リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第43回
公道コースのマカオGPへ

――前回は、第三回日本GPの経緯をお伺いしました。そうなると、GPの中止でリキさんの境遇も一変してしまった。

「ええ、まったく予想もしていなかった変化ですが、日本のレース界の先行きをどうするのか、ということでは良いタイミングでした。また、船橋サーキットの出現も大きく影響したのではないでしょうか」

――船橋サーキットは前回の話にもありましたね。

「ええ、これは首都圏からわずか1時間の千葉県船橋市のレジャーセンター敷地内に建設されたのです。第1、2回日本GP開催のアドバイザーをしたイタリアのピエーロ・タルッフィさんが設計したコースと聞いています。狭い敷地に最長3.1km、2.4、1.8kmと3種のコースが設定でき、二輪四輪のサンデーレースやジムカーナなど、いろいろ使えて便利だったのですが2年後の1967年に閉鎖してしまい、せっかく芽生えた底辺普及にも影響がありました。そして、首都圏に近く船橋に代わるコースとなれば筑波サーキットが完成の1970年まで待たねばなりませんでした」

――そして1966年に富士スピードウエイが完成して日本GPが復活するのですね。

「そうゆうことですが、今度は最高速度が300km/hを超えても オーケーという超大型コースでしょ、そんなドデッカイところで、どんなレースをすりゃーいいんだ?って、またもめるんですよ(笑)。ぼくは鈴鹿でGPがあるものだと思っていましたが、開催場所をめぐっていろんな悶着があったようです。大体のことは知っていますが、その事情についてはいずれの機会にということにしましょう」

――まあ、難しい面もあったんでしょうね。そのような日本のモーターレーシング界の激変に、リキさんはタイヤテストのドライバーで一息つき、ニッサンにも乗れるチャンスがめぐってきながらレースに出られない、そういった境遇はどんなもんなんでしょう。

「ニッサンの件は本当に残念でした。もしそうなっていたら、ぼくのレース人生は大きく変わっていたでしょう。せっかく尽力下さったフェアレディーで優勝の田原源一郎さんや、第一回GPにフィアットで入賞した宇田川さんには顔向けできないことになり申し訳ない次第でした。あれから45年経った2009年、鈴鹿サーキットの全面改装記念パーティーでお元気な宇田川武良さんにお会いし、当時の詳しい事情をお話して、長い間の非礼をお詫びしたのです。宇田川さんのぼくに対する誤解も解いて頂いたようでホッとしましたが、今でも感謝いっぱいです」

――レースを禁止された境遇をどう受け止めたのですか?

「それは本当につらいことでした。それでもテストドライバーとしてサーキットを走り、ワークスドライバーとして、年齢には過分な手当を戴ける身分でしたから、次のチャンスを探していました。とくに、日本がこんな情況ならば、この間に欧州のレーシングスクールに行って、僕にも出られるレースを探そうかなという考えもあって、タルッフィさんに手紙で何度も相談したことはあります。タルッフィさんからもいろいろなアドバイスをいただき感激しました」

――船橋サーキットの設計監修をしたり、日本人ドライバーにテクニックを教えてくれた、イタリアのあのピエル・タルッフィさんですね?

「そうです」

――そういった中で、エントリー表にはリキさん&フェアレディーの名前がありながら出走できなかった船橋レースのあと、マカオのレースには出たのは模索の中から海外に焦点を合わせたということですね。

1965年にマカオ初遠征した英国製トライアンフ・スピットファイア。
白いセーター姿は、後に日本のモーターレーシングを牽引するノバエンジニアリング代表の猪瀬良一君。彼がレーシングメカニックの世界に入った初めてがマカオで、それも僕のメカを務めてくれた。

「いえいえ、そんな大それたことじゃありません。うーん、これも偶然なのかチャンスだったのか。この当時、創刊したばかりの月刊誌・ドライバーの執筆もしていたので、ぼくの境遇を良く知っている富田一夫編集長が、“この際、息抜きもかねてマカオ・グランプリでも観戦に行ったら?  ついでに取材記事も書いてよ”ってね」

――あ、そういう経緯だったのですね。

「実はマカオのレースなんて知ったのは、この年の第二回GPの時ですよ。フォーミュラカーだけのクラスに外国から参加した多くが、マカオのレースに出ているドライバーとマシンだったのです。マシンは当時の呼称がフォーミュラジュニアと言ったかなぁー、、1100ccクラスのエンジンでね、それが平均時速140km/hを楽に超えるダントツの速さでね、フォーミュラカーと普通の車、スポーツタイプそれも日本のメーカーがギンギンにチューンしたものでも敵わないのです。ヒェーッ、あんな小さなエンジンでも本物のレーシングカーって、すっげーもんだなーという驚きと、やがてはああいうマシンに乗ってみたいという憧れもあったので、フォーミュラカーや世界のスポーツカーが走るマカオってどんなレースなんだろう、の興味がありましたから、編集長の勧めは目からうろこでした」

――それが出場へのきっかけに?

