リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第58回
日本初の24時間レースと67年日本GP

――広大な富士スピードウェイが完成した一方で、たくさん走りたい、という声もあって、それには耐久レースが一番とばかりに、いきなりル・マンばりの富士24時間レースが始まった。走りたい!というクラブマンの気持ちから、底辺に向けての期待があったと思いますが、日本GPの内容に同調できないトヨタのバリバリワークスが一斉に出場することになってエライことになってしまった、というのが前回のストーリーでした。

「自動車レースのルーツは都市間レースから始まりましたが、この時代、世界で行われている24時間レースは、本場のル・マンと米国フロリダ州のデイトナスピードウエイの24時間レースしかなく、ル・マンは44回やってますがデイトナはまだ5回目、そこに早くも日本が入り込んで三つの24時間レースになり、やはり異常?な日本のバイタリティ(笑)の時代ですよ」

――物珍しさもあったでしょうから、参加も多かった?

「レースは1967年4月7-8日で、走りたい人は結構多かったけれど、コース規定上の出走台数は申し込み順の33台だったようです。

レースは午後4時にスタート、結果を先に言えば観客は、数千人程度だったかなー、少なかった。初めての試みだし、グランドスタンドに丸々一日いたって退屈でしょうし(笑)。

でも、トヨタにとっては2000GTのポテンシャルを見せつけるには絶好のイベントでしたね。前回、谷田部のテストコースで、この車の耐久性や速さを実証する世界記録を出した話をしましたが、2000GTの凄さは知られていました。だけど、谷田部での挑戦は業界メディアだけしか観られなかった。記録結果も専門誌で知るくらいでしたから、24時間レースという過酷な競技で一般観衆の面前で、その優秀性を示すことができる。この24時間レースは、それほど大きな意義をもっていたのです。まあ、成功したから良かったですが、トヨタは狙うところが上手いですよ(笑)」

――2000GTが凄いのは解りましたが、このレースは走行距離が多いほど上位となれば、排気量が大きくスピードが出る車種が有利なのは当然でしょうね。

「レースの総合成績は、その通りですが、本場のル・マンでも大排気量マシンは燃費の問題があって、速度は劣っても燃料節約が高い小排気量車、空力的に有利なマシンも注目を集める工夫がされていました。

ただ、日本初の試みですから完璧な参戦体制はトヨタだけで、5月に市販が決まった2000GTが2台、ドライバーは細谷四方洋、大坪善男、津々見友彦、鮒子田寛の谷田部スピードトライアル組と4台のトヨタスポーツ800に北原豪彦、大岩湛矣、田村三夫、川合稔、高橋利昭、蟹江光正、斉藤好永、山口文のTMSC総動員体制です。それ以外はフェアレディ、べレットGTなどのメーカーサポートのクラブドライバーやプライベート、ミニクーパーやヒルマンなどのクルマもありましたねー。

まあトヨタは、GPよりこっちに懸けていたでしょうが、プライベートには、とにかく、寒い/見えない/通じない、の散々な目に遇ったレースでした」

――力さんも参加されたのですね。でも寒いは想像できますが、見えない、通じないとは?

「最初、主催者の古我さんから話があった時、出たくてもクルマもないし諦めていてね。以前に話したように船橋以来、プライベートがどんどん増えてきたでしょ。同じプライベートといっても純粋に個人もあれば自動車販売、整備店などのチームも出始めて。さらにハンドルやペダル、シフトレバーなどのアクセサリーパーツの製造や販売する会社やショップなどが自社製品のPRもかねたチームも多くなってきたのです。

そういった中で、スポーツ車用のハンドルを製造販売を始めた友達の高岡恭之君が、このレースに出たいからリキちゃん手伝ってくれってね。タイヤテストの契約もあるから会社に説明したらホビーだから問題ない、ついでにタイヤのおねだりもOKで走ることになっちゃった」

――クルマやチーム体制は?

