・メルセデスのライコネンは序盤から積極的に仕掛け、セーフティ・カー導入の混乱をくぐり抜けて14周目までに7位に上がる。29周目にフェラーリのシューマッハー、ルノーのアロンソとの壮絶な5位争いを制し、41周目にトップを行くトヨタのラルフ・シューマッハーが3回目のピット・ストップで後方へ下がると、ライコネンがトップに立ち、アロンソのチーム・メイトであるジャンカルロ・フィジケラのルノーとの優勝争いとなった。45周目、ライコネンが最後のピット・ストップを終え、最速ラップを更新しながら猛然とフィジケラを追う。その差は1周ごとに縮まり、遂にファイナル・ラップの1コーナーでフィジケラをキャッチ。グランド・スタンドが総立ちとなる中、劇的なオーバー・テイクでフィジケラを豪快にアウトから抜き、実に16台抜きの勝利を掴んでみせた。眼の前でこんなシーンを見せられた日本のファンはたまらない。ライコネン自身も「今日の勝利は僕のキャリアの中でもベスト」と喜び、チェッカー直後は珍しく両手を振り上げて勝利を喜んでいた。アイスマンが見せた心からの喜び。日本にライコネン・ファンが多いのも頷ける。

現在ライコネンは”ラリー・ドライバー”である。元よりラリーへの興味を公言していたライコネンだったが、’10年はレッド・ブルとの1年契約により、シトロエン・ジュニア・チームのドライバーとして12戦に出場する。「この素晴らしいチャンスをくれたレッド・ブルに感謝する」ライコネンはWRC転向を決める以前、マクラーレンとレッド・ブルへの移籍が囁かれていた。ライコネン自身も「トップ・チーム以外では走らない」と名言。ライコネンのマネージャーであるスティーヴ・ロバートソンは「メルセデスGPからもオファーがあったが、その時既にキミはWRCへの転向を決めていたんだ」と明かす。シトロエンのオリビエ・ケネルは「もしもキミが素晴らしい結果を残すようであれば、’11年にセバスチャン・ローブと共にファースト・チームに加入出来るかも知れない」とライコネンのラリー転向を歓迎している。が、ライコネンの加入したレッド・ブルはセバスチャン・ヴェッテル/マーク・ウェバー共に’10年末で契約が切れるため、1年間のラリー活動の後にレッド・ブルからのF1復帰、という筋書きが推測されている。
が、恐らくマイ・ペースなアイスマン・ライコネン自身は”自分に正直に”生き、そして選択するだろう。筆者個人としては近代F1の枠をブチ破る豪傑のひとりとして、まだまだF1でライコネンの暴れっぷりを見ていたいと心から願う。

「今はF1よりWRCのタイトルの方が魅力的なんだ」/キミ・ライコネン

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