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	<title>タチの悪い歴史の紐解き方 - F1 STINGER 【スティンガー】</title>
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	<description>F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集</description>
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		<title>2011@suzuka</title>
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		<pubDate>Mon, 10 Oct 2011 00:08:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>
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<p>Congratulations,Seb!You have done a great job all season and deserved the title.to became a double World Champ・・・</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>Congratulations,Seb!<br />You have done a great job all season and deserved the title.<br />to became a double World Championship is a very very good job.<br />You are the real World Champion!<br />Thank you very much!!</p>
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<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img decoding="async" loading="lazy" style="TEXT-ALIGN: center; MARGIN: 0px auto 20px; DISPLAY: block" class="mt-image-center" alt="" src="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/images/01vettel.jpg" width="180" height="260" /></span></p></p><p>The post <a href="https://f1-stinger2.com/kasetatsuya/2011suzuka/">2011@suzuka</a> first appeared on <a href="https://f1-stinger2.com">F1 STINGER 【スティンガー】</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>英雄の憂鬱</title>
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		<dc:creator><![CDATA[f1-stinger2248]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 16 Jan 2011 12:30:31 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<br />
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<p>&#8230;..それは王者にあるまじき行為だった。&#8217;10年最終戦アブダビGP、このレースで3度目のドライバーズ・タイトルを獲得出来た筈のフェルナンド・アロンソは、自分がレース全般に於いて抜けなかった目前の敵・・・</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">&#8230;..それは王者にあるまじき行為だった。&#8217;10年最終戦アブダビGP、このレースで3度目のドライバーズ・タイトルを獲得出来た筈のフェルナンド・アロンソは、自分がレース全般に於いて抜けなかった目前の敵／6位でフィニッシュしたルノーのルーキー・ドライバー、ヴィタリー・ペトロフに対し、パレード・ラップ中に拳を振り上げて抗議したのである。それは、逆転で初めてのタイトルを手にした<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-24.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">レッドブル</font></a>の若き天才、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/goseb.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">セバスチャン・ヴェッテル</font></a>の喜びに満ちたガッツ・ポーズとはあまりにも対照的なものとなって、全世界にTV放映された。「もしも僕が彼の立場だったら確かに怒ったかも知れない。でもそれは間違った戦略を選んだ自分とチームに対して、だけどね！」ペトロフは堂々と、自らの翌年のシート確約に向けて良いレースをしたという確信に満ちた表情をしていた。反対にアロンソは明らかにイライラしていた。&#8230;..名門<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/06/post-29.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェラーリ</font></a>での初年度、アロンソは最後の1戦で&#8221;敗者&#8221;となったのである。<br />&#8230;..フェルナンド・アロンソ。&#8217;10年、念願の名門フェラーリを果たし、久しぶりにタイトル争いの場へと返り咲いたスペインの英雄である。が、最終戦でランキング首位にいたアロンソと彼のチームはとてつもなく初歩的な戦略ミスを犯し、同じく選手権2番手の<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-25.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マーク・ウェバー</font></a>（レッドブル）と主に後方に沈み、ランキング3番手のヴェッテルに易々と逆転王座を献上してしまった。終ってみればどうにもチグハグなシーズンを終え、当初彼ら（アロンソ＋フェラーリ）は元王者として最強の組み合わせに思えていた。が、結果的に昨年王者となったヴェッテル＋レッドブルは、これまでとは違うポイント・システムを最大限に活用し、新王者となった。そしてその裏には、絶対的No.1ドライバーと王道の戦略を採った名門チームの、戦略の&#8221;古さ&#8221;が浮き彫りになってしまった。<br />アロンソの時代はもう終ったのか？。現役最強ドライバーと言われ、鳴りもの入りでフェラーリ入りを果たしたスペインの英雄は、再び輝くことが出来るのか？。</p>
<p>フェルナンド・アロンソは1981年7月29日、スペインの北部の工業都市、アストゥリアス州オビエドにて、炭坑夫の父とパート主婦、というオビエドでは極めて一般的な家庭に誕生。父ホセ・ルイス・アロンソは自らがアマチュアのカート・レーサーであったことから、自分の子供達にもレースを楽しんで貰いたいと、まず8歳の長女ロレーナにカートを買い与えたが全く興味を示さず、ほどなくカートは当時3歳の弟、フェルナンドのものとなったのだという。そしてカートに夢中になったアロンソは&#8217;88年にカート・アストゥリアス・選手権にデビュー、7戦に勝利してタイトルを獲得してみせた。幼いアロンソのアイドルは<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_21.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アイルトン・セナ</font></a>だったと言う。「我が家は決して裕福な家庭じゃなかったけど、父がメカニックとしてレースをサポートしてくれたおかげで、徐々にスポンサーが付いて行ったんだ」&#8217;91年にスペイン・ナショナル・シリーズに参戦、&#8217;93年、12歳のアロンソは遂にスペイン・ジュニア・カート王者となり、このタイトルを以後4年間守り続け、無敵の新人レーサーとして注目を浴びる。&#8217;96年にはカート世界選手権を制覇、&#8217;97、&#8217;98年とスペイン／イタリアでインターAのタイトルも獲得した。<br />この若き王者の活躍に注目したのが、同国出身の元F1ドライバー、エイドリアン・カンポスであった。カンポスは自らのチームにアロンソを招き、3日間のフォーミュラ・ニッサンのテスト走行を担当させた。この際、自身初のフォーミュラカー・ドライヴとなったアロンソはアルバセテ・サーキットで数日前に行われたレースのポール・ポジション・タイムに匹敵する好タイムを記録。これによりアロンソは翌&#8217;99年、カンポスのチームからユーロ・オープン・モビスター・バイ・ニッサンに参戦し、デビュー戦優勝という鮮烈なスタートを切り、楽々とタイトルを獲得してみせた。<br />&#8230;..このスペイン出身の若きスターの活躍に眼をつけた者がもうひとりいた。フラビオ・ブリアトーレ。ベネトンF1チームのマネージャーを経て、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミハエル・シューマッハー</font></a>を擁してタイトルを獲得した有能なビジネスマンであるブリアトーレが早くもアロンソを傘下に置き、この年のF1ミナルディ・チームのテスト・ドライヴの機会を設ける。ここでも他の新人を寄せ付けない速さを見せたアロンソは&#8217;00年の国際F3000選手権参戦（ランキング4位）を経て、&#8217;01年、ブリアトーレのマネージメント下／ルノーの契約ドライバーとしてミナルディからF1デビューを飾る。19歳と217日は、史上3番目の若きF1デビューとなった。しかし実はブリアトーレはアロンソに経験を積ませるため、敢えて弱小チームであるミナルディからのデビューをセッティングし、翌&#8217;02年、今度はルノーのテスト・ドライバーとしてトップ・チームとの仕事のやり方を学ばせたのである。「もちろんその頃はレースに出たくてウズウズしていたけれど、今振り返れば良い経験を積むことが出来たと思えるよ」&#8217;03年、アロンソはチームを解雇された<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/07/post-34.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジェンソン・バトン</font></a>の後任としてルノーのレギュラー・シートを獲得、遂にトップ・チームからのF1参戦となった。</p>
<p>若き才能の開花はあっと言う間に訪れた。第2戦マレーシアGPで自身初のポール・ポジション獲得。21歳236日でのP.P.獲得はF1最年少記録となり、翌日の決勝では3位に入賞して初表彰台、これも21歳237日での達成は最年少記録であり、同時にスペイン人F1ドライバーとして初の表彰台獲得でもあった。第5戦地元スペインGPは故郷・オビエドの青いフラッグがグランド・スタンドを埋め尽くす中、絶好調のフェラーリ勢に割って入る2位フィニッシュ。波に乗るアロンソは第13戦ハンガリーGPで自身2度目のポール・ポジションを獲得。決勝でもスタートからグイグイと2位ウェバー（ジャガー）との差を広げて行き、10周目には既に17秒差。最終的にはチーム・メイトであるベテランのヤルノ・トゥルーリまでも周回遅れにする圧倒的速さで初優勝。これはワークス・ルノーとして20年振り、自身も22歳と26日でのF1初勝利で、続々と最年少記録を塗り替えて行った。この実質的なF1デビュー・イヤーをアロンソは1勝／55点獲得／シーズン6位で締めくくった。<br />翌&#8217;04年は開幕から常勝フェラーリ勢が圧倒的な速さを見せ、アロンソは無勝／ランキング4位に留まる。そして迎えた&#8217;05年、経験を積んだスペインの若き英雄は遂に王者フェラーリ、そして7度の世界タイトルを獲得した皇帝・シューマッハーへ挑む時を迎えた。</p>
<p>&#8217;05年、ルノーが打倒フェラーリのために制作したニュー・マシンR25は開幕から戦闘力を発揮、開幕戦こそチーム・メイトのジャンカルロ・フィジケラの後塵を拝するが第2戦マレーシアで自身2勝目を挙げるとそこから破竹の3連勝。第10戦フランスGPでは地元ルノーに22年振りの勝利を齎した。序盤でフェラーリ撃墜に成功したルノー陣営はシーズン中盤から<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/m.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マクラーレン</font></a>・メルセデスの若きエース、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/iceman.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">キミ・ライコネン</font></a>が追い上げるが、最終的にライコネンと同じ7勝で逃げ切った。「素晴らしい。人生を通じ、願っていたことが叶った瞬間だ。僕はこれが欲しかったのさ！」スペイン初のF1世界王者は24歳58日での史上最年少F1王座獲得であり、これはブラジルの雄エマーソン・フィッティパルディの25歳273日を33年振りに塗り替える記録ともなった。</p>