トヨタ自動車が全力を投球した日本初の24時間レース。2台のトヨタ2000GTとS800が連なってゴールした。

「体制なんてあったもんじゃないし(笑)、24時間レースなんて考えたこともなかったから、高岡君がサンデーレース楽しんでいるホンダS800を、まず、何をどうすればいいのかまるで解らない。それでも、大きな燃料タンクや夜間の照明にピットとの連絡手段、この三つは基本だし、他は通常の完全整備しかない」

主催者も日本のレースだから(笑)。とにかく4月7日のスタートは、グランドスタンド前のコース右端に、予選タイムの速い順に第1コーナー(バンク方向)に向かってマシンを右ななめに停め、ドライバーはコース左端で待機してヨーイドンです。午後4時の合図でマシンに駆けより、シートに飛び込み、ベルト締めてからエンジンかけるの、慌てるからメチャクチャになる(笑)」

――いわゆる“ルマン式スタート”ですね!! それから次の日の夕方まで走りっぱなしですね。

「そうなるのですが(笑)、テスト走行もないぶっつけ本番だから、走り出してから問題が続出ですよ。あとで思えばひどい主催内容でね。夕方でも明るい内は通常のレースと同じだからピット前通過のサインボードも問題ない。ところが完全に夜だとグランドスタンド前の照明も薄暗く、アクセル全開で、あっという間に真っ暗なバンクに飛び込んでいくわけです」

――おー怖い(笑)。

「さらにコース脇の照明灯が所々しかないから、とにかく見えない真の闇。二つのヘッドライトだけでは足りないのは予想したから、シールドビームっていう明るいライトが出来たらしい話を聞いて、早速探し回り、えらく値段の高いライトに変えたり、二個の補助灯もつけて四灯にしたけれど、夜ってこんなに暗かったかなー(笑)の感じ。

この時代、外国の用品も増えだし、シビーやルーカスなどのライトも売られていたけれど高価だし、国産ライトなんか物の役立たず。おまけに雨が降り出して最悪だったのです」

――いきなり24時間レースの洗礼を受けた(笑)。

「今では笑い話だけれど、コーナーでスピンして再スタートしたら、真正面からヘッドライトが近づいてきて急ハンドルのすれ違い、そのドライバー、何の疑いも無く逆走してたって。何台か同じことあったみたい、それほどマックラ(笑)。

それに雨だから夜中の12時ごろになれば寒くて寒くて。レース用に改造する段階でヒーターなんか取り外しちゃってるからね。それでコース外れた草むらに停まっているマシンがぼんやり見えるので誰だか知らないけど、おーリタイヤしちゃって可哀そうに、なんて笑っていたのだけど、あとで聞けば用を足して(オシッコ)いたんだって(笑)。

僕なんか、ガス欠で暗闇の中に停まっていたら、メカニック達が戻ってこない僕を探しにきて見つけてくれた。それで“ちょっと待ってて下さいねー”って、ガス缶かついできて燃料補給、完全なチョンボ。メカが“そろそろガスが無くなるころだと思ってました”だって(笑)、まあ、のどかでしたねぇ」

――ピットのメカニックも初めてだし、何をどうすれば解らなかったのでしょうね?

「基本的には順位や周回数、燃料補給、ドライバー交代を知らせるのにサインボード出すのだけれど、暗い中では全然見えない。それで勝手にドライバーの判断でピットインして見えないことを告げると、サインボードを掲げるメカのボードを懐中電灯で照らすことにしたけど、まあ気休めです。結局、暗闇の違法燃料補給(笑)のあとは、もう順位なんか気にしないで、燃料補給とドライバー交代の合図は何人ものメカがライトを振り回すことにしたり。

もっとも、見えないのはオフィシャルも大変だったみたい。レース後に計時係に聞いたら、十何人かのオフィシャルが一人何台かのマシンを受け持ってラップを記録したとのことで、上位入賞圏内のマシン以外は記録ミスもあったようで大変だっただろうね。

今はレース中に鮮明な無線通話ができるんだから、この無線技術もレースで鍛えられたってことですね」

――このレースでもピットとドライバー相互連絡に無線を?

