マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第8回
浅間ふたたび---ついに、浅間にコースができた


富士登山レースといういわばヒルクライムのイベントから脱し、もっと本格的なロードレースをやろうと、浅間の公道と牧場内の道を組み合わせたコースで、第一回の浅間レース(通称・浅間高原レース)が行なわれたのが1955年。

これには国内の19のメーカーが参加し、大いに盛り上がったイベントだったが、そうであればこその不満や欲もでてきた。

何よりのフラストレーションは、浅間高原レースが一部に公道を使用したものだったため、そのタイムが非公表であったことだ。タイムとはすなわちそのマシンの性能であり、それが不明というのではマシン性能のアピールもできず、何より、これはほんとのレースではない……という声がエントラント側から上がりはじめる。

さらには、そういった“及び腰”でレースをやっていても、それでは一般ユーザーの興味を引くことはできない。あくまでも業界内部のレベルにとどまってしまうのではないかという見解も浮上する。

そこから、これらの問題点を一気に解決できるであろう方策が企画される。そう、クローズドな専用のコースをつくって、そこでレースをしようというプランだ。

もうひとつ、こうしたレース専用のコースを作ろうという流れを後押しする、メーカーにとってのニーズがあった。それは「テストコース」の必要性である。

今日ではちょっと想像しがたいことかもしれないが、この50年代後半、日本には、レーシング・サーキットと呼べるようなものは何ひとつなく、同じく、バイクの性能をフルに発揮できるように設定されたテストコースも存在しなかったのだ。

公道がらみとはいえレースを一度やってみて、レースという高速走行がマシンの性能開発にもたらす影響は計り知れない。このことを、各メーカーは実感した。よりよいバイクつくりに、サーキットもしくはテストコースは必要だ! そして、それにともなう建設費が膨大であるなら、では、メーカー各社が合同して、そうしたコースの建設を行なえばいい。

この考えも、今日の視点では、やや奇妙なものに見えるかもしれない。ライバル関係にあるA社とB社が共同出資でサーキットをつくる?

しかし、この1950年代、バイク及びクルマの業界は若かった! 未知の領域がいっぱいあった。そして、対ライバルよりもっと重要なこと――日本のバイクが「世界」の基準からはまだまだ遅れていることを、各社が知っていたのだ。

こうして1956年、「浅間高原自動車テストコース協会」が設立される。このプロジェクトに参画したメーカーは、その車名で記すと、Honda、メグロ、ヤマハ、スズキ/コレダ、トーハツ、クルーザー、ポインター、ハリケーン、DSK、ライラック、陸王、ヘルス、メイハツ、アサヒ、ツバサ、トヨモーター、マーチン、フジモーター、ホスク、以上の19メイクスであった。

そして、その協会主導のもと、この年の11月から工事が開始され、1957年7月、浅間牧場の敷地内に、1周9.351キロのクローズド・コースができあがった。出資した各社が使えるテストコースという目的でのコースであったため、観客席に類するものは、はじめから設定されていない。

これで、浅間における第2回レースの準備が整った。専用コースが完成してから3ヵ月後、1957年10月の19~20日。第1回(浅間高原レース)と区別して、「第2回浅間火山レース」と名乗るレースが行なわれた。

このとき、第1回の浅間レースから、およそ1年8ヵ月の時間が経っていた。前回のレースに参加したメーカーは18社、そして今回エントリーしたのは11メーカー。この間に4社が倒産し、そして3社はレース場に姿を現わさなかった。

(第八回・了)

(取材・文:家村浩明)



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