マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第22回
流浪するロードレース 2 「え? 米軍基地が使える?!」


――でも、観衆5万人というのはすごいですね!

「すごいでしょう! そのくらいに、この頃、ロードレースを観たいという人、そしてそれをやりたい人というのはいっぱいいた。

そういう状況だったからこそ、“清原”への批判も大きかった。これは舗装路じゃないだろうってね。

ようやく、この場所(清原)をみつけて、そしてジェフ・デュークも来て……。そういう努力の結果、ようやくやれたレース。それはよくわかっているけど、それだけに、がっかりした部分も大きかったわけです」(大久保)

一方、ロードレースがこんな状況である反面、モトクロスはますます盛んになっていった。山野が多いという日本の立地もモトクロスには適合していたのだろうが、全国各地で、クラブ主催で競技が行なわれていた。

そして、そういうクラブ主催の競技に参加するため、また、自分たちでも楽しむために、日本各地に駐留する在日米軍人たちも、モーターサイクル・クラブを続々と結成していた。

それらのなかでも、東京西多摩の横田基地は、ちょっと別格の存在だったかもしれない。なぜなら、このベース(基地)では、その敷地内に特設のモトクロス・コースがあったからである。そして冬季以外は毎月のように、基地内のコースを日本人ライダーにも開放し、レースを行なっていた。

この横田では、モトクロスをアメリカ式に「横田スクランブル・レース」と呼んでいた。この呼び方に倣って、国内メーカーからは「スクランブラー」と称するオフロード志向のモデルが生まれてもいた。

そして、この横田基地のモーターサイクル・クラブ・メンバーから、ある提案が上がってくるのだ。

浅間でのレース開催が不可能になり、かろうじて宇都宮・清原で「第3回」を行なったものの、その後のロードレースは、どこでやる(やれる)のかさえ不透明な状態がつづいている。それを知った彼らは、「ロードレースを開催する“コース探し”が、そんなに難航しているのなら、米軍の基地を使うことを考えたらどうか?」と申し出たのだ。

「いま考えるとね、基地のなかは、航空機が発着するんだから舗装路には事欠かないとか、そういうのはわかるよね。ダートじゃ飛行機は走れないから(笑)。

でも当時は、だからといって、基地のなかでレースするなんて、日本人には思いつくことすらできなかった。そもそも、基地のなかがどんな風になっているのかも、まったくわからないんだから」(大久保)

しかし、基地内でレースをするという、この噂はガセではなかった。

当時の埼玉県武蔵町、これは現在の入間市だが、ここにあった「ジョンソン基地」が使えることになったのだ。この実現に、横田基地のクラブ・メンバーが活躍してくれたことはいうまでもない。(ジョンソン基地は、今日では航空自衛隊・入間基地になっている)。

そして、今度こそ、完全舗装のコースでレースができることを、参加メンバーに保証できる。ほんとうの「ロード」でのレース。これは、クラブマンにとっても、またワークスのライダーにとっても、長年の夢であった。

「でもねえ、今度は100%舗装だから……といっても、清原の例があるから、誰も信じなかったね、はじめは(笑)」(大久保)

しかし、その夢は実現した。

ジョンソン基地内で、格納庫と滑走路を結ぶ誘導路(タクシングウェイ)をストレートとして、それにコーナーを加えたコースが設定された。

1周の長さは約3.2キロ。そして、これらのルートのすべては、本当に真っ平らな舗装路面だったのである。

……ああ、それにしても、この1960~61年頃という時期、完全舗装で平らで、そして周回もできるというようなコース&ルートを設定することができるのは、日本広しといえど、駐留軍の敷地内しかなかったのである。

(第二十二回・了)

(取材・文:家村浩明)



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