マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第4回
《浅間以前》の日本のレース


「――もう少し、浅間レース以前の状況を話させてください」と、リキさんは話をつづけた。

1945年に戦争が終わって、そして1955年に「第1回浅間高原レース」(通称)が行なわれるまでには10年間という時間がある。その間、日本のバイクと日本のレースは、どういう状況だったのか?

「まず、小型自動車を集めてのパレードが行なわれました。これは、小型自動車を世に認めさせようというもので、同時に『東京小型自動車商工組合』が作られていた。

戦後の復興は、小型自動車が握っている! そのことを、GHQの高官や政府に知らしめたかったんですね」

この「パレード」が、東京~箱根間で行なわれたのが1947年のこと。しかし、今日ではこれはいきなり、各種の「注」が必要なコメントではある。

まず「パレード」としたのは、二輪はいっぱい走りますが、これは競走行為ではありませんよ、というエクスキューズであった。そして、小型自動車とは、二輪車やオート三輪などを示す。

さらに「GHQ」とはジェネラル・ヘッド・クォーターの略で、1947年当時、まだ日本は連合軍の占領下にあった。日本を実質的に支配し各種の指示を発していたのは、日本政府ではなく、GHQと呼ばれた占領軍のトップだったのだ。

「ホンダのA型が登場したのは47年ですから、このパレードには加わっていたはずですね」

終戦後数年間の状況を、モーターサイクリスト誌増刊『国産モーターサイクルの歩み』から、いくつかメモしておく。記事は「国産モーターサイクルの歴史」、執筆は福永頌氏である。

戦後、二輪車の生産が開始されたのは、実質的には1946年からだった。1945年の生産量は270台でしかなく、そのほとんどは「陸王」だった。このとき、メーカーとして存在していたのは、陸王、宮田=アサヒ、昌和製作所の3社だけだった。
そして二輪車は、まずはスクーターの生産からはじまった。1946年、当時の富士産業(現・富士重工)がラビットを発表する。いまでいう広告キャンペーンガールに登場したのは人気女優の高峰秀子で、その短いスカートは鮮烈だった!
同年、新三菱重工(現・三菱重工~三菱自動車)も、スクーター「シルバーピジョン」を発表する。この2社は、ともに戦前からの航空機メーカーという共通点があった。

ラビットの開発について、スバル=富士重工業の社史「六連星はかがやく」は、以下のように記している。 「富士工業の三鷹、太田(呑竜)工場が母体となって、ラビット・スクーターを生産した。米軍落下傘部隊のスクーター『パウエル』が太田に持ち込まれ、これをもとに、『隼』の技術者たちがラビットを設計した」

ちなみに、1946年10月には、本田宗一郎が浜松でホンダ技術研究所を設立している。そして、「内燃機関及び各種機械の製造ならびに工作法の研究」を開始していた。

「戦後の復興は……というこうした業界の気概があったのは、あるいは、そのモトになっていたのは、二輪車などの小型自動車の産業、さらにはレースまでもが戦前からあったから」

なるほど、同じく『国産モーターサイクルの歩み』から、戦前の日本バイク史を紐解いてみると、戦前のおもなメーカーとしては、以下のようなメイクスが歴史に名を刻んでいる。ざっと年表にしてみよう。

1931: 「くろがね」の日本内燃機が軍用サイドカーの試作車を作る。
1932: 宮田製作所が「アサヒ」を作りはじめる。
1935: ハーレーダビッドソンを手本に「陸王」が作られる。

その三共株式会社はのちに陸王内燃機株式会社となる。これには陸軍の熱い後援があった。同年「キャブトン」誕生、このブランドはのちにみずほ自動車が製造を引き継ぐ。

1937: 目黒製作所「メグロ」の市販開始。500cc、単気筒。
同年、陸王のサイドカーが陸軍に採用される。「陸軍用97式側車付き」として大量生産へ。

こうした歴史を経て、日本は、

1941: 12月、真珠湾攻撃、アメリカに宣戦布告、太平洋戦争に突入。
1945: 終戦。

……という歴史をたどることになる。

「というわけで、小型自動車パレードが1947年ですね。そして、戦後初のレースがついに行なわれて、これが1949年の多摩川スピードウェイでのレースです。……あ、その前に48年の競輪法の成立ってのがあるか」

え?! リキさん、競輪法と二輪のレースに何の関係が?

