リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第11回
本物のロードレースin鈴鹿

(1)地域を代表する!?ノービスの選手たち

記念すべき鈴鹿最初のビッグレースは大降りの雨にたたられた。にも関わらず世紀のレースを見ようとギャラリーが詰めかけた。

1962年11月、新設の《鈴鹿サーキット》で、第一回全日本選手権ロードレース大会が挙行された。主催は、これまた新規の組織である日本モーターサイクル協会。(この組織は、のちに(財)日本モーターサイクルスポーツ協会》=MFJとなって現在に至る)

《鈴鹿》のオープニングを飾るこのレースは「ノービス」と「セニア」の2クラスに分けられ、ノービスは市販スポーツ車を含む一般量産車をベースとする車両で、ライダーも世界GP未経験に限るという条件が付く。一方のセニアは、国際ライセンスを所持する世界GPのライダーとマシンによって争われる。

リキさんは、自著の『サーキット燦々』を紐解きながら言った。

「どうしてもわれわれは、まあ、わかりやすさもあってね、たとえばホンダ対ヤマハとか、レースをメーカー対抗みたいに捉えちゃうし、いまもそういう視点で喋っているけどね(笑)」(リキさん)

しかし、少なくとも主催者の側は「ノービスはあくまでもアマチュアである」としていた。同時に、せっかく沈静化していた国内メーカーの対抗心を煽るものではないという姿勢にもこだわっていたと、リキさんは語る。

「だから、ノービスの50ccと125ccでは黒沢(元治)君が優勝するのだけど、プログラムにも結果表にも、彼が乗ったマシンがホンダCRであるとは書いてない。彼は地域の代表として勝った、だから『1位 黒沢元治(関東)』だけなんだね」

――なるほど、でも前々回でしたか、《鈴鹿》ができて、そこでレースを行なう意義として、「国内モーターサイクル・スポーツを、国際的なルールに基づいて正しく指導し、青少年に夢と希望を与えるための雄大な目標をつくり、われわれ日本人の目の前でその活躍ぶりをあますところなく展開しようということで計画された」のが、このオープニング・レースなんだという壮大な宣言がありましたものね?

「そうです、意図としてそれはあった。これは歴史的な事実として、押さえておきたいこと。ただね、じゃ、そういう健全な青少年がプラッと鈴鹿に来て(笑)、走らせてください!で済むようなコースじゃない! これも前回にお話しした通りです」

(2)ノービス250ccクラス、圧勝したのはヤマハだった!

完成した《鈴鹿》のコケラ落としとなるレース、当然、ホンダは全クラス制覇でこのイベントを盛り上げたかったに違いない。そんな目論み通りに、市販量産車改造のスズキやトーハツが参加する50ccと125ccクラスでは、本格的な市販レーシングスポーツ型をさらにパワーアップした「CR110」と「CR93」を擁するホンダが圧勝した。

S字を行くメインレース“第一回鈴鹿クラブマン”。竣工したばかりであることを証明するように、随所に未完成の個所がある。

「見方を変えると、この二つのクラスに“ワークス・マシン”を用意していたのはホンダだけだった。もちろん、性能のいいクルマを用意するのもレースのうちですから、こうしてちゃんと勝つというのは、これは立派です。ただ、ここには強力なライバルがいなかったのも、また事実──」

――なるほど、この両クラスには“あのメーカー”はエントリーさえもしていない?

「ヤマハ、ですね! でも、いまになって分析すれば、ですが彼らはホンダとはまったく異なる体制で鈴鹿オープニングレースに備えていたとしか思えないのです。というのは、ヤマハは、鈴鹿サーキットが建設されることは当然知っています。そして、その《鈴鹿》完成の暁には、大々的なレースが開催されるだろうとも予測していたでしょう」

「だから、いつレースがあってもいいように、《鈴鹿》が完成する半年も前の1962年春先には、ひそかに参戦準備を整えていたと考えざるを得ないのです。なぜなら、メーカー間で正式に《鈴鹿》でのオープニングレースが検討されたのは7月か8月で、その後、正式な告知になったのですから」

ヤマハが乗り込んだ!! ライダーのヘルメットは、銘柄対抗レースではないっ!を強調して、関東、東北、中部など全国8ブロックから選抜されたライダーである証明に、出身地(選抜地)を示す2本のストライプが義務づけられた。

――なるほど、その検討をもとに、じゃあウチも参加するよ……ではなかったんですね、ヤマハは!

「秋の鈴鹿で、ホンダには勝たせない! そのためのマシンも準備していた。……というか、すぐれたマシンを持つ250ccクラスに集中して、ホンダを破ろうとした。そのマシンが『TD-1』です」

「そのヤマハに対し、ホンダはどうかというと、これは既に述べていますが、鈴鹿前哨戦ともいえる九州・雁ノ巣クラブマンレースの50、125クラスで圧勝して、このクラスについてはマシンもライダーも絶対の自信がありました」

「しかし、ハイライトとなる250&350ccでは、完全な出遅れと、ある面では過剰な楽観視があって、それが敗因になると分析できますが、これは次回の話として、伏兵ヤマハのマシンに触れましょう」

――これが、そのクルマ、『TD-1』のインプレッション記事ですね。リキさんご自身がテストコースで試乗された?

 ヤマハTD-1 試乗記を読む 

リキさんはつづけた。

「クルマもそうだけど、もうひとつは戦略です。たとえば、オープニング・レースの一ヵ月前の10月中旬、鈴鹿のコースを走れますということで、サーキットに各チームが集まったんだけど、ヤマハだけ来ない!」

「ヤマハの監督は、第一回の浅間高原レースで、初陣ヤマハを勝利に導いた“鬼の渡瀬”、渡瀬善三郎氏で、この人、戦国時代でいうなら真田幸村かなあ? ヤマハ・チームは真田軍団のように巧みな戦略を駆使しました」

「クルマと戦略、レースにおけるそのひとつの例が『スタート』です。当時は、エンジンの始動は“押し掛け”だった。この押し掛けというのは、ローギヤに入れた状態でクラッチレバーを握り、マシンを押して、勢いがついたところでクラッチをつなぎ、エンジンを始動させ、シートに飛び乗る。通常、このスタート方式では、まあ五歩か六歩マシンを押さなければエンジンがかからないのですが、ヤマハはおおむね、二歩ないし三歩でスタートできるようにした」

――おおっ! それはすごいですね!

「ここで驚いちゃいけない!(笑)レース本番のときには、そういうセットアップにするんだけど、練習のときには、メカニックがわざと“かかりにくい”仕様にしておいて、ライダーを特訓した」

「こうやって、真っ先にヤマハ勢が先頭集団を形成する先手必勝! これがヤマハの戦略ですが、同時にホンダの弱点も計算していた。これについても、次回にお話しましょう」

1962年11月、《鈴鹿》オープニングの全日本選手権ロードレース。ノービス250ccクラスでは、ヤマハの三橋実、片山義美両選手が1~2位を独占。ホンダCR72の加藤爽平選手は、2位の片山に遅れること15秒の3位でレースを終えた。

さらに、もうひとつのハイライトとなる350ccクラスでは、ホンダ、ヤマハともに、フルスケールの350cc車ではなく、250ccエンジンをボアアップしたマシンでエントリーしていた。ホンダCR77は305cc、ヤマハは255.02ccだったが、このレースでも、ヤマハの片山義美選手は、2位のホンダCR77(榎本正夫選手)に、1分以上の差をつけて優勝した。

第十一回・了 (取材・文:家村浩明)