「いや、そうではありません、ただの見物で、ぼくなんかとても出られるレースじゃないと思いました。まず、どれも自動車誌でしか見たことがない憧れのクルマばっかりで、とても、とても。ただ、いずれ出られるものなら走りたい気持ちはいっぱいですよ、レーサーですから。これはぼくだけじゃなかったようで、プリンスグロリアで優勝した大石秀夫さんに現地で偶然に会いましてね、彼もジョホール(マレーシア・シンガポール)のレースを見に行った帰りだったと言いますから、やはり模索していたのかもしれません。彼とお互いに、“いずれは出ようね、でも、クルマはどうやって持ってくればいいんだろう、どうすれば出場許可になるのだろう”なんて夢の雑談をしたのが懐かしいですね。しかし、この見物が意外な結果になりましてねー、人生って解らないものです」

――いよいよ日本人ドライバー初の遠征ですか?

「まあ、そう早まらないで(笑)、見物に行ったのは第2回GPの1964年の秋ですから、その翌年、船橋CCCに出られなかった1965年ですが、マカオGPに出場できる夢が現実になってしまいましてね、ビックリしました」

――え、単なる見物に終わらなかった?!

「その前にはっきりさせておきたいのは、マカオなどの海外レースに初めて出た日本人ドライバーはぼく、のように言われることがありますが、これは大間違い、恥ずかしいですよ」

――あ、そんなんですね。すっかりそうだと思い込んでいました。

「明治、大正時代にさかのぼれば、大倉喜七郎、白州次郎氏らが欧州でレース活動をしたり、オートバイでは昭和5年(1930)にマン島TTレースに挑んだ多田健蔵氏などの大々先輩がいる。ただ、当時のレースは貴族や富裕層の特権的競技だから今とは異質だが、日本の戦後に目を向ければ、ロードレースではないけど1958年(昭和33)にはトヨタがオーストラリアのラリーに出ました。翌年にはニッサンの難波靖治氏も出場しています」

――確かに、知られざる、というか、先人がいたわけですね。

「マカオGPに限れば、日本GPが始まる前の1962年に三菱自動車がツーリングカーの750cc以下クラスに出ているし、1964年にはいすゞも出ていて、これはぼくが見物に行った時です」

――そうなると、リキさんが出るのは?

「1965年11月の第12回マカオGP、船橋CCCあとの秋でした。これがまったく偶然なことからでね。とにかくぼくがレースに出られない立場を心配してくれる人も沢山いてね、なんとしてもぼくにレースをさせてやりたい、という友人知人がいたんです、有り難いですよねー。それとドライバーでなくても“日本でGPのような大きなレースがないのなら海外レースに出てやろう”という、今で言うエントラント・チームオーナーですが、そういう剛気な人がいたのです。その人が金原達郎さんという青年実業家で、自らも世界に何台もないフェラーリ250GT乗っている無類のクルマ好きで、ご自身はレースには出ないのですが、チームを率いてみたい希望があったようです」

――マカオGPに目をつけた金原さんがドライバー探しをされていた?

「そう聞いています。レーシングドライバーだったら誰だって出たいでしょう、何人かの候補がいたようです。金原さんとしては親しくしているケンさん(田中健二郎)推薦のドライバーを乗せるようだったらしのですが、やはり金原さんと親しい方で、いつもぼくのことを心配してくれる方がいましてね。この人、交通機動隊(白バイ)勤務で、やはり無類のレース好きなのですが、彼がぼくを強く推してくれたようです。それで、金原さん所有のトライアンフ・スピットファイアで、マカオのGPクラスとACPトロフィーレースというスポーツカーのクラスに出させていただけることになった、ということです。タイヤテストのBSにも事情を説明したら、外車で出るなら構わない、ということで、おまけにタイヤも供給してもらったりしました」

――そのトライアンフはレース用なのですか?

「トライアンフは英国の有名なスポーツカーですが、これは1200ccのエンジンを積んだ軽量モデルで、たまに金原さんがドライブを楽しんでいる市販車そのものです」

――それを改造した?

「そうです。レース前に香港でレーシングパーツを取り付けたり、英国でチューンしたエンジンに載せ換えたりするのです。この時代、日本ではチューニングなんて言葉はなくて、パーツの種類も少なくて輸入するには高価だし、現地で改造した方が効率的だったのです。それとエンジニアの経験も深く、何もかも日本のレベルの低さを感じましたね―。前年に日本から参加したいすゞは、その半年前の日本GPに出場したメーカーチューンのべレルやべレットをさらに改造してマカオに挑んでも、キットパーツでチューンした欧州の市販車に追いつかないくらい外国にはダンパー、キャブレター、カムシャフトなど、いろいろなチューニングパーツがあって驚きました」

――テストはどうされたのですか?