<p>翌&#8217;06年、アロンソ／ルノーはシーズン序盤に前年の好調さを維持し、後半にシューマッハー／フェラーリの猛対を受けるもこれを寄せ付けず、見事に2年連続王者に輝く。これにより、アロンソは現役として最強時代のシューマッハーと直接対峙し、打ち破ったことで名実共にF1の若き英雄となったのである。<br />&#8230;..&#8217;07年、アロンソは満を持して好調のもうひとつの最強ワークス、マクラーレン・メルセデスへと移籍する。チーム・メイトはファン・パブロ・モントーヤのNASCAR移籍、ライコネンのフェラーリ移籍でデビューが決まった、マクラーレンの秘蔵っ子でこの年F1デビューとなるイギリスの<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/f1-3.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルイス・ハミルトン</font></a>。つまり、2年連続王者アロンソは新人を相手に、マクラーレン・メルセデスの新たなエース・ドライバーとしてチームに迎え入れられる、ということになる&#8230;..筈だった。</p>
<p>開幕戦オーストラリアGPをフェラーリのライコネンが制し、続く第2戦マレーシアでアロンソはマクラーレン移籍初勝利を挙げる。第3戦バーレーン、第4戦スペインをライコネンの同僚<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/forza-felipe-siamo-con-te.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェリペ・マッサ</font></a>が制し、ライバル・チームの星が割れる中、第5戦モナコをポール・トゥ・ウィンで制したアロンソはマクラーレンのエースとしてタイトル争いをリードする。ところが、ここまで未勝利ながらもデビュー以来全戦で表彰台に上がった新人ハミルトンが得点上アロンソと並び、第6戦カナダで自身初優勝、続く第7戦アメリカGPも制してドライバーズ・ランキングのトップに躍り出る。<br />アロンソは困惑し始めていた。確かに、ハミルトンはマクラーレンの総帥、ロン・デニスの秘蔵っ子として英才教育を受け、満を持してF1デビューを迎えた、マクラーレンの地元である英国人である。そして、マクラーレンは伝統的に&#8221;ジョイントNo.1&#8243;を唱うチームである。しかし、アロンソの常識の中では、どう考えても2年連続、それも皇帝・シューマッハーを倒して世界王者となり、カーNo.1を纏う自分こそがマクラーレンのエース・ドライバーな筈である。それが、どうもチーム全体のムードを自分へと向けることが難しい。これは、ルノー時代には有り得ないことだった。焦ったアロンソは、第11戦ハンガリーGP予選でハミルトンのアタックを妨害するという、不必要なミスを犯す。これによりチーム内での信頼をも失ったアロンソは、結局最終戦まで縺れたタイトル争いに僅か1ポイント差でライコネンに敗れてしまった。更にマクラーレンとフェラーリを巡る&#8221;スパイゲート事件&#8221;に於いて、マクラーレン側に不利な証拠となるEメールの存在を公開したことでデニスと対立。居場所を失ったアロンソは3年契約だったマクラーレンを僅か1年で去ることとなってしまった。</p>
<p>&#8217;08年、アロンソは&#8221;やむなく&#8221;、古巣ルノーへと復帰。しかしそこは既にアロンソに2年連続王座を齎したトップ・チームではなく、低迷する中堅でしかなかった。アロンソは走らぬマシンと格闘しながらも徐々に成績を挙げ、シーズン終盤第15戦シンガポールGPでシーズン初勝利。ところが後になってこのレースはアロンソを勝たせるためにブリアトーレとルノーのディレクター、パット・シモンズが企てた、アロンソのピット作業直後にチーム・メイト（ネルソン・ピケJr）を故意にクラッシュさせてセーフティ・カー導入のきっかけを作り、ピット作業を強いられるライバルを出し抜く、という所謂&#8221;<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/09/post-10.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">クラッシュ・ゲート</font></a>&#8220;によるものだったことが発覚。しかし、本人はこの勝利で波に乗り、続く第16戦鈴鹿を連覇。&#8217;09年は未勝利に終るが、アロンソは既に自らのキャリアを修正し、最高の舞台へ上がるべく準備を行っていた。10月1日、アロンソ、フェラーリ入り発表。そこには、アロンソが最も欲しかったもの、つまり揺るぎない&#8221;絶対的エース・ドライバー&#8221;としての待遇が約束されていたのである。</p>
<p>そして迎えた&#8217;10年シーズン。遂に栄光の跳馬のエース・ドライバーとなったアロンソは開幕戦バーレーンGPを制覇。グリッド上で決してベストなマシンではないにも関わらず、チーム5年目となるチーム・メイトのマッサを寄せ付けず、タイトル争いに加わってみせた。が、&#8217;08年第15戦シンガポールの&#8221;クラッシュ・ゲート事件&#8221;で付いたイメージを更に強くする事件が起きた。第11戦ドイツGP。ポール・ポジションのヴェッテル（レッドブル・ルノー）と予選2番手のアロンソのコーナー争いの隙を付き、予選3位のマッサがトップに躍り出てフェラーリ1-2態勢へ。レース中盤、マッサのペースが上がらなくなり、3位ヴェッテルがアロンソに肉迫する。アロンソは無線でピットに「バカげている！」と抗議。ドライバーズ・タイトルを争う自分がマッサの後でフィニッシュすることを受け入れられないとチームに訴えた。<br />そして48周目、トップを走るマッサの無線に担当エンジニア、ロブ・スメドレイからの声が飛ぶ。「<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/07/post-35.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェルナンドは君より速い。言ってる意味、解るよね？</font></a>」マッサは無言だった。翌49周目、マッサはターン6の立ち上がりでアクセル・ペダルを緩め、露骨にアロンソにトップを譲った。そしてスメドレイから「ありがとう。すまない」との返事が世界中に流れたのである。アロンソはトップでチェッカーを受けたあと、無線で「フェリペはいったいどうしたんだ？、何かあったのか」とチームに問いかけた。返事は「いや、大丈夫だ。その件に関してはあとで話すよ」と意味深なものだった。<br />チーム間で順位をコントロールするのはモータースポーツと言えども作戦上当然のことである。が、レース中にチームの指示でそれが行われるのは、ドライバーズ選手権でもある以上スポーツマン・シップ的に適切でないとされ、国際スポーティング・コード第39条に&#8221;チーム・オーダー禁止&#8221;という条例が設けられていた。フェラーリはこれに違反したのである。が、レース・スチュワードとFIAはフェラーリに10万ドル（約900万円）の罰金を課したが、順位はそのままとなった。つまり、アロンソは&#8217;10年、ひとつは確実に勝利を&#8221;譲り受けた&#8221;のである。<br />最終戦アブダビGP。ポール・ポジション・スタートのヴェッテルが勝っても自身4位、予選で自分より後方だったレッドブルのウェバーが勝っても自身2位でタイトル獲得、というポジションにいるアロンソが、どう考えてもタイトル獲得の可能性が最も高い位置にいた。そして、冒頭に記した通り、アロンソは伏兵となったルノーの新人ドライバーを抜きあぐね、王座争いに敗れた。そしてあろうことか、パレード・ラップ中にその新人ドライバーに拳を振り上げたのである。</p>
<p>9年間で出走160戦、ドライバーズ選手権製制覇2回、優勝26回、ポール・ポジション獲得20回、最速ラップ18回、ポール・トゥ・ウィン13回、通算獲得ポイント829点。シューマッハー／フェラーリの栄光時代に、実力で王座を奪い取った若きスペインの英雄、それがフェルナンド・アロンソのイメージである。<br />意外にもアロンソは自らのドライヴィング・スタイルを評して、安定感に優れているのだと言う。「僕は決して最速でも最強でもないよ。ただ、安定感があるんだ」母国スペインに於いて、スペイン人初のF1ウィナー／ワールド・チャンピオンであるアロンソの人気は凄まじい。元よりレース好きの国民性も手伝い、アロンソの登場でF1人気も上がり、熱狂的なアロンソ・ファンによる&#8221;アロンソ・マニア&#8221;が存在し、オビエドの青い横断幕を掲げてアロンソを応援する。&#8217;05年に初タイトルを獲得した際、地元オビエドでは全人口20万人の内1/4にあたる5万人が広場に集まって大騒ぎとなった。またアロンソはスペインの王太子賞を史上最年少で受賞、正にスペインでは&#8221;国民的英雄&#8221;と呼ぶに相応しい存在である。<br />&#8230;..その英雄が時折見せる素顔。彼は明らかにイライラしている。</p>
<p>&#8220;クラッシュ・ゲート事件&#8221;の舞台となった&#8217;08年第15戦シンガポールGP。低迷するシーズンに於いて何故か絶好調のアロンソは予選Q1で6番手のタイムを余裕で記録、市街地／F1初のナイト・レースで、アロンソと彼の担当エンジニアは明らかに適切なセット・アップを見つけ出しており、決勝レースでの好成績が期待されていた。が、Q2開始直後に燃料系のトラブルでストップ、不本意な予選15位となったアロンソはマシンを降りるや天を仰ぎ、悔しさを全身でアピール、ピットへ帰ってからも怒り心頭でメカニック達に当たり散らした。もしかしたらシーズン初優勝も可能だったかも知れないこのチャンス、結局ルノーの首脳陣はあってはならない作戦を模索し、そして事件は起きてしまった。<br />&#8217;10年第10戦ドイツGPも同様である。絶妙なスタートで先行するマッサに抑え込まれ、チームに無線で「こんなのバカげてる！」と抗議、最終的にマッサに先頭を譲らせて勝利した。最終戦アブダビGPでは自分が抜きあぐねたルノーのペトロフに拳を振り上げて「オマエのせいでタイトルを逃した」と言わんばかりのアピールを行った。もちろんペトロフはアロンソと同一周回でポイントを争っており、文句を言われる筋合いは全くない。ただ単に、彼らはアロンソの&#8221;予定&#8221;を狂わせるものだっただけなのである。<br />こうした行動から見え隠れするもの&#8230;..それは、アロンソの性格に潜む&#8221;自己中心主義&#8221;である。もちろん言い方を変えれば、それは世界最高峰カテゴリーのエース・ドライバーに、そしてワールド・チャンピオンに必要不可欠なものである。ただし逆の見方をすれば、アロンソのそれは相当に極端でもあり、例えばレース中のオンボード・カメラに映し出される&#8221;前方のバック・マーカーに進路を譲れと抗議する&#8221;回数だけでも相当に多く、ヴェッテルやハミルトンなどはそれが悪質なブロックでない限りは滅多に行わないが、アロンソは相手が見えて来た時点で既に手を振って進路を確保しようとする。しかもそれが&#8217;10年最終戦のように同一周回で順位を争う相手にまで及ぶとなると、これは相当な&#8221;オレ様主義&#8221;と言わざるを得ない。が、F1の、それもフェラーリのエース・ドライバーとして考えれば当然のことかも知れず、ある意味同じことを行って一時代を築いたシューマッハーの後継者、としては相応しいと言える。</p>
<p>その&#8221;オレ様&#8221;アロンソの立場が最も揺らいだのが前述のマクラーレン時代である。アロンソはキャリアで初めて&#8221;手強い相手&#8221;（敵わない相手、ではない）に遭遇した。ハミルトンは確かにマクラーレンの&#8221;秘蔵っ子&#8221;だったが、決してチームに贔屓されていたわけではない。チームは伝統に則り&#8221;ジョイントNo.1&#8243;を掲げただけなのである。ところがアロンソはこれに不信感を持ち、不用意にもマスコミにアピールすることで発散しようとし、過剰反応したスペイン国民13万人（！）がチームに嘆願書を提出したり、ハミルトンに対する人種差別行動などに発展してしまった。ちなみにアロンソが&#8217;07年のマクラーレンを「僕のおかげでコンマ5秒速くなった筈」と発言した際、ハミルトンから「これは大勢のスタッフがいてのチーム・プレイ。誰かひとりのおかげなんてとんでもない」と反論されている。こうした経緯により、アロンソはこのままマクラーレンに留まることで自身が&#8221;ヒール（悪役）&#8221;とイメージされるのを恐れたこともあり、王者マクラーレンとの3年契約を1年で破棄する事態に至ったのである。</p>
<p>アロンソは2度の世界王座を獲得すると共に、2度に渡って獲れた筈のタイトルを逃している。1度はマクラーレン時代、最強マシンを手にしながら、ハミルトンと星の奪い合いとなってフェラーリのライコネンにたった1点差で敗れた&#8217;07年。もう1度は点数計算に気を取られたあまり、純粋に勝ちを狙ったヴェッテルに負けたフェラーリ初年度の&#8217;10年。いずれもトップ・チーム加入1年目であり、どちらも逆転負けである。これにより、アロンソのイメージは駆け引きが得意というよりも、がむしゃらに走った際の圧倒的強さが際立つ。ところが、意外にもプライベートでのアロンソには&#8221;カード・ゲーム／マジック好き&#8221;という一面があり、ヘルメットのデザインにも用いられているほどで、中でもポーカーがお気に入りのようである。F1のパドックでも多くのドライバー仲間や関係者を招いてポーカー大会を行うほどで、こうした部分にアロンソの&#8221;駆け引き&#8221;に対する並々ならぬ興味が見え隠れする。しかし、特にスペインのマスコミにとってはこの世界的英雄と、妻であるスペインの人気ロック・グループのリード・シンガー、<a href="http://www.elsuenodemorfeo.com" target="_blank"><font color="#ff00ff">ラケル・デル・ロサリオ</font></a>とのプライベートは格好の標的となり、常にパパラッチとの攻防が繰り広げられている。</p>
