リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第19回
自動車レースの曙、メーカーも仰天した寝耳に水の“グランプリ”開催宣言!

◆鈴鹿サーキットは二輪専用コースだという“大誤解”

――1962年・秋の鈴鹿サーキット竣工と、そのオープニングに行なわれた二輪のレースについて、いろいろとお訊きして参りましたが、今回から、いよいよ四輪のレースにフォーカスを移します。日本における本格的な四輪(自動車)のレースって、やっぱり1963年の《鈴鹿》が最初なんですよね?

「うーん、あれが本格的だったかどうかは、よくわかりませんが(笑)。でも、《鈴鹿》が完成したので、そこで四輪のレースをやろうという流れになった。これは言えます、『場』と『レース』と、どっちが状況的に先だったかといったら、明らかに『場』の方が先だった」

――《鈴鹿》というステージ(舞台)ができた、じゃあ、そこでレースを?

「ええ、そういう成り行き。でも、いま考えるとフシギと思われるでしょうが、当時、つまり《鈴鹿》ができたとき、すぐに、これで四輪レースもできるぞ!と思った人って、ほとんどいなかったと言えるかもしれません」

「このあたりのことは、いろんな要素が絡み合っていて、なかなかスマートに話せないというか(笑)、うーん、どこから話を始めたらいいのかな……」

――はい、じっくり伺いますので!(笑)

「ハハハ(笑)。まず、《鈴鹿》のコケラ落としの二輪レースは、内容的にも盛り上がったし、集客という面でも盛況でした。ただ、逆にそのせいもあったかもしれないですが、出来上がった《鈴鹿サーキット》は二輪専用のコースなんだという一般的な認識になってしまってね」

第1回日本グランプリのポスターとプログラムに用いられたデザインの一部。写真には、当時の世界のスポーツカーが並んでいる。

――え、そうだったんですか?

「少なくとも1962年時点では、そうでした。それと、どうして、せっかく《鈴鹿》ができたのに、そこでの四輪レースをイメージできなかったかというと、そもそも、レースも含めて、自動車で速く走るという経験がなかったし、クルマのそういう姿を見たこともなかったからで(笑)」

――そうか、東名高速もまだですものね、1962年と言ったら。

「わが国初の高速道路である名神高速の、その一部分(栗東~尼崎間)が出来上がったのが1963年の7月。東名はもうずっと後で、厚木まで高速で行けるようになったのが1968年です。東京~名古屋間の東名高速全通は1969年まで待たなければなりません」

――東京オリンピックが1964年ですね。

「ええ、その年に東京~大阪間の東海道新幹線が開通、道路の整備も並行して進みましたけど」

――そういう“年表”を考えると、1962年の時点で《鈴鹿サーキット》が“できちゃった”、またこれを“つくっちゃった”ことの衝撃があらためて浮き彫りになりますね?

「そうです、『高速道路』より先に『サーキット』ができた! この先見性というか、グランドデザインのスケールの大きさというか。それを推し進めた本田(宗一郎)さんの偉大さ、これはちょっと言葉にできないくらいに凄い……」

――それというのも、1959年にマン島TTレースに出場し、つづけて世界GPにも参戦して来たというホンダの歴史があって?

「そう! この連載でも以前に触れてますが(パートⅠ第28回)火山灰コースの《浅間》に代わる舗装路コース建設計画が遅々として進まず、いつ出来上がるかもわからない。それなら『面倒くせー、俺がつくっちゃう!』という本田さんの決断で、鈴鹿サーキットの建造になる。この頃、GPレースへの参戦と同時に、マシンがちゃんと走れるコースがほしいというのは、エンジニアにとっては不可欠な実感になっていたでしょうね」

――二輪はそういう状況だったのですね。

「1960年代前半の時点で、世界に“飛びだしていた”のはホンダだけではありません。スズキもヤマハも、すでに世界レベルでの闘いをしていた。だから各社は急ピッチでテストコースをつくったり……。とにかくマシンがしっかり“走れる”場がないことには、どうしようもないですから」

「そのためのコースが、自社のテストコースなのか、あるいは公開のサーキットなのか。そこで、それぞれのメーカーの考え方と、周囲の理解度で違いが出て来るかもしれませんが」

――なるほど、そういう見方はおもしろいな!