「ええありましたけど、市販で入手できるトランシーバーなんて高々1キロぐらいしか届かないし、動いていると通話が途切れちゃって役立たず。強力な電波の送受信機もあるけれど無線免許が必要だったり、結局“通じない”ということになるわけです」

――それじゃあ、リキさんも元GPドライバーの実力が発揮できませんね。

「ええ出来ませんねぇ(笑)。結局10時間後ぐらいだったかな、エンジンブローでリタイアしちゃって、順位なんか忘れちゃった(笑)。順位は細谷四方洋/大坪善男のトヨタ2000GTが539周で3234㎞、平均速度が134.75㎞/hで順当な優勝でしたね。トヨタの目的は充分に果たされたということだと思います。

僕としてはレースにならない結果だったけれど、ものすごく満足できるレースで、大きなプラスもありました」

――ほー、それは?

「以前にもタイヤメーカーとの関係でレース活動に制約があった話をしていますが、この24時間レースに誘われて走ったのも、報酬や見返り条件など皆無のプライベートの立場で、こうゆう経験は初めてだったのです。それまでオートバイでも四輪でもレースとなればメーカーのみならず何らかのスポンサーチームで走っていましたから完全な“‘ホビー、趣味”でステアリングを握るのは初めてで、それは承知してましたが、準備から物理的体制なにもかも不備なことばかりでした。

それでもレースへの憧れ、レース活動に関わる喜びいっぱいの若人達との何日かがとても楽しく、日本にもようやく、こういう時代になったんだなー、の実感でした。そして、今までGPばかりに焦点が向いていた日本のレース界も変わっていくような実感を、まさに肌で感じました」

◆1967年4月8~9日富士24時間レース

 1.(S2優勝)   細谷四方洋/大坪善男 トヨタ2000GT   539周
 2.(S2-2位)  津々見友彦/鮒子田寛 トヨタ2000GT   531周
 3.(S1優勝)   田村三夫/川合稔   トヨタS800     469周
 4.(GT1優勝)  佐藤一彦/土屋郁夫  フェアレディ      468周
 5.(T2優勝)   若林完治/松田康史  ベレットGT       468周
 6.(T2-2位)  河端宏道/渡辺正明  ベレットGT       464周
 7.(GT1-2位) 高橋利昭/蟹江光正  トヨタスポーツ800  458周
 8.(T1優勝)   伊能祥光/見崎清志  モーリス・ミニクーパー 455周
 9.(T1-2位)  小関典幸/中原喜栄人 スバル1000     438周
10.(T3優勝)   伊藤嘉太加/鹿島秀彦 バリアント       426周
26.(GT1-7位) 高岡恭之/大久保力  ホンダ         201周


新生ニッサンチームが発進した1967日本GP

――日本のレース界にも大きな結果をもたらした24時間レースのあと、翌月には第4回日本GPですから、ずいぶん盛り上がったのでしょうね。

「それは少しおいて、、結局は前年のプリンスR380&砂子義一優勝のあと、マシンの種類などGPの在り方への研究もされぬまま第4回も前回と同じくGPⅠ(700㏄以上1300㏄まで)GPⅡ(1301~2000cc)GPⅢ(2001㏄以上)で、エンジン排気量は実質無制限だから、結局、排気量無制限のモンスターマシンが一人歩きするスタートラインになってしまう。

まぁ、それは後回しにして、GP以外のクラスでは、前年にFIA規定の第5グループに区分される大幅な改造可能な特殊ツーリングカーが、厳格な規定の第2グループ(年間生産千台以上、4座席以上の車室、ただし700㏄以下は2座席も可)になって、周回数も20周から15周に短縮されたのです。これは、メーカーでなければ改造が難しい特殊ツーリングカーから普通のツーリングカーにして、クラブマンが参加し易くしたのは結構な進歩でした。

GTカーもそうなれば多くの参加もあるのでしょうが、GPですから、それなりの迫力も必要ですから前回と同じく大幅な改造可のクラスです。それと、前回初めて組入れたエキジビジョンレースのフォーミュラカー(1600㏄のF2、1000㏄のF3)を正規のクラスに格上げし、フォーミュラカーレース普及への糸口になったのは歓迎ですね」

――結構大きな進歩があったようですねー

「ええGPクラス以外はね(笑)。レース界、とくに底辺拡大が進んできた時代ですから主催者(JAF=日本自動車連盟)も難しい時代に入っていましたからねー。とくに前回、新装の富士でGPを行ったものの、参加者の多くは“やはり、鈴鹿の方がいいなー”の声が多かったのが事実です」

――富士SWにはなじめない、とか?