<p>&#8230;..アロンソの2010年の&#8221;負け方&#8221;はこれ以上なく酷いものだった。トップ・レベルとは言い難いマシン性能、後手後手に回ってしまうレース戦略、そしてライバル達の底力。しかし、伝統の跳馬を背負う英雄・アロンソは鬼門の&#8221;トップ・チームでの1年目&#8221;を終え、いよいよ攻撃態勢を整えて来る。明らかにマッサをセカンド・ドライバーに落として自らが名実共にフェラーリの真のエースとなり、フェラーリ自体も得意の<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/05/kers.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">KERS</font></a>が復活する2011年。もはやアロンソに死角はない。スペインが誇る英雄は、今年こそ天下を獲りに来る筈だ。</p>
<p><i>「フェラーリがキャリア最後のチームだ」／フェルナンド・アロンソ</i><br /></font></p>
<p><font color="#3e6b3a">////////////////////////////////////////////////</font></p>
<p><font color="#3e6b3a">&#8230;..さて、筆者の本拠地となるサイト&#8221;加瀬竜哉.com（<a href="http://www.kasetatsuya.com" target="_blank"><font color="#ff00ff">www.kasetatsuya.com</font></a>）では、この度F1の最新ニュースを深く掘り下げ、更に入門者にも可能な限り解りやすく、そのニュースの背景を解説／検証する新コンテンツをスタート！。その名もズバリ、<br />no race, no life formula1 topics<br />複雑な人物名や関係、経緯などを初心者向きに目線を下げ、それでも伝統の&#8221;no race, no life&#8221;の名に恥じないよう、オレ流の&#8221;バリアの外側目線&#8221;で最新情報をバッサリ切って行きます。どうぞお楽しみ下さい！。</p>
<p><a href="http://www.kasetatsuya.com/cgi/uk/topics.cgi" target="_blank"><font color="#ff00ff">no race, no life formula1 topics</font></a></font></p>
<p><font color="#3e6b3a"></font>&nbsp;</p><p>The post <a href="https://f1-stinger2.com/kasetatsuya/%e8%8b%b1%e9%9b%84%e3%81%ae%e6%86%82%e9%ac%b1/">英雄の憂鬱</a> first appeared on <a href="https://f1-stinger2.com">F1 STINGER 【スティンガー】</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>王者の意外な真実</title>
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		<dc:creator><![CDATA[f1-stinger2248]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 21 Jul 2010 12:15:58 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<br />
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<p>&#8230;..F1世界選手権&#8217;10年シーズンも遂に折り返し地点を超え、今シーズンの各チームの勢力図がハッキリして来た。と同時に、今季がいったいどれだけ混迷のシーズンなのかを象徴するような途中経過となってい・・・</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">&#8230;..F1世界選手権&#8217;10年シーズンも遂に折り返し地点を超え、今シーズンの各チームの勢力図がハッキリして来た。と同時に、今季がいったいどれだけ混迷のシーズンなのかを象徴するような途中経過となっている。第10戦イギリスGPを終え、現在ドライバーズ・ランキング上位5名は以下の通り。</p>
<p></font></p>
<table border="0">
<tbody>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a">1</font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">ルイス・ハミルトン（マクラーレン・メルセデス）</font></td>
<td width="5"></td>
<td align="right"><font color="#3e6b3a">145点</font></td>
</tr>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a">2</font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">ジェンソン・バトン（マクラーレン・メルセデス）</font></td>
<td width="5"></td>
<td align="right"><font color="#3e6b3a">133点</font></td>
</tr>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a">3</font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">マーク・ウェバー（レッドブル・ルノー）</font></td>
<td width="5"></td>
<td align="right"><font color="#3e6b3a">128点</font></td>
</tr>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a">4</font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">セバスチャン・ヴェッテル（レッドブル・ルノー）</font></td>
<td width="5"></td>
<td align="right"><font color="#3e6b3a">121点</font></td>
</tr>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a">5</font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">フェルナンド・アロンソ（フェラーリ）</font></td>
<td width="5"></td>
<td align="right"><font color="#3e6b3a">98点</font></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p><font color="#3e6b3a"><br />&#8230;..まず、この時点でのドライバーズ・ランキング上位2名を今シーズン開幕前に言い当てることが出来た人はおそらくいないだろう。それは、ひとつには昨年終盤に向けて無類の速さを誇った<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-24.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">レッドブル</font></a>が&#8217;10年の大本命チームであり、それは同時に若き挑戦者、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/goseb.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">セバスチャン・ヴェッテル</font></a>の選手権独走に近い状況を予想させた。また&#8217;09年シーズン途中に現行マシンの開発を諦め、早期に&#8217;10年型新車の開発に力を注いで来た<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/06/post-29.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェラーリ</font></a>の大躍進も期待された。更にディフェンディング・チャンピオンとなった<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ブラウンGP改めメルセデスGP</font></a>の誕生と、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">皇帝ミハエル・シューマッハー</font></a>の電撃復帰も相まって、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/m.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マクラーレン</font></a>・メルセデス勢は良くてその下、場合によっては優勝戦線からは昨年のように遠ざかったシーズン・スタートになるのではとまで思われていた。<br />それが、現在マクラーレン勢のふたりが僅か12ポイント差で1-2態勢を築き、コンストラクターズ選手権でもマクラーレン278点／レッドブル249点でブッチ切りの首位である。確かに、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-25.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マーク・ウェバー</font></a>はシルバーストンで3勝目を挙げ、ヴェッテルとの熾烈な&#8221;チーム内No.1争い&#8221;を繰り広げながら猛追して来ている。が、数字上マクラーレンのふたりがこうしてトップを守っているのは事実であり、今シーズン最大の驚きとも言える。</p>
<p>&#8230;..昨年、ブラウンGP・メルセデスで初の世界王者となったジェンソン・バトン。イギリス人として10人目の世界王者への道程は簡単ではなかった。そのバトンが今季マクラーレンへの移籍を決めた時、多くの人がその選択は失敗であり、彼はブラウンGPに残留すべきだったと言った。その理由のひとつには、マクレーレンには秘蔵っ子のエース、&#8217;08年王者<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/f1-3.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルイス・ハミルトン</font></a>がいるからだ、が、結果的に現在バトンはそのハミルトンと僅差でランキング2位となり、メルセデスGPもレッドブルも見下ろす位置にいる。周囲の予想を覆すその強さはいったい何処から来ているのか。<br />人生最大のギャンブルに打って出た英国のプレイ・ボーイ、ジェンソン・バトンのキャリアを、今こそ振り返ってみたい。</p>