「テストなんて気が利いたもんじゃなくて(笑)。現地改造のトライアンフで走った、といってもサーキットなんかありませんから香港の田舎道で爆音高らかに走っちゃうんですよ(笑)。すると別物のクルマになっていましてね、レースではスポーツカークラスで総合5位クラス1位の万々歳でした。オーナーの金原さんにも顔向けができましたが、またこのレースに出られるのはいつのことだろう、と思いながら帰国したのを憶えています」

――この時は日本から他の参加も

「ツーリングカークラスには鈴木誠一君がブルーバードで、GPにはジャガーEで横山精一郎君も出ました。セイちゃん(鈴木誠一)は3位という日本人初の快挙でしたが、それでも日本のメーカーが大金かけてギンギンにチューンした車でも、香港なら誰でも買えるキットパーツを組み込んだオースチンやモーリスなどの市販車と走れるコースもないアマチュアドライバーに勝てないのです。 このあとに参戦するマツダの片山義美、片倉正美君なども同じでした。市販車の基本的構造の違い・豊富なチューニングパーツ・改造箇所の勘所・路面状態やコース形状に合ったセッティングなど、日本のクルマ造りはまだまだという感じでした」

――いろいろ感じることがあったと思いますが。

「ただ、こうして多くの海外レース経験者が増えれば日本も外国レベルに追いつき追い越せるだろうとは思いましたが。なにぶんにも普通の人が外国に行けるようになったのは、ぼくが見学に行った1964年の4月からなんですよ、遅れてるでしょー。それまでは国の外交や輸出入などの業務、留学、研究、外国からの招待などの目的以外は外国には行けず、観光や単なる商談ぐらいじゃパスポートの取得なんかできなかったんですよ。でも、この年の10月は東京オリンピックが開催されるわけですから、外国からはどんどん来て下さい、日本人は貴方の国には行けませんじゃ不公平ですよね。それで慌てて開国づいた感じは否めないな―」

――それから海外レースに目を向ける人が出始めたのですね

「それまでは、行きたくても行けないのです。オートバイレースで1954年にホンダとメグロがブラジルに行ってますけど、これは現地からの招待、1958年にヤマハの伊藤史朗君が米国ロスのカタリナGPへ、1959年にホンダがマン島TTレースに谷口尚己、田中楨助さん他を、その後、スズキも海外レースに行きますけど、これは将来の輸出を見越した業務ですから、国の許可がとれたのです。なにしろ鎖国状態ですからね(笑)」

――鈴鹿ができて日本GPが始まったって、外国からは来てもこちらからは行けないわけですね。

「そうなんです。第2回日本GPが終わって、ようやく海外レースにも行けるようになれば、まず近くのマカオGPや、マレーシアのジョホールGPに行きやすいのは当然です。まして、ぼくごときが出場となれば、オレだって!となる人出てきますよ(笑)。ですからぼくがマカオに出てから多くの日本人ドライバーとチームが参戦し始め、見﨑清志君、舘信秀君、長谷見昌弘君のように10回以上も挑み、優勝始め多くの成績をあげた後輩が沢山いますよ。そういった意味からすれば、ぼくが初めて海外遠征したわけではないけれど、出場の方法や準備の仕方、何よりも日本のレースでは得られないものや、挑戦することの大切さを実際に示したことですし、これはぼく自身も自負するところです。そのご、多くの日本人ドライバーやチームがマカオだけでなく、欧州にも目を向ける先導役になったのは確かです」

――でも最初に出た時に、“次も!!”という気持ちがあったのではないですか?

「そうではないんですよ、最初の参戦が終わって、今度はいつ来れるのだろうと思ったくらいですから。ところが、話が舞い込むのはまとまってくるもので(笑)、翌1966年、日本GPが新設の富士スピードウエイで再開されることになり、ぼくはダイハツの契約ドライバーでGPに出られたのです。タイヤ契約のBSもスポット契約ならば良いということでね。ところが夏も終わりかけたころ、ダイハツも現地販売店の要請でマカオに出ることになっちゃって、契約ドライバーの吉田隆郎君の他に経験者のぼくが起用されてしまったんです。そして、次の年も別のスポンサー話から、そうやってぼくのマカオGP参戦は1975年まで続いてしまったのです」

第四十三回・了 (取材・文:STINGER)

※本ストーリーは、奇数月末から偶数月上旬にかけて更新予定です。

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