「いえ、富士がイヤとかの感情でなく、富士ならではのダイナミックさは誰しも認めるのです、とくに30度バンクなどのね。ただ、いかんせん性能差が如実に成績につながるコースでしたからねぇ。コースの規模が余っちゃう小排気量車のドライバーには何か無力感が強くなるばかりで。

一方には、それへの挑戦意欲を持つ人もいて、その度合いが極端なのです。多分、マシン性能が多少低くても、鈴鹿のテクニカルコースなら俺の方が速いって思うドライバー多かったんじゃないかなー、それで勝てりゃ世話ないけどねー(爆笑)」

――でも、GPは富士だけと決めたわけではないでしょう。

「そうなんです、鈴鹿と交互に開催とか出来る筈ですが、以前にも話したように、第3回GP再開を巡るJAFと鈴鹿とのゴタゴタがなくなったわけでなく、メーカー側にすれば同じコースの方がマシン開発も有利ですからね。主催者側も、いくらクラブマンの意向を尊重すると口では言うものの、大きな勢力が動く自動車界ですからアマチュアの個人意見なんか無に等しいですよ」

――難しい話に引き込んじゃったようで(笑)、それでGPの結果は(笑)

「そうです、ムズカシイことは別の機会にしましょうか(笑)。日本GPも第4回になって多少の変革が表れてきたのは進歩ですが、日本GP史上、最も精彩を欠いた内容でした。トヨタはGPクラスどころかツーリング、GTクラスにも出ませんでした。それもトヨタからサポートされているかいないかに拘わらずです。車両規定から見れば、クラブマンの参加枠も広まったのにレースプログラムにはトヨタ車の名前は一台もなかった、スッゴイでしょ(笑)」

――へーえ、その話だけでいっぱいになりそーで(笑)。

「だからヤーメ(笑)。とにかくね、レースに入る前から巨大な富士SWを走れるクルマ・マシンを持っている者の勝ちー、ってことことになるわけです(笑)。

そうなれば、前年のGP後にプリンスと吸収合併したニッサンの天下。ただ、それまで日産、ニッサンといっても、第2回GPでニッサンスポーツカークラブ(SCCN)を立ち上げ、1300㏄クラスにブルーバード・スポーツを大挙14台出場させ、2台のミニクーパーと1台のアルファを蹴散らし12位まで獲得、ワンメークレースと揶揄された初陣以来、大きな活動はなかったのです。

GPを制するマシンがない前年のGPでは特殊ツーリングにブルーバードR411(田中健二郎、長谷見昌弘、都平健二)、GTカーに、フェアレディー(高橋国光、粕谷勇 他)で出場、GTカークラス優勝、ツーリング3位と妥当な結果を得たものの、GPクラスに適したマシンはなく、1600㏄エンジンの市販フェアレディーボディーに特別設計の2000㏄エンジンを詰め込んだフェアレディーSを北野元(田中健二郎)黒澤元治(高橋国光)にドライブさせたもののリタイヤでした」

――ニッサンには壮々たるドライバーが揃っていながらマシンが。

「そうなんですよ。ところがご存知の如く、今度は旧プリンスの精鋭が同じチームだからドライバーが増えすぎちゃって(笑)。ドライバーとマシンの組合せが大変だったみたい。

旧プリンスには砂子義一初め、生沢徹、横山達、大石秀夫、須田祐弘、杉田幸朗、古平勝などがいて、それにニッサンの田中健二郎、高橋国光、北野元、長谷見昌弘、黒澤元治、粕谷勇らが加わったから大所帯になった。ただ、前年GP後に欧州へレース修行に行っていた生沢君は、このグループに戻れなかった、のか、戻らなかったのか、別の道を選ぶのです」

上・僅か9台出走のグランプリは、R380とポルシェ・カレラ6の闘いとなった。
下・ニッサンは、GTクラスに、2000ccエンジンのフェアレディを投入。上位を独占した。

――生沢さんには特別な事情があったのですか。

「まあ個人のことだから、アーカイブにはいろいろ喋っていますが、結局は生沢君がポルシェ906に乗ることになって、どうにか日本GPの面目が立った役割を果たしたのです。何たってスタートラインに並んだマシンはたった9台ですからね」