<p>ジェンソン・アレクサンダー・ライオンズ・バトンは&#8217;80年1月19日、イングランド／サマセット州にて&#8217;76年イギリス・ラリークロス選手権2位の父、ジョンと妻シモーンの間に誕生。ジェンソンが7歳の時に両親は別居し、ジェンソンは父ジョンと共に暮らしていた。その年のクリスマス、ジョンはジェンソンにレーシング・カートをプレゼントする。ジェンソンはこのおもちゃに即座に夢中になるが、反面友人関係には難しい側面を齎した。「僕は内気だったのでカートをやってることは皆に内緒にしていたんだ。&#8217;91年にカデット・カート・チャンピオンになった時（34戦全勝！）、学校が祝賀会を開くと言って酷く困惑した。僕はそれは父との秘密にしておきたかったんだよ！」ジェンソンはヘルメットの内部に閉じ込められた小さな自分が普段の姿から&#8221;変身&#8221;し、大胆不敵なヒーローになった、と感じていた。それはまるでスーパーマンのようなイメージであり、ジェンソン少年にはその正体を皆に知られることは不本意なことだったのである。「<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_80.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アラン・プロスト</font></a>と<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_33.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ナイジェル・マンセル</font></a>が僕のヒーローだったんだ。僕のドライビング・スタイルはきっとアランに似ているんじゃないかな。基本的にはスムーズで、リスクが必要な時は計算するんだ」<br />父ジョンはジェンソンの才能を素早く見抜き、自らも没頭したモーター・レーシングの世界でジェンソンが必ず成功することを確信、惜しみない投資とバックアップを行った。そしてジェンソンは&#8217;97年カート・スーパーAクラス・ヨーロッパ選手権を史上最年少（17歳）で制覇、その後18歳でイギリス・フォーミュラ・フォード選手権にステップ・アップし、初年度から9勝を挙げて王座獲得。この活躍でマクラーレン／オートスポーツのヤング・ドライバー・オブ・ザ・イヤーを受賞、マクラーレンのF1テストのご褒美を得た。<br />&#8217;99年、ジェンソンはイギリスF3選手権にステップ・アップし、3勝を挙げてルーキー最上位のランキング3位。秋にはF1のプロスト・グランプリからオファーを受けてルーキー・テストに参加、レギュラーの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_42.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジャン・アレジ</font></a>を上回る好タイムを記録して見せた。&#8217;00年、ようやく自動車運転免許を取得した20歳のジェンソンはF1の<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_28.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ウィリアムズ</font></a>・チームに抜擢され、遂にF1デビュー。第2戦ブラジルGPで6位初入賞し、20歳67日での最年少入賞記録（当時）を樹立。イギリス期待の若手は順風満帆なF1デビューを飾った。<br />翌&#8217;01年、バトンは<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_110.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ベネトン</font></a>・ルノーへと移籍。契約そのものはウィリアムズが持っていたが、彼らはCART王者のファン・パブロ・モントーヤを起用するためにバトンをベネトンへとレンタル移籍させたのである。しかしバトンの成績は振るわず、入賞1回／ランキング17位。「F1はドライビング技術だけで充分だと思っていたけど、それは間違いだった」この頃、バトンはグリッド上で最も派手なプレイボーイというレッテルを貼られ、チーム・マネージャーの<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/09/post-10.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フラビオ・ブリアトーレ</font></a>は「ジェンソンは新聞の良い記事だけを読んで、自分が大スターだと思い込むようになってしまった」と語った。<br />&#8217;02年はルノーがベネトンを買収し、フル・ワークスとなった。チームの戦闘力は上がったものの優勝争いには程遠く、表彰台なしのランキング7位でシーズンを終了。「F1では4位が誰だったかなんて誰も気にしてない。表彰台に立たなくては僕の存在は認知されないんだと解ったよ」鳴り物入りでF1デビューしたバトンは低迷するルノーと訣別し、&#8217;03年の<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_95.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">BAR</font></a>（ブリティッシュ・アメリカン・レーシング）ホンダへの移籍を決断。&#8217;97年王者のジャック・ヴィルヌーヴのチーム・メイトとなる。バトンは元チャンピオンを相手に常にリードする走りを見せ、17ポイント獲得でランキング9位となり、チームの新たなエースとなった。反対にヴィルヌーヴはシーズン終盤に自らチームを離脱して行った。<br />&#8217;04年、バトンは日本の<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/02/post-22.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">佐藤琢磨</font></a>をチーム・メイトに迎え、新車BAR006・ホンダの高い戦闘力を武器に大躍進。第2戦マレーシアGPでは自身初の表彰台となる2位でフィニッシュし、第4戦サンマリノGPでは自身初のポール・ポジションを獲得。最終的に2位4回／3位6回でシューマッハー／ルーベンス・バリチェロのフェラーリ勢に続くドライバーズ・ランキング3位を獲得した。BARもコンストラクターズ2位となり、あと足りないのは勝利だけ、となっていた。</p>
<p>迎えた&#8217;05年、バトンは自らの境遇と将来について考え始めていた。「ホンダは将来の参戦計画を明白にしていなかった。それで古巣のウィリアムズと話をするようになったんだ」バトンはウィリアムズと新たな2年契約を締結、しかし既に長期契約を結んでいたBAR側が移籍無効の申し立てを行い、結果的にFIAが介入し、CRB（F1契約承認委員会）によってバトンのウィリアムズ移籍は無効となった。所謂&#8221;バトン・ゲート&#8221;である。結局BARに残留したバトンだったが、チームは前年の大活躍が嘘のような低迷期に陥り、ランキング9位となってしまった。そして最終的にこの年ホンダがBARを買収、バトンの望み通り、チームはワークス・ホンダとなった。<br />&#8217;06年、ワークス・ホンダは琢磨を切り、フェラーリからバリチェロを加入させた。未勝利のまま参戦101戦目を迎えるバトンは正念場を迎えていた。第13戦ハンガリーGP。予選4位と好調だったバトンはエンジン交換のために10グリッド降格となり、14番手スタート。雨の決勝、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/forza-felipe-siamo-con-te.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェリペ・マッサ</font></a>（フェラーリ）、ジャンカルロ・フィジケラ（ルノー）、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/iceman.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">キミ・ライコネン</font></a>（マクラーレン・メルセデス）、そしてミハエル・シューマッハー（フェラーリ）など、トップ集団が次々とミスで脱落。52周目にフェルナンド・アロンソ（ルノー）がコース・オフし、気付けば14番手スタートのバトンがミシュランのウェット・タイヤを上手く使いこなし、トップへ。結局そのままバトンが独走で勝利、F1参戦113戦目の初優勝は史上3番目に遅い記録（当時）であった。「今日は何という日だろう。とにかくこれまで僕を応援してくれた家族と関係者にお礼を言いたい。この日が来るのを信じてずっと仕事をして来たんだ」またこの勝利はホンダ・ワークスにとって<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_69.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">&#8217;67年のジョン・サーティース</font></a>以来の3勝目となり、F1のポディウムで39年振りに&#8221;君が代&#8221;が流れた記念すべき勝利でもあった。<br />&#8217;07年、ホンダに残留したバトンはまたもチームの低迷期に苦しむ。獲得ポイントは僅か6点で年間ランキング15位、チーム・メイトのバリチェロに至ってはノー・ポイントという有様だった。そして翌&#8217;08年、<a href="http://www.honda.co.jp/news/2008/c081205.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ホンダは経済不安を理由にF1撤退</font></a>を決定。バトンは僅か3ポイント獲得／ランキング18位で念願の&#8221;ワークス・シーズン&#8221;を終えることとなってしまった。</p>
<p>&#8217;09年、ホンダF1撤退によって<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_116.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ロス・ブラウン</font></a>率いる新チーム、ブラウンGPが誕生した。しかしこれは僅か1ポンドでのマネジメント・バイアウトによるもので、大きな買収先のないまま、ホンダに放り出された形のままの状態だった。当時、周囲は当然このチームの戦闘力に関して懐疑的だった。が、ブラウンと参謀のニック・フライはホンダ撤退の置き土産である新車の出来があまりにも良く、シーズン制覇も決して不可能ではないことに気付いていた。ブラウンはバトン／バリチェロの両ドライバーに残留を求めた。&#8230;..しかしその契約内容はあまりにも残酷なものであった。前年の&#8217;08年に15億円だったバトンの年棒は一気に5億円までコスト・カットされ、移動の飛行機代すら自腹となった。が、それでもバトンはチーム残留を了承した。「ロスとチーム、そして自分の運命を信じ、賭けたんだ！」そしてブラウンGP・BGP001・メルセデスはシェイク・ダウンから僅か19日後の開幕戦オーストラリアGPでバトン／バリチェロにより予選フロント・ロウ独占〜決勝1-2フィニッシュ、という快挙を成し遂げる。「どうだい、まるでおとぎ話みたいじゃないか！。でも、シルバーストンで初めてこのマシンを走らせた時、こうなる予感はあったんだ。とにかくこの2年間の最悪なシーズンを我慢して来て、今日このような結果が出せて最高だよ！」ブラウンGP・BGP001は特殊なディフューザー構造などで他チームから抗議を受けるも、結果的に合法であるとの結論がFIAから出され、バトンはなんと第7戦トルコGPまでに6勝を達成。この時点でほぼタイトルを手中に収めていた。が、ここからチーム・メイトのバリチェロとレッドブル勢の追反撃に合い、シーズン中盤バトンのリザルトは低迷する。<br />迎えた第16戦ブラジルGP。バトンは85ポイントで選手権トップ、追うバリチェロは71点、レッドブルのヴェッテルが69点で続く。残り2戦、ここでバトンはタイヤ選択に失敗し、予選14位と低迷する。ポール・ポジションは地元バリチェロが獲得。しかし決勝では上位の脱落により5位まで上がり、最終的にレース終盤のバリチェロの低迷にも助けられ、最終戦を待たずして念願の初タイトル獲得。これによりブラウンGPも参戦初年度でWタイトル獲得が決定し、記録的なシーズンが終了した。「もちろん自信はあった。でも今日はタイヤ選択を失敗していたし、インテルラゴスの最終コーナーを立ち上がるまでは信じられなかったよ。勝てなかった夏の間は確かにフラストレーションが溜ったけど、今は全てが報われた気分だ！」バトンは最終戦アブダビGPで3位となり、結果的に第12戦ベルギーGPでのリタイヤ以外、全戦入賞を果たしてのタイトル獲得となった。しかし、バトンの初タイトル獲得はブラウンGP・BGP001・メルセデスの性能によるところが大きいと、シーズン中盤の低迷のイメージも含め、決してその功績を讃えるものばかりではなかった。</p>
<p>&#8217;10年、当初はブラウンGP残留に向けて交渉を行っていたバトンだったが、チームがメルセデスによる買収を受け、シューマッハーの復帰が噂され始めると、バトンはなんと自らマクラーレンへの移籍を決めたのである。しかしマクラーレンはそのメルセデスとのワークス契約を解消、しかもチームには絶対的エースである同じ英国人、ハミルトンがいる。バトンの決断は多くの関係者から無謀であると揶揄され、この移籍は失敗に終ると思われた。「僕には新しい挑戦が必要だったんだ。それに、昨年僕は序盤にバック・マーカーだったマクラーレンがシーズン終盤にはトップ・ランナーになったところをこの眼で見ている。だから彼らを信じるよ」シーズンが開幕すると、バトンの予想は当たり、マクラーレンは戦闘力の高いパッケージでメルセデスGPを寄せ付けず、バトンは4戦を終えた時点で2勝（第2戦オーストラリアGP／第4戦中国GP）を挙げ、堂々のランキング首位に立っていたのである。続くモナコGPではチームのミスでリタイヤを喫するが、今季ここまでモナコ以外の全てのレースに入賞し、現在もランキング2位。レッドブルがチーム・メイト同士の内紛に大わらわなのを尻目に、ある意味ダーク・ホースとも言えるマクラーレン勢がトップに立っている、というわけなのである。「彼らの同士討ちは僕達にとっては大きなチャンスだ。ルイスと僕は最高に上手くやれているし、チームもそういったことには慣れている。それに、選手権を制覇したドライバーが翌年も連覇出来る可能性は僅か30パーセント。そして僕は昨年証明したように、オッズを覆すのが得意なんだ（笑）」このままレッドブルが自滅すれば、今季がバトンとハミルトンのマクラーレン・コンビによる&#8221;フェアな&#8221;選手権争いとなる可能性もあるのである。</p>
<p>「ひとつのタイトル獲得は始まりに過ぎないんだ」バトンは振り返る。「僕の夢はF1世界チャンピオンとモナコGP優勝だった。それを昨年成し遂げたけど、今はそれを他人に渡したくないという想いが強い（笑）。30歳になって、ようやく全てが正しい方向に向かっている気がするんだ。だから、マクラーレン移籍は復讐や誰かの間違いを証明することではなくて、あくまでも自分自身が決めた道なんだよ」そう、バトンは未だ30歳である。若くしてのF1デビューと9年間の不遇の時代のせいで超ベテランのように見られるが、実際には脂ののったアスリートであると言える。</p>
