^[^<] マイ・ワンダフル・サーキット|鈴鹿から世界へ|日本初の職種“ワークス・ドライバー”誕生す/【STINGER】スペシャルコンテンツ

リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第23回
日本初の職種“ワークス・ドライバー”誕生す

(1) 「5月のレースに、スバルで走ってください!」

――「どちらのメーカーでも構いません、お二人にお任せします」と宣言して帰宅なさってからのその後は?

「その後? どんな気持ちでいたかとか、そういうこと? ……うーん、よく憶えてない(笑)」

――だって、日本初の“ワークス・ドライバー”が誕生するのか!? という歴史的な瞬間ですよ?

「いや、ワークスドライバーなんて大それたことでなく……。第一、当時にそんな言葉ありませんよ(笑)」

――そうか(笑)、現在の観点から歴史を見てはいけませんね。でも、歴史の中での評価としては、これはそういうことだったと思いますよ。

「いや、その前にね、そもそも“この話”は本当なのだろうか? というのが、ぼくの中にはあったのです(笑)。正直なところ、気持としては半信半疑でした。というのは、二輪のレースでは、ぼくの場合、“うまい/速い”と言われながらも、いつもリタイヤで、ほかのチームから注目されるということもなかった。まして、これは旧・中島飛行機の富士重工という、どでかい会社からの話ですからね。ぼくなんかが採用されるわけがない、と(笑)」

――ははあ、先輩お二人に“かつがれた”とは思わないまでも、でも、これはあり得ない話だろと?

「そうそう!(笑)だから、まあどんなことになるのか、とにかく話だけは聞きに行こうというくらいの心境で、先方から指定されたところに出向きました」

「それともうひとつは、四輪のレースというのは、当時のぼくにとってはまったく未知の世界でしょ。それを“やれる”のか、ぼくが果たして通用するのか。でも一方では、だからこその好奇心というのも、ちょっとはあったかな?(笑)」

――ジャーナリスト視点ですね。それで、一週間後くらいに富士重工に?

「そうです、当時は、富士重工の本社は東京駅前丸の内にありました。そこに伺ったら、自己紹介もそこそこに、七面倒くさい話も何もナシで、とにかく『5月の自動車レースに、スバルで走って下さい』。そして、あとはただただ、ぼくの“イエス待ち”みたいな状況。だから、ものの一時間もかからず、話は全部終わっちゃった!」

――え!?

「その時代の熱気というか、大きな流れの中に引き込まれるというか、そんな同時代にぼくもいて、そういう運命だったんだなあと……」

――ちょっと待ってください(笑)。えーと、まず伺いますが、そのとき、富士重工側はどんな方々が?

「そこにおられたのは『スバル部』の部長山本さん、同じく次長の竹田さん、それから宣伝部の小野さん。あと二人いらして、この方たちは、もしかしたら労組の方だったかもしれません」

――『スバル部』ですか! 旧・中島飛行機が戦後に富士重工になって、その中の“自動車部”がクルマを作ってるんだというような感じがヒシヒシとしますね。それはともかく、ではこのときに、何かこう一種の面接試験みたいなことは?

「何もナシ。向こうはすでに調査書のようなものを持っていて、ぼくについてのことなんかは、それにすべて書いてあるような雰囲気だった」

――つまり、リキさんとドライバー契約をするということは、リキさんが訪問される前から決まっていて、スバル側は、本人からOKをもらうためだけに本社に呼んだ?

「まあ、そう考えてもいいのかな。このときの富士重工は、鈴鹿サーキットを『知った』レースの経験者が何としても必要! そういう状況だったのではないでしょうか」

――なるほど~! 1963年が明けた、5月には自動車レースがある、うちはそれに参加する。そのことを決めた会社が、どういう動きをしていたか。これはスバルに限らないはずですが、そんな当時の様相が浮かび上がってくるような挿話ですね。

「そう、“鈴鹿を走る”ための態勢を、自動車メーカーとして何としてもつくるんだということ。その態勢のうちの“人”の、その中でもドライバーを、まず決めておきたかったのでしょう」

(2) 二輪の世界とは次元が異なる条件と待遇に……

――正式な契約は、それから数日後?

「ええ、5日後くらいでした。ぼくの業務内容、その概要の説明ですね。身分とか所属とか、そして『嘱託』としてレース&実験のドライバーをその役目とするということが書かれていて、さらに、他車での競技への参加を禁止するなどの条項があり、それにサインと押印をした記憶があります」

――リキさんの側から申し出て、条項に追加したこと、契約に盛り込んだことは、何かありましたか?