――トヨタの欠場は大きな影響ですね。

「それもありますが、この年からGP、ツーリング、GTカー各クラスの決勝進出は予選ベストタイムの何%以内に入らなければならない厳しい基準ができたこともあって、ツーリングクラスなどは98台の参加申込があっても決勝は37台という狭き門にもなったのです。GPクラスもダイハツワークスのP5(2台)も1300㏄の小エンジンでは予選通過もできませんでした」

――他にも予選不通過が多かったようで

「エントリーは16台あっても予選が通りそうもなく止めちゃったりもありましたね。米国のレーシングカーデザイナーのピート・ブロック氏が日野コンテッサ1300㏄エンジンを搭載したヒノサムライと名づけたプロトタイプ、それもチーム監督は映画大俳優の三船敏郎氏という話題には困らない陣容で参加しましたが、車検規定がクリヤできず予選走行もできませんでした。まあ三船さんカンカンな顔つきの写真があちこちで報道されましたが、とにかく決勝進出も簡単ではなくなりました」

――そういったこともあって、たった9台のGPに。

「それだけではありませんが、ニッサンR380A2となった新型R380が4台(北野元、高橋国光、砂子義一、大石秀夫)ポルシェ906が3台(生沢徹、瀧進太郎、酒井正)はいずれも2000㏄エンジン。これに5500㏄のローラT70MK2が2台(安田銀治、R.クラーク)でした。前年の瀧進太郎さんのポルシェ906から、金があればGPも勝てる世界的なレーシングカーで走れるんだ、というイメージが広まったのか、酒井正さんも906を買い、ポルシェ輸入元の三和自動車もその気になってか、もう1台入れたようですが、3台目を買うお金持ちは出てこなかった」

――それで残った1台のポルシェは生沢さんが買って。

「徹ちゃんだって(生沢)そんな金ないよ(笑)。でもね、彼が凄いのは売れない906なら走らせた方がいいんじゃないの、で、あちこちスポンサー探し回ってポルシェ貸してくれる大金集めて決勝のスタートラインに並ぶことができたわけ。メカニックは三和自動車の専門がいるものの、チームメンバーは式場壮吉さんが経営のレーシングメイト関係者など手作り体制だから、ある面では気軽な精神面も功をなしたんでしょうね。それで2位の新型R380(高橋国光)に1分半以上の差をつけて優勝だからね。

それと他のポルシェ(酒井正)、レース終盤にバンクの下りでガードレールに激突、外側に飛び出して、誰もが最悪の事態を思ったけれどドライバーは軽症で済み、ポルシェの安全神話ができたのもここからでした。もう一つの兆しは、フォーミュラカーを正規のクラスにして、これからの普及を図る体制を整え始めたことは進歩でしょう。いろいろドラマチックな面も第4回GPの体面を保ったようでしたね。」

1967年5月3日第4回日本グランプリ

◆GPレース(60周)
 1.生沢 撤   ポルシェ・カレラ6(60周)
 2.高橋国光   ニッサンR380   (60周)
 3.砂子義一   ニッサンR380   (59周)
 4.北野 元   ニッサンR380   (59周)
 5.滝進太郎   ポルシェ・カレラ6(58周)
 6.大石秀夫   ニッサンR380   (58周)
 7.R.クラーク ローラT70    (57周) 

◆GTカークラス(20周)
 1.黒沢元治   フェアレディ2000
 2.長谷見昌弘  フェアレディ2000
 3.粕谷勇    フェアレディ2000
 4.宮内隆行   ロータスエラン
 5.篠原孝道   フェアレデイ2000
 6.中村正三郎  ロータスエランS2

◆ツーリングカークラス(15周)
 1.横山 達   スカイライン2000GT
 2.小林元芳   スカイライン2000GT 
 3.田中健二郎  スカイライン2000GT
 4.高野光正   べレット1600GT
 5.R.レイガン スカイライン2000GT
 6.山下友也   スカイライン2000GT

◆フォーミュラカーレース(25周)
 1.望月 修   コルトF2A
 2.益子 治   コルトF2A
 3.浅岡重輝   アローベレットF2A
 4.長谷川弘   コルトF3A
 5.米山二郎   ヨネヤマべレット
 6.成広不二夫  レクソール


第五十八回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
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