<p>我が日本に於けるバトンのイメージは、やはり第三期ホンダの初優勝立役者、そして日本人のGFを持つF1ドライバーとして人気も高く、そのルックスも含めて好意的に受け止められている。特に&#8217;06年第13戦ハンガリーGPでの勝利と昨年開幕戦での勝利は日本のファンから見ても特別な勝利である。しかしそれはF1ドライバーとしてのキャリアの前半／半分をほぼ棒に振ったように感じられる。かつてホンダのスタッフは「ジェンソンはあまり調子の良くないマシンでも上手く乗りこなす。が、それ故にマシンの何処を改善すべきかが見えて来ない」とこぼしていた。F3から一気にF1に上がって来たバトンにとって、マシン・セッティングやチームとのブリーフィングはあまり重要なものではなく、むしろ自分のドライビングが全て、という印象があった。「今思えば、僕の転機は&#8217;02年だった。多くのことを犠牲にして、本当に速く走るためにどうすれば良いのかを考え始めた。逆にそれまでは人生をエンジョイすることに傾倒し過ぎていたかも知れない」プレイボーイだったバトンは&#8217;05年、婚約者のルイーズ・グリフィスと挙式3ヶ月前に別離。昨年までグランプリに伴っていた日本のモデル・<a href="http://blog.honeyee.com/jessica/" target="_blank"><font color="#ff00ff">道端ジェシカ</font></a>とも、一時は婚約の噂もあったが今は微妙な関係のようである。「僕はあまりにも長くレースのことを考えている。トラックを離れるとリラックス出来なくなってしまったんだ」バトンは20歳代を通じて変わった。そして、それは世界王者という最高のご褒美となって彼の元に転がり込んだのである。</p>
<p>昨シーズン中、バトンのタイトル獲得に関しては多くの意見／見方があった。その中のいくつかは、果たしてバトン自身が世界チャンピオンに相応しいドライバーか、というものでもあった。何故なら、確かにバトンは&#8217;06年第13戦ハンガリーGPで勝利を挙げているF1ドライバーでありながらも、このレースでも序盤から中盤にかけてのトップ集団の脱落に乗じた&#8221;ラッキーな勝利&#8221;という考え方が成立した。そして、バトン自身、&#8217;09年以前に例えばフェラーリ、例えばマクラーレン、といった完全な常勝トップ・チームへの移籍を模索するような経緯がなく、低迷したホンダのF1撤退で一見勝利の可能性が全くなくなったかに見えた新興チームであるブラウンGPでの突然の快進撃に、あまりにも&#8221;マシンのおかげの勝利&#8221;というレッテルを貼られてしまうのである。更にシーズン序盤に7戦6勝を挙げながらも途中からスランプに陥り、全く表彰台に立たなくなってしまう。同時期にチーム・メイトのバリチェロが快進撃を開始したあたりの流れから、バトンには&#8221;運が尽きた&#8221;というイメージが付きまとう。更に、最終的に追い上げて来たライバル、チーム・メイトやレッドブル勢に対しても太刀打ち出来ず、結果的には前半の貯金をどうにか守り切った形でのタイトル獲得、となった感は否めない。<br />しかし、昨年学んだ&#8221;タイトルの掴み方&#8221;を、&#8217;10年の今まさにバトンは踏襲してみせているとも言える。チャンスを逃さないクレバーな走りと冷静なタイヤ戦術。ただ闇雲に悪コンディションのマシンを振り回していた若い頃とは違う技を身につけ、バトンは完全に成長した姿を見せてくれているのである。そして現状、今季のチャンピオンが誰になるのかを予想するのは極めて難しい。これは昨年とは全く逆の状況である。が、その状況の中に今年もバトンがいる、というのは多くの関係者の予想同様、少々意外なことと言える。が、それは紛うことなきバトンの&#8221;成長の証し&#8221;なのである。</p>
<p>「当初、僕にとってはチームのエンジニアとブリーフィングをしたり、オフにフィットネスをしたりというのは面倒なことだったんだ。それが今は完全に生活の一部になってる。身も心もようやくF1ドライバーになれたってことなんじゃないかな」6月、バトンはエリザベス女王から大英帝国勲章第5位／MBEを授与された。もう、英国のプレイ・ボーイなんかじゃない。大英帝国を代表する立派なF1世界王者のひとりである。しかし、バトンの最も手強いライバルはチーム・メイトである。内紛に揺れるレッドブルを尻目に、ハミルトンと&#8221;今は友好的に&#8221;チームを盛り上げるバトンが今後どういった闘い方をするのか、が最大の焦点と言えるだろう。</p>
<p></font><i><font color="#3e6b3a">「僕の自伝映画を作るなら、ジョニー・デップに演じて欲しいね！」／ジェンソン・バトン</font></i></p><p>The post <a href="https://f1-stinger2.com/kasetatsuya/%e7%8e%8b%e8%80%85%e3%81%ae%e6%84%8f%e5%a4%96%e3%81%aa%e7%9c%9f%e5%ae%9f/">王者の意外な真実</a> first appeared on <a href="https://f1-stinger2.com">F1 STINGER 【スティンガー】</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>王者は何処から？</title>
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		<pubDate>Wed, 02 Jun 2010 12:01:01 +0000</pubDate>
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<p>&#8217;10年第7戦トルコGPは、&#8217;50年からF1に参戦し続けるフェラーリにとって、記念すべき800戦目のグランプリとなった。ひとことで800戦と言っても60年の歳月と、その間に起きた多くの世界情勢や突・・・</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">&#8217;10年第7戦トルコGPは、&#8217;50年からF1に参戦し続けるフェラーリにとって、記念すべき800戦目のグランプリとなった。ひとことで800戦と言っても60年の歳月と、その間に起きた多くの世界情勢や突発的な出来事を乗り越えての偉大なる数字である。そしてもちろん、フェラーリよりも長い参戦歴を誇るチームは存在しないので、他の追従を許さない圧倒的な大記録、となる。フェラーリはこれまでの800戦／60年間で15のドライバーズ・タイトル（2位<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/m.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マクラーレン</font></a>:12回）、1958年制定のコンストラクターズ・タイトルは16回（2位ウィリアムズ:9回）と圧倒的な数字を残し、今尚F1に君臨し続けている。多くのF1ドライバーが言う通りフェラーリに乗って世界王者になることは究極の目標であり、ことにイタリア人ドライバーにとっては夢のまた夢なのである。<br />F1ワールド・チャンピオン。その栄誉ある称号を持つ者は、これまでの60年に及ぶF1史の中で僅か31人しか存在しない。もちろん、その中には<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミハエル・シューマッハー</font></a>のようにひとりで7回も獲得する者もいれば、ヨッヘン・リントのように自らの死後にチャンピオンが確定した者もおり、それぞれに多くのドラマが存在する。<br />まず初めに、この60年に及ぶF1史に於けるワールド・チャンピオン一覧を御覧頂こう。</font><br />&nbsp;</p>
<div>
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img decoding="async" loading="lazy" class="mt-image-none" alt="44_01.jpg" src="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/images/44_01.jpg" width="480" height="980" /></span></div>
<p><font color="#3e6b3a">&#8230;..この31人の偉大なる王者の中で、複数回タイトルを獲得しているのは半数にも満たない僅か14人。皇帝ことシューマッハーの7回を筆頭に、&#8217;50年代の黎明期を引っ張ったファン・マヌエル・ファンジオが5回、続いて四天王時代を生き抜いた<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_80.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アラン・プロスト</font></a>が4回。3回組には自らの名を冠したシャシーで王者となったジャック・ブラバム、スター・ドライバーの第一人者ジャッキー・スチュワート、大事故から奇跡の生還を果たした<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_65.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ニキ・ラウダ</font></a>、ブラジルが生んだ孤独な風雲児<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_37.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ネルソン・ピケ</font></a>、そして不世出の天才<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_21.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アイルトン・セナ</font></a>らがいる。2回獲得組は&#8217;50年代のアルベルト・アスカリ、&#8217;60年代のジム・クラークとグラハム・ヒル、&#8217;70年代にはエマーソン・フィッティパルディ、&#8217;90年代に<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_52.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミカ・ハッキネン</font></a>、そして近代F1の&#8217;00年代を代表するフェルナンド・アロンソらがいる。そしてもちろん、現役チャンピオン・ドライバーのシューマッハーとアロンソを含み、一昨年王者の若き<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/f1-3.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルイス・ハミルトン</font></a>や昨年王者の<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/10/post-14.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジェンソン・バトン</font></a>にも年齢的／環境的に見てまだチャンスはあり、今季WRCに参戦中の<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/iceman.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">キミ・ライコネン</font></a>にも2度目のF1チャンピオン獲得のチャンスは充分残されている。<br />とは言え、シューマッハーの5年連続を含む7回という記録はあまりにも突出していると言わざるを得ない。この記録を敗るには相当な勝率と年月が必要となり、今季のような混戦を勝ち抜くのは極めて難しいと言える。ことに複数年、それも連続タイトルを獲得するとなると&#8221;所属チームの長期に渡る安定した強さ&#8221;が求められる。&#8217;00〜&#8217;05年のフェラーリはまさにそれにあたり、しかもフェラーリが絶対的なエースとしてシューマッハーを扱ったことが大きな要因であることは疑いようがない。よって、トップ4による混戦、という今季のようなシーズンが続くと、その可能性は俄然小さくなってしまうのである。</p>
<p>さて、この表からは解りづらいかも知れないが、これまで最も多くのF1世界チャンピオンを輩出して来た国はイギリスである。ただしこの&#8221;イギリス&#8221;にはスコットランドやアイルランドも含むが、その人数は10人と、全体の約3割を占める。自動車メーカーやレーシング・チームも多いモーター・スポーツ大国であるイギリス勢がそれだけ強いのは当然と言えば当然かも知れないが、そういう側面で見ると意外なデータが見えて来る。<br />このイギリスの10人に続くのは3人、ブラジルとフィンランドである。メンバーはブラジル勢がエマーソン・フィッティパルディ、ネルソン・ピケ、アイルトン・セナ、そしてフィンランドが<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_86.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ケケ・ロズベルグ</font></a>、ミカ・ハッキネン、キミ・ライコネンというラインアップである。この2ヶ国は少なくとも自動車産業からは縁遠く、ブラジルに至ってはF1のホーム・グラウンド、ヨーロッパですらない。フィンランドはその環境故にラリーは盛んだが、トラック上のレースでもこれだけ強いのは意外でもある。また回数でもブラジル勢はフィッテイパルディ2回、ピケ／セナが3回ずつと計8回で、イギリス勢の14回に続く2位、フィンランド勢もハッキネンが2年連続王座を獲得している。<br />「コンプレックス、と言えばその通りかも知れないね」ピケは分析する。「貴族のように誇り高きエマーソンがヨーロッパのドライバーを相手に勝利し、貧富の差が激しいブラジル国民は熱狂したんだ。それはサッカーのペレも同様で、つまり自国から世界的／国民的ヒーローが誕生したわけだ。それを見た俺達が『自分達にもやれる筈！』と思ってヨーロッパに渡って来たのは大きなきっかけだったと思うよ」セナもまた、ブラジルという祖国をヨーロッパから見た際、同じような価値観を持って発言していた。「ブラジルには貧しい子供達が大勢いる。彼らの世界的な活躍のきっかけになれたら嬉しいね」彼らの目線は&#8221;南米から見たヨーロッパ&#8221;、という大きなスケールだったのである。</p>