「書類上に記載したわけではないですが、モーターサイクル出版社のライター&ライダーの業務はこれまで通りとすること。そして、二輪のレースについては、スズキでのレース活動の継続を認めること、これを承認していただきました」

「それと、ぼくは大きなクルマでのレースを夢見ていたので──と言ってもパブリカ程度でよかったのですが、富士重工が将来において、軽自動車以上の車種を作るかどうかを、かなりうるさく(笑)訊きました。すると、小型四輪の開発が着々と進んでいるという話があり、それなら、何年か先には軽自動車以外のクルマにも乗れるんだな、レースできるんだな、と……。それで安心したというか、このときの段階で、軽自動車だけで終わるのではないという展望を持てたことも記憶しています」

――あの、レースの世界で、あるいは、これは男の世界でかもしれませんけど、“昨夜のこととマネーのことは訊いてはいけない”という不文律があるそうで(笑)。いや、これはなかなかいいなと思っていますが、ここで一点だけ、質問させてください。イエスorノーでけっこうですが、そのとき契約された『嘱託』というジョブはギャランティされていましたか? そして、それは十分なものでしたか?

「当時の二輪レーシング・ライダーの場合、メーカーの正社員ライダーは別として、マシンを貸与されているクラブやライダーは、マシンの整備やニューマシンへの交換などについては、出費はまったくありませんでした。そして金銭は、レースやテストに携わった日当/旅費/宿泊代などでしたが、ただ、年間の契約料というのは聞いたことがありません」

「それに対し、富士重工の場合は、第1回GPが終わるまでの契約がひとつあり、その後も、その嘱託社員契約を継続する意志があれば、そこから1年ずつ更新できるという条件が示されていました」

「そして、金額その他、二輪とは段違いでした。ただ、ギャランティとその内容には、ぼくのような若造にそれほどの待遇をしてくれるということで、まず恐縮し、そして、それまでやってきたジョブの報酬との大きな違いに驚いたということはあります」

――新しい職種としての“ワークス・レーシング・ドライバー”が、日本でこのとき生まれたと見てもよさそうですね。

「いやいや、そんな大仰なものじゃありません。単なる雇われ運転手、そしてチームでは、あくまで外様ドライバー(笑)。でも、報酬や契約の内容もありがたかったですけど、それ以上に、レーサーとして将来への夢が具現化した、その嬉しさでいっぱいでした」

「でも、当時の(二輪の)レースというのは、外見上はアマチュアではあるのだけど、上位クラスで活躍するようなライダーやクラブは、なにがしかのメーカーからの援助を受けていた。ですから、《走る》ことに対して金銭や物質的な報酬があることは、ぼくは当然と思っていました。したがって、ギャランティされることやその仕組みへの違和感、そういうものはありませんでした」

「また、基本的にぼくは出版社からの収入もあり、それで生計は成り立っていましたので、このとき、ギャラのあるなしやその多寡で、オファーに対する返事を変えるということはなかった。それよりも、待遇に見合うような成果を出せるのか、自分がそんな期待に応えられるのか……。こっちの不安の方がずっと大きかったですね」

――契約されたら、すぐに“仕事”は始まった? そもそも、そんなに時間はないですよね、5月まで?

「そうです。1963年の2月末だったと記憶しますが、群馬県の『呑龍工場』に行きまして、初めての顔合わせをしました。メーカーとしてのグランプリへの態勢についての説明があり、そのときに、少しだけチューンされたスバル360で、テスト走行もしました」

富士重工の前身「中島飛行機」の爆撃機呑龍。その後の富士重工の、レースやWRCへの流れの“源流”と言ってもいいかもしれない。

――「呑龍工場」ですか、さすが中島飛行機! 「呑龍」って中島が戦時中に作っていた爆撃機かな、その名前ですよね。

「正式には群馬製作所ですが、近くに呑龍さんの名前で親しまれるお寺があるところからの俗称のようです。だから軍用機にも、その名前を付けたのでしょう。ただ、一般的には、この工場は太田工場と呼ばれていました」

――そのときのテストは?

「テストといっても、工場内の道路というか、ちょっとした試走路みたいなところを走っただけです。そもそもこの時点では、富士重にはテストコースというものはありませんでした。太田工場の中に楕円形の走路を持つテストコースができるのは、第2回グランプリ以後の1964年11月でしたので」

第二十三回・了 (取材・文:家村浩明)