「いや、根っこというか発想が同じなんです。あ、レースといっても、これはいまぼくらが考えるようなロードレースではないですよ。

舞台となった多摩川スピードウェイというのは、いまの二子玉川のあたりかな。1周1.1キロのオーバルのコースがあったといわれています。これはたぶん、陸軍の訓練場のひとつだったんでしょう」

1949年11月、その多摩川で「全日本モーターサイクル選手権大会」というイベントが開催された。

「先ほど、競輪法のことをいいましたが、このイベントは、ギャンブル・オートレースをやって、その収益で二輪産業を盛んにしよう、と。そういうプランが、まずあった。そしてこのレースは、そのギャンブル法を作るためのデモだった」

ちなみに、1948年に競輪法が成立。その意図は、自転車を普及させようというもの。 そして、多摩川でのこのレースのあと、1950年に小型自動車競走法が成立している。これをもとに、のちに船橋にオートレース場ができる。

「その船橋からの収益が二輪業界に回った。そこでメーカーがいっぱいできちゃってね! もう、雨後のタケノコ状態(笑)、その数は150以上200未満ともいわれた。

当時、サンダイ・メーカーというのがあって……。これは「三大」じゃなくて「三台」ね。つまり、バイクを三台作ったらつぶれちゃうメーカー(笑)」

しかし、一度レースをやってみると、逆にそこでの不備や足らざるものが見えてくる。

「でも、オーバルを回ってるだけじゃ、やっぱりいけない。バイクのほんとうの性能くらべをしようという動きが、これ以後、生まれてきます」

おお、それがあの《浅間》か?

「いやまだ、ちょっと待って(笑)。その《浅間』に行く前の段階がいくつかある」

浅間前夜。
名古屋で行なわれた『全日本選抜 優良軽オートバイ旅行賞パレード』。
旅行賞=TTレースという、なんとも牧歌的な発想だった。

1953年の3月、名古屋市が公道でのレースを企画した。その名は何と、「名古屋TTレース」である!

「この正式名がいいのよ、『全日本選抜 優良軽オートバイ旅行賞パレード』だからね(笑)。旅行賞、つまり、ツーリスト・トロフィーです、感じでてるでしょ(笑)。

そして、なぜパレードなのかというと、タイムは計らない、競走はしない、ということ。これで公道での走行を可能にした」

しかし、このイベント、結果的にはタイムが公表され、あれはレースだったじゃないか!ということになる。これを踏まえて、

「じゃあ、市街地や公道でなけりゃいいんでしょということで企画されたのが、富士山を登ろうというレースです。富士宮をスタートして、富士山の二合目まで登った。これは一台ずつ走って、タイムを計測しました」

こうして実施されたのが、1953年7月の「富士登山レース」だった。

「これが、ギャンブルやオーバルでない、日本における《二輪によるロードレース》のスタートでした。この富士登山レースのコンセプトが《浅間》につながっていきます」

とはいえ、競走をやってみるその目的は、あくまでもバイクの性能向上だった。だから、レースとはいえ、業界=バイクの作り手にとって何か有益なことがあるはずというのが、ここまでの「レース」だった。

リキさんはいう、

「だから《浅間以前》は、アマチュアがレース的に走るということはなかったんですよ。浅間にレースを見に行って、あ、こういうことなら俺たちもやってみたい!……ということになった。

それと、この頃は雑誌に外国でのレースの記事が、かなり載るようになっていた。当時の『モーターファン』は、二輪の記事も載っていましてね。

そういえば、二輪誌の歴史も古くって、その最古は創刊が大正12年、つまり1923年。この年に『オートバイ』誌は生まれてます」

……リキさんの熱いトークは、まだまだつづく!

(第四回・了)

(取材・文:家村浩明)



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