<p>フィンランドはご存知の通りの&#8221;ラリー大国&#8221;である。が、結果的に多くのF1ドライバー（つまりトラック競技者）を生み出していることを考えれば、これは天性のドライビング・センスと運転技術向上環境がスバ抜けている、としか思えない。「あまり区別はないよ」現在WRCに参戦中のライコネン（&#8217;07年王者）の言葉である。「大きく分ければ運転する、という意味で両者は同じ。ただ、イベントと言う意味ではラリーの方が遥かにオープンで楽しいね」&#8230;..内向的なライコネンらしい見解だが、彼らにとってそこが氷上であれ荒れ地であれクローズド・サーキットであれ、そう大きく変わらないものなのかも知れない。そういえばモナコやラスベガスのようなストリート・サーキットを、激しくテール・スライドさせながら強引にマシンを振り回すケケ・ロズベルグの勇姿が想い出される。</p>
<p>では、本来モーター・スポーツ大国と言われる他のヨーロッパ諸国の実情はいったいどうなのか。<br />例えばフェラーリ、そしてかつてはアルファロメオやマセラッティらが活躍したイタリアはと言うと、これまでに総勢98名ものイタリア人ドライバーがF1に参戦したが、なんと&#8217;50年代のジュゼッペ・ファリーナとアルベルト・アスカリ以来、ひとりも世界王者が出ていない。近年最も王座に近づいたイタリア人ドライバーは&#8217;85年にプロストに敗れた<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_74.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミケーレ・アルボレート</font></a>（フェラーリ）だったが、以降フェラーリは総帥・エンツォによって「イタリア人ドライバーがフェラーリに乗るのとプレッシャーに押しつぶされてしまう」と自国イタリア人ドライバーを避けるようになり、参戦するドライバーの人数こそ膨大だがなかなか王座にまでは手が届かない。<br />近代F1でイタリア人ドライバーとして最も成功したのは鉄人リカルド・パトレーゼと言えるだろう。しかし257戦の参戦歴を持つパトレーゼのイメージは&#8221;ベスト・オヴ・セカンド・ドライバー&#8221;である。所属チームの戦闘力的に、最も王座獲得のチャンスが大きかった&#8217;90年代前半、パトレーゼはウィリアムズ・ルノーで<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_33.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ナイジェル・マンセル</font></a>の従順なNo.2を演じてしまい、そのキャリアは終焉に向って行った。またその将来を有望視された<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_16.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">エリオ・デ・アンジェリス</font></a>、アレッサンドロ・ナニーニらは志半ばでそのチャンスを失った。現役ドライバーではヤルノ・トゥルーリ（ロータス）、ヴィタントニオ・リウッツィ（フォース・インディア）らがいるが、彼らの現在の環境を考えても、王座獲得が少々遠いところにあるのは否めない。そしてイタリアはあくまでも&#8221;フェラーリの国&#8221;であり、国民そのものもイタリア人ドライバーにかける期待は小さいと言わざるを得ない。そりゃイタリア人ドライバーが乗ってフェラーリが勝つところは観たいだろうが、我がフェラーリの勝利のためならドライバーは誰でも良い、が彼らの本心である。よって、イタリア人は少々母国ドライバーに対して冷たい国、と言えるかも知れない。</p>
<p>続いてはフランス。FIA本部があり、モーター・スポーツ発祥の地であるこの国からのF1世界チャンピオンは、実はアラン・プロスト（王座4回）ただひとりである。そしてプロスト引退後も、将来を有望視された<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_42.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジャン・アレジ</font></a>、オリビエ・パニスら以降、有望なフランス人ドライバーは出ておらず、昨年のロマン・グロージャン（ルノー）を最後に今季はフランス人ドライバー不在のF1シーズンとなっている。<br />フランスは&#8217;73年、当時期待の大型新人・フランソワ・セヴェールを失ったのが大きかった。師と仰ぐジャッキー・スチュワートの元でレースを学んだセヴェールは、次期チャンピオン最有力候補として有望視されながら、最終第15戦アメリカGP予選中に事故死。以降、かつての国営企業ルノーの威信を背負ったジャン・ピエール・ジャブイーユも、リジェの看板スターだったジャック・ラフィー、フェラーリに抜擢されたルネ・アルヌーらもタイトル獲得には届かなかった。それどころか昨年はアメリカン・フォーミュラを圧倒的な強さで制したセバスチャン・ブルデー（CART4年連続王者）がトロ・ロッソをシーズン中に解雇されるなど、フランス人F1ドライバーは完全に冬の時代を迎えている。ブルデーは嘆く。「僕らフランス人ドライバーの経済状態は決して良くはないんだ。それに、現代のF1はあまりにも高価過ぎるよ」プロストの4度目のタイトル獲得から早17年。モーター・スポーツ大国・フランスの名は既に過去のものとなってしまった。</p>
<p>が、更に意外なデータがある。メルセデス、そして撤退した<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/08/bmw.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">BMW</font></a>やポルシェも含め、強豪メーカーを擁するドイツ出身の世界王者も、これまたミハエル・シューマッハーただひとりなのである。<br />これまでにF1に参戦したドイツ人ドライバーは全部で55名。が、&#8217;61年にウォルフガング・フォン・トリップスがフェラーリで2勝を挙げ、初PPを獲得した第7戦イタリアGPで事故死、&#8217;75年第4戦スペインGPでマクラーレンのヨッヘン・マスの&#8221;ドタバタ勝利、実はこの3勝が、シューマッハー登場以前のドイツ人F1ドライバーの勝利の全て、なのである。マスの3勝目から17年間、ドイツはポルシェ、BMWらメーカーの活躍の影で優秀なドライバー不足に陥っていた。&#8217;85年9月、かのセナでさえ恐れた期待の新星、ステファン・ベロフがスパ1,000kmレースで事故死し、ドイツの夢は断たれた。現在でこそ多くのドイツ人ドライバーがグリッドに並ぶが、&#8217;80年代にはマンフレッド・ヴィンケルホックひとりが下位チームを渡り歩いているような状況だった。<br />大きな変革は&#8217;90年代にメルセデス・ベンツが行った若手ドライバー育成プログラムである。シューマッハー、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_91.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ハインツ・ハラルト・フレンツェン</font></a>、そしてオーストリア出身のカール・ベンドリンガーらの若手有望株をグループCのマシンに乗せ、前述のマスの指揮の元で英才教育を実施、その甲斐あって&#8217;90年代には多くの有望なメルセデス系・ドイツ人ドライバーがF1へとステップ・アップした。ちなみにF1でのドイツ人ドライバーによる勝利数は全部で109。その内訳は前述のトリップス2勝、マス1勝、そしてラルフ・シューマッハー6勝、フレンツェン3勝、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/goseb.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">セバスチャン・ヴェッテル</font></a>6勝&#8230;..そう、残りの91勝は、なんと全てミハエル・シューマッハーによるものなのである。多くのF1ドライバーを輩出しているように見えるドイツだが、実際には極めてシューマッハー1色だったのだ。</p>
<p>さて、反対に真のモーター・スポーツ大国、と言えるのがイギリスである。何しろ現役王者のバトン、そして一昨年の王者ハミルトン。もちろん近年のみならず、記憶を遡ってみても各時代にひとり、確実にその時代を代表するイギリス人ドライバーが存在する。デイモン・ヒル（&#8217;96年王者）、ナイジェル・マンセル（&#8217;92年王者）、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_99.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジェイムズ・ハント</font></a>（&#8217;76年王者）。そして&#8217;60年代にはジャッキー・スチュワート（&#8217;69、&#8217;71、&#8217;73年王者）、デイモンの父<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_13.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">グラハム・ヒル</font></a>（&#8217;62、&#8217;68年王者）、ジム・クラーク（&#8217;63、&#8217;65年王者）、そして2輪でも王者経験を持つジョン・サーティース（&#8217;64年王者）、&#8217;60年代はイギリス人4人で実に6度の王座を獲得する勢いである。クーパー、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_101.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ロータス</font></a>、BRMを初め現在マクラーレン、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_28.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ウィリアムズ</font></a>といった強豪メーカー／コンストラクターを擁するイギリスは、イタリアとは確実に逆の考え方を持つ。60年のF1史の中でイギリス人ドライバーは153人おり、その中でチャンピオン経験者は10人。つまり最も効率良く王者を輩出しているのがイギリスなのである。</p>
<p>さて、気になるのはそれ以外の国である。&#8217;97年王者ジャック・ヴィルヌーヴは、カナダ人初のF1ワールド・チャンピオン。&#8217;82年に事故死した父、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_11.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジル・ヴィルヌーヴ</font></a>の成し遂げられなかった夢を叶えた2世ドライバーである。<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_46.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マリオ・アンドレッティ</font></a>（&#8217;78年王者）、フィル・ヒル（&#8217;61年王者）はアメリカ人、まだインディ500がスケジュールに組み込まれていた時代、アメリカ人ドライバーにもF1でのチャンスは存在していた。オーストリアはニキ・ラウダ（&#8217;75、&#8217;77、&#8217;84年王者）ヨッヘン・リント（&#8217;70年王者）という天才を生み、オーストラリアはジャック・ブラバム（&#8217;59、&#8217;60、&#8217;66年王者）、デニス・ハルム（&#8217;67年王者）、そしてアラン・ジョーンズ（&#8217;80年王者）を輩出。シューマッハーに次ぐ5度の世界王座獲得者、ファンジオは南米アルゼンチン出身、ちなみにファンジオはアルゼンチンのベロン政権の支援で&#8221;南米代表&#8221;としてヨーロッパへ進出したエリート・レーサーであった。</p>
<p>&#8230;..さて、現状に眼を移そう。<br />現在ルノー在籍中のヴィタリー・ペトロフは&#8217;84年9月8日、レニングラード出身のロシア人ドライバーである。ペトロフはカートを経験せずに母国の自動車メーカー&#8221;ラーダ&#8221;の支援でアンダー・フォーミュラへ参戦、&#8217;05年に母国でフォーミュラ1600選手権を制し、その後目立った成績では&#8217;06年のユーロF3000選手権3位、&#8217;09年のGP2選手権2位などを経て今季ルノーからF1デビューとなった。<br />ペトロフはF1初のロシア人ドライバーである。当然母国からの経済的支援は大きく、持ち込み資金は1,500万ユーロ（約17億円）と言われている。しかしソ連崩壊後のロシアに於いて、国際的な自動車産業の発展へ向けた影響力は大きく、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_50.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">バーニー・エクレストン</font></a>は&#8217;13年にもロシアGPを開催したい意向を表明している。もちろんペトロフは現在ロシアを代表するF1の第1人者であり、国際的な大スターである。そして今季のルノーの戦闘力も意外に高く、第7戦トルコGPでは多くのロシア人ファンの前で最速ラップを記録する走りを見せた。上手く行けばこのままペトロフがロシア人初のF1世界王者となる可能性もある。少なくともラーダという自動車メーカーの存在が現在のロシア情勢とF1を繋ぐ役割は大きく、例えば消え去った日本のメーカーとは捉え方が違っているのかも知れない。</p>