「ホンダの場合、周辺への理解の“させ度”というのは、とりわけ強烈だったかもしれない。何せ“発信地”は、あの本田さんですから(笑)」

――この頃、二輪レースは、すでに“旬”と呼べる時期にあった?

「ええ、だから、サーキットをつくったら、何を差し置いても、当時世界の11ヵ国で行なわれていた二輪の世界GPを日本で開催する、この計画もあったでしょう。しかし、四輪のレースまで開催というのはねえ……」

◆いったい誰が、どんなクルマで、自動車レースをするのか?

――四輪(自動車)はそうじゃなかった?

「だから、鈴鹿オープニングレースが終わって二ヵ月も経たない1962年の12月中旬に『日本グランプリ自動車レース』開催という発表があったものの、いったい何のこっちゃ? ですよ(笑)。ぼくが、あ、これは自動車のレースを本当にやるんだなって思うようになったのは、正月も過ぎた翌1963年1月の終わり頃でしたから。みんなにとっては、正に寝耳に水の話だったでしょう」

――「みんな」とは、関係者も、ドライバーも、ですね?

「いや、1962年の時点でいえば、日本には『レーシングドライバー』なんて、ひとりもいません。二輪のライダーはいましたけどね。それと、クルマ(マシン)をサプライするワークスというかメーカーにしても、“何なんだこれは!? ”状態(笑)」

――まさに、青天のヘキレキ? (笑)

「“自動車によるグランプリ・レース”をやると言われて、一番困惑したのが自工会(=日本自動車工業会)だったという伝説があるくらいですから(笑)。だから結果的にも、メーカーによって、反応はマチマチになりました」

「それと、国内での市販車を見ても、二輪と違って四輪車は、スポーツカーやスポーティ車は皆無とは言わないまでも、きわめて例外的なものでした。これは、実際に1963年の“グランプリ”で、どんな四輪車がサーキットを走ったかを見ればわかります。クルマだけでなく、ドライバーもね。そうしたグランプリのための“役者”を揃えるのは大変だったんじゃないでしょうか」

――そのくらいに唐突であった?

「そうです。その当時、ぼくはジャーナル活動もしていましたけれど、基本は二輪レースの『一選手』という立場でしかなかったから、大した情報は入って来ません。もっとも、ジャーナリストなんてシャレた呼び名もない時代でしたからね。記者とか雑誌記者とか、そういう世間から見ればワケのわからないような存在で(笑)、肝心な情報なんて、得られる立場でもなかったですが」

――でも、その『一選手』というポジションは貴重ですね。リキさんの場合は、ひとりの選手として《鈴鹿》の誕生に接したわけでしょ? なんか、カッコいいなあ!(笑)

「そうかなあ? よく意味がわからないけど(笑)」

――でも、そんな「選手」という立場にとっても、あのグランプリは“いきなり!”だったということですね。しかし、そんな状況なのに、あの時点で四輪(自動車)レースをやろうと企図した人たちがいたわけで?

「そうです。そのための、つまり、自動車レースを開催するための新しい組織も出現しました。あと、もうひとつの“いきなり”は、レースを開催するよという告知があって、そして実際のレース、これは1963年の5月に行なわれますが、その間、時間的に半年なかったことです(笑)」

――人(ドライバー)もいなくて、レースのための“ギア”(マシン)もなかったのに、さらに時間までなかった? (笑)

「うーん、話せば話すほど、奇妙なことばかりで(笑)。でも一方ではね、世界レベルの二輪レースを見せたのと同じように、いっそのこと、当時のF1をやっちゃえ!なんて計画があったかもしれませんよ。何と言ったって、ホンダも、そして《鈴鹿》も血の気の多い時期でしたからね(笑)。まあ、じっくりと、“日本の自動車レース初めて物語”と行きましょう」

第十九回・了 (取材・文:家村浩明)