<p>続いて、インドの大富豪ビジェイ・マルヤ率いるフォース・インディア。このインド・ナショナル・チームにはドイツ人ドライバー（<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/vs.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">エイドリアン・スーティル</font></a>）とイタリア人ドライバー（ヴィタントニオ・リウッツィ）しかいない。マルヤは「確かに我々のチームにインド人ドライバーがいれば最高だよ。だが、残念なことにまだインド人ドライバーはその水準に達していない。今我々に必要なのは優れた能力を持つドライバーであり、ナショナリズムは優先すべき事項ではないんだ」ちなみにF1史上初のインド人ドライバーは&#8217;05年にジョーダン・トヨタを駆ったナレイン・カーティケヤンである。ミシュランのドタバタ劇で出走6台となった第9戦アメリカGPで4位となった以外目立った成績を残すことは出来ず、僅か1年でシートを喪失し、ウィリアムズのテスト・ドライバーとなった。フォース・インディア創立時にはドライバーとして噂には上ったものの採用されず、現在はスーパー・リーグ・フォーミュラで闘っている。<br />そして今季、HRT（ヒスパニア・レーシング）からデビューを飾った史上ふたり目のインド人ドライバーがカルン・チャンドックである。&#8221;アイルトン・セナの甥&#8221;という、極めて目立つ存在である<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/03/f1-2.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ブルーノ・セナ</font></a>をチーム・メイトに持つチャンドックはそれでも開幕戦予選がシェイク・ダウンとなった新チームで健闘し、時折セナを上回るパフォーマンスを披露。第6戦モナコGPではチェッカー直前のトゥルーリ（ロータス）との接触でリタイアするまで、13位を走行する活躍を見せていた。ちなみにチャンドックの父であるビッキー・チャンドックはインドのラリー王者経験者であり、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/post-6.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">昨年のFIA会長選挙</font></a>の際にもその名が取り沙汰された、インドのF1での鍵を握る人物である。フォース・インディアのマルヤは「彼が上手くやれれば、我々のチームのドライバーに指名する可能性はあるよ」とチャンドックへの期待を寄せる。</p>
<p>ルノーでロシア出身のペトロフとタッグを組むロバート・クビサは&#8217;84年12月7日、ポーランドのクラフクにて誕生。ポーランド国内のカート選手権を総ナメにし、イタリアへと渡ったクビサはワールド・シリーズ・バイ・ルノー初代王者となり、そして&#8217;06年にチームを離脱したヴィルヌーヴの代役でBMWザウバーからF1デビュー、ポーランド初のF1ドライバーとなった。&#8217;08年第7戦カナダGPでの初優勝はポーランド人にとって初のF1勝利となり、史上唯一のポーランド人F1ドライバーでありつつ、次代のチャンピオン候補のひとりである。「ポーランドでは、既に僕はひとりで街を歩けなくなってしまった」&#8221;国民的ヒーロー&#8221;の誕生だ。「多くの人が僕を見つけると群がって来て、もう買い物や食事なんて出来やしないんだ。それは望んだ生活ではないけれど、自分がポーランドを背負っていることは痛感するよ。でも、プレッシャーにはならない」<br />&#8230;..ポイントはここである。仮にこれが日本人であったなら、そこには確実にプレッシャーという&#8221;見えない敵&#8221;との闘いが存在するからだ。少なくともマスコミはそう扱うだろう。<br />が、多くのF1ドライバー達は、必要以上に国の威信を背負わない。仮に背負っていたとしても、それを負の要素にすることはあまりない。ここが我が日本と決定的に違う部分なのである。</p>
<p>少なくとも<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_07.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">中嶋悟</font></a>はその&#8221;ニッポン代表&#8221;という特殊な環境に苦しんでいた。&#8217;87年、当時34歳の中嶋は全日本F2選手権3連覇という、ジャパニーズ・フォーミュラ・チャンピオンとして名門ロータスから堂々のF1デビューを飾った。が、その内状はエンジン・マニュファクチュアラーであるホンダとの結びつきによる、若きエース、セナのNo.2としての参戦であり、英語も苦手な中嶋は確実にヨーロッパ資本のF1で苦しんだ。もちろんF1以前に国際レースへの出場機会は多かったが、最高峰であるF1は全てのレベルがあまりにも高かった。セナは中嶋を&#8221;自分と同じ、非ヨーロッパ民族&#8221;として歓迎したが、中嶋自身はその意識レベルのあまりの違いに驚いたのである。<br /><a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_78.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">鈴木亜久里</font></a>は中嶋に比べてオープンな性格も幸いしたが、それでもF1ドライバーとしてのキャリアの大部分をナショナリズムによって苦しんだ。純日本態勢を目論んだフットワークで元フェラーリ・ドライバーのイタリア人であるアルボレートに惨敗。<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_107.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">片山右京</font></a>はバブル崩壊という経済事情の煽りを受け、支援の継続に苦しんだ。また両者共に、日本のメーカーとのスポンサー契約を重視し、トップ・チームへの移籍を諦めるという決断を行っている。<br />が、昨年の<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/09/post-9.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">中嶋一貴</font></a>がトヨタのF1撤退と共にシートを喪失した横で、僅か2戦でその有望な将来性を示して見せた<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-23.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">小林可夢偉</font></a>が、メーカー支援もTDPも全く無関係のところで<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_73.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ペーター・ザウバー</font></a>の心を動かしたのは、これまでの&#8221;ニッポン代表&#8221;というイメージを完全に払拭するものと言えるのである。<br />そう、ナショナリズムとは、メーカーが母国ドライバーを連れて動き回ることではない。優秀な母国ドライバーを放っておけない企業が、ドライバーを支援するのが真の姿なのである。</p>
<p>&#8230;..さて、第7戦トルコGPではシューマッハー1色のドイツ人F1王者に名乗りを上げたドイツの若武者と、ブラバム／ハルム／ジョーンズ以来の王座を狙うオーストラリア人とが激突。その脇をふたりの現役イギリス人王者が駆け抜けて行った。第61代・F1ワールド・チャンピオンへの道は極めて険しい。シューマッハー以来ふたり目のドイツ人王者誕生か、それとも30年ぶり／4人目のオーストラリア人王者なるか。いずれも大国・イギリスの現役王者ふたりが阻止せんと立ちはだかるシーズンから、ますます目が離せない。</p>
<p><i>「自分以外が勝者なら、別に誰が勝とうが興味はないね！」／ジェンソン・バトン（&#8217;09年王者）</i></font></p>
<p>&nbsp;</p><p>The post <a href="https://f1-stinger2.com/kasetatsuya/%e7%8e%8b%e8%80%85%e3%81%af%e4%bd%95%e5%87%a6%e3%81%8b%e3%82%89%ef%bc%9f/">王者は何処から？</a> first appeared on <a href="https://f1-stinger2.com">F1 STINGER 【スティンガー】</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>M帝国の謎</title>
		<link>https://f1-stinger2.com/kasetatsuya/m%e5%b8%9d%e5%9b%bd%e3%81%ae%e8%ac%8e/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[f1-stinger2248]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 15 Apr 2010 11:22:18 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<br />
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<p>&#8230;..先日、あまりF1を良く知らないある隣人からのひとこと。「&#8221;マクラーレン&#8221;ってのはあまり聞かない会社だけど、どうしていつも強いんだ？」&#8230;..う〜ん、会社か。コレはようす・・・</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">&#8230;..先日、あまりF1を良く知らないある隣人からのひとこと。「&#8221;マクラーレン&#8221;ってのはあまり聞かない会社だけど、どうしていつも強いんだ？」&#8230;..う〜ん、会社か。コレはようするにF1＝自動車メーカーの闘い、という構図の印象が根強いことをとても顕著に表しているってことなんだな。だって、世界的な経済不況で<a href="http://www.honda.co.jp/news/2008/c081205.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ホンダ</font></a>や<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/08/bmw.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">BMW</font></a>、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/11/post-16.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">トヨタ</font></a>がやめてルノーがどうしようか悩んでるってのに、このマクラーレンってのは決して安いロード・カーなんぞ販売していない社名な筈なのに常にF1のトップに君臨し、そしていつもフェラーリと王座を争っている。もちろん長い歴史の中で見れば<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_28.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ウィリアムズ</font></a>だってトップ・コンストラクターのプライベート・チームなんだけど、近年の長い低迷ではその印象もやや薄くなる。<br />マクラーレン。かのエマーソン・フィッティパルディも<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_99.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジェイムズ・ハント</font></a>も、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_80.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アラン・プロスト</font></a>も<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_21.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アイルトン・セナ</font></a>もいた。<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_52.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミカ・ハッキネン</font></a>やフェルナンド・アロンソだって乗ったし、今年は前年王者の<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/10/post-14.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジェンソン・バトン</font></a>が乗っている、名門中の名門チーム。<br />今回は、このモーター・スポーツ・ファンにとってはあまりにも偉大で、一般人にとってはあまりにも無名なコンストラクター、&#8221;マクラーレン&#8221;のことを学んでおこう。歴史的に見て、ここがF1でフェラーリの次に重要なチームであることだけは疑いようがないからね。</p>
<p>さて、まずF1などのモーター・スポーツには前述のようにフェラーリとかルノー、メルセデス・ベンツのような自動車製造／販売会社による参戦だけではなく、コンストラクター、つまりレース参戦そのものが目的のレーシング・チーム／会社が存在する。<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/11/post-17.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">歴史的に見れば</font></a>、黎明期の&#8217;50年代は自動車メーカー同士の闘いでF1が始まり、&#8217;70〜&#8217;80年代にかけて個人によるコンストラクターが飛躍的に増え、今はメーカーが減ってコンストラクター時代になりつつある、という流れ。このマクラーレンやウィリアムズ、既にBMWとは関係のないザウバー、レッド・ブルやトロ・ロッソ、フォース・インディアも皆自動車メーカーではないコンストラクター。逆にフェラーリ／メルセデスGP／ルノー以外は皆コンストラクター。<br />で、何故巨大な自動車メーカーと無名のコンストラクターが同じフィールドで闘えるのか、というのが最大の疑問。例えば資金力、例えば規模、例えば影響力。全てに於いて、本来レーシング・チームを立ち上げた個人が敵う相手じゃない。そこを可能にしてくれるのが&#8221;レギュレーション&#8221;、つまりルール。大きいチームだろうが小さいトコだろうが「コレとコレ守って自分でクルマ作んなさい」と枠を設けてやれば、あとは個人の捉え方と工夫、そして長所短所のハナシ。よって、メーカーによる何百億円という巨大プロジェクトから産まれたマシンを、年間予算が1／10程度の貧乏チームが負かすことだってある。っていうか、それが最高にたまらない！。それが最も可能だったのが&#8217;70年代で、F1は<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_51.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">市販のコスワース製のV8エンジンとヒューランド製のギア・ボックス</font></a>を購入すれば、誰にでもシャシーが作れる&#8221;キット・カー&#8221;時代。誰かはウィングをバカデカくしたり、誰かはタイヤを増やしてみたり、様々なアイデアを持ったコンストラクターが比較的安価でフェラーリやアルファロメオ、マトラなんかのV12エンジン勢に一泡吹かせていた。<br />よって、如何に不況によるメーカー撤退が原因とは言え、F1が再度コンストラクター時代を迎えるのはおおいに歓迎、事実レッド・ブルだって&#8217;09年のブラウンGPだって、立場上巨大自動車メーカー・チームではなかったのである。で、特に今季、長年の蜜月相手だった<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">メルセデス・ベンツが単独参戦</font></a>を始めたことで、これまでのようなメルセデス・ベンツのワークス・チームという眼ではもはや見られなくなった最強のコンストラクター、マクラーレン。このチームを知るためには、まずチーム創始者である&#8221;知る人ぞ知る&#8221;ブルース・マクラーレンについて触れなければならない。</p>
<p>&#8217;37年8月30日、ニュージーランド生まれのブルース・レズリー・マクラーレンは&#8221;レース奨学生&#8221;、つまりスカラシップ第1号として&#8217;58年にクーパーからイギリスF2へ参戦、翌&#8217;59年に同チームからF1デビュー。最終戦アメリカGPで史上最年少初優勝を果たし、以降毎年タイトル争いに絡む活躍を見せる。&#8217;63年、知人であるアメリカ人弁護士、テディ・メイヤーと共に自らのチーム&#8221;ブルース・マクラーレン・モーター・レーシング&#8221;というチームを設立、クーパーの低迷に見切りをつけ、&#8217;66年に自らのチームのオリジナル・シャシー&#8221;マクラーレンM2B&#8221;で参戦。&#8217;68年第4戦ベルギーGPでは自らの名を冠した、祖国ニュージーランドのオレンジ色を纏ったカラーリングのマシンで勝利。再びタイトル争いへと返り咲いたのである。<br />が、&#8217;70年6月2日、ブルースはグッドウッド・サーキットでCan-Am（カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ）レース用のマシンであるマクラーレンM8Dのテスト中、270Km/hで走行中に突然リア・ウィングが脱落、激しくコンクリート製の防護壁に突っ込んで死亡。あまりにも突然の事態に当然チームは揺らいだが、ブルースの闘志を消すまいと、相棒のメイヤーが跡を引き継ぐ形でチームとコンストラクターの存続が決定。当時Can-AmやF1以外にもF2やインディ500などのカテゴリーでシャシーも制作していたマクラーレンは、その後各カテゴリーで大成功を収める。<br />というわけで、マクラーレンはブルース・マクラーレンという人物が興した&#8221;レーシング・カー・コンストラクター&#8221;なのである。フェラーリやルノーのように市販車の量産メーカーとしてではなく、初めからブルース自身のレース活動のために誕生し、そして創立僅か7年でその主を失い、それでも後継者達の努力で21世紀の現在までトップ・チームとして君臨し続けている、まさに名門中の名門なのである。</p>
<p>しかし、決して最初から全てが上手く行っていたわけでもない。本来の舵取り役を失ったマクラーレンは、シャシー・コンストラクターとしては素晴らしく一流だったが、レーシング・チームとしては未だ若い集団だった。マクラーレンの新代表となったメイヤーは無理をせず、F1活動に集中するためにCan-Amから撤退。既に&#8217;72年に制覇していたインディ500からも手を退いた。更にメイヤーは場合によってはマクラーレンのイメージを覆しかねない巨大スポンサーの獲得を決定、マクラーレンは<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/02/post-21.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マールボロと契約</font></a>し、&#8217;74年にかの有名な&#8221;マールボロ・マクラーレン&#8221;という組み合わせが誕生するのである。そしてこの年、ブラジルの若き英雄であり、既にロータス（&#8217;72年）で史上最年少王者記録を持っていたエマーソン・フィッティパルディが、マクラーレンに初のWタイトルを齎す。&#8217;76年はイギリスのジェイムズ・ハントが<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_65.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ニキ・ラウダ（フェラーリ）との激闘</font></a>を制して自身初のドライバーズ・タイトルを獲得。F1のトップ・コンストラクターとしての地位を確たるものとした。<br />が、&#8217;70年代後半にロータス／<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_03.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">コーリン・チャップマン</font></a>が発案した&#8221;ウィング・カー&#8221;という思想がグランプリを席巻し、マクラーレンは空力開発面でライバルに遅れを取ってしまう。マクラーレンの成績低迷に危機感を持ったメイン・スポンサーのマールボロとメイヤーは、チーム内の新たな改革を必要とし、大胆なチーム改造を決断する。</p>
<p>F2のマールボロ・チームを勝利に導いた<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_25.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ロン・デニス</font></a>率いるプロジェクト3は、デザイナーである<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_56.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジョン・バーナード</font></a>と共にマールボロから&#8221;低迷するマクラーレンのF1チームへの技術協力&#8221;をオファーされた。これを機にデニスはF1プロジェクトを&#8221;プロジェクト4&#8243;とし、&#8217;80年にマクラーレンはデニスの会社と合併という形でマクラーレン・インターナショナルという会社へと生まれ変わった。現在まで続くMP4／〜という車番は、&#8217;81年の1号車であるMP4／1からスタートした、言わばプロジェクト・ネームである。MはマールボロのMであり、プロジェクト4の1号車、という意味なのである。<br />こうして新生マクラーレンがスタートし、&#8217;82年には既に引退していた3度の王者、ニキ・ラウダをチームに迎え、&#8217;83年には長年使用して来たフォード・コスワースDFV・V8エンジンを捨て、ポルシェ製のV6ターボ・エンジンにスイッチ。翌&#8217;84年には帝王ラウダ（5勝）とフランスの新鋭アラン・プロスト（7勝）がシーズンを席巻、チームに&#8217;76年のハント以来8年振り／コンストラクターズは10年振りとなるWタイトルを齎した。翌&#8217;85年は今度はプロストがラウダを下し、遂に2年連続でマクラーレンがシーズンを圧倒した。<br />しかし、この頃からターボ・エンジン開発でホンダが成果を上げるようになり、&#8217;86年はプロストが2年連続王座を奪うも、コンストラクターズ・タイトルはウィリアムズ・ホンダに奪われてしまう。&#8217;87年、マクラーレンはプロストに加えロータス・ホンダに乗る新進気鋭のアイルトン・セナを擁し、ホンダ・エンジンの獲得を発表。史上最強布陣と言われたこのライン・アップでマクラーレンは&#8217;88年、ホンダ・ターボ搭載／奇才ゴードン・マーレイ作の<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_92.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マクラーレンMP4／4</font></a>が16戦中15勝という圧倒的な強さを見せつけてシーズンを席巻した。セナは初の王座を獲得するが、同時に先輩格であるプロストとの熾烈なライバル意識にも影響、トップ・ドライバー同士の争いは時にはアンフェアな一面も見せ、後世に残る&#8221;<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_112.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">セナ・プロ対決</font></a>&#8220;へと発展する。<br />&#8217;89年はプロストがセナからタイトルを奪い返すが、「チームはセナに肩入れしている」と扱いの不平等さを訴え、チャンピオン・ナンバーを持ってフェラーリに移籍。残ったセナは翌&#8217;90年、更に&#8217;91年と連覇、マクラーレン・ホンダで3度のタイトルを獲得する。しかし&#8217;92年にホンダがエンジン供給活動休止を発表、フォードV8エンジンで苦戦するマクラーレンから&#8217;93年いっぱいでセナが離脱。翌&#8217;94年からはプジョー・エンジンを搭載し、若きミカ・ハッキネンをエースに闘うが、マーレイのロード・カー（マクラーレン・F1）設計部門への移籍などの要因も含め、再びマクラーレンは低迷期を迎えてしまう。とうとう1勝も出来なかったマクラーレンはプジョーを諦め、既にイルモア・エンジニアリングとの提携でF1に復帰していたメルセデス・ベンツとの契約を発表。ドライバーにはマールボロの&#8221;強い希望&#8221;により、既に引退していた<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_33.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ナイジェル・マンセル</font></a>が選ばれた。&#8230;..が、既にモチベーションを失っていたマンセルと、ただでさえデニスを犬猿の仲と言われた関係が上手く行く筈もなく、マンセルはシーズン序盤で離脱。10年前のラウダ復帰のようには上手く行かなかった。<br />&#8217;96年、セナの没後ウィリアムズからデビューしたデビッド・クルサードがチームに加入し、ハッキネンとコンビを組む。チームはウィリアムズから奇才<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_03.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">エイドリアン・ニューウィー</font></a>を獲得し、長き低迷からの脱出を期する。しかしここまで23年間に渡ってチームを支えて来たマールボロはフェラーリへのスポンサードに集中することを決定。F1の象徴でもある赤白のマールボロ・カラーのマクラーレンの歴史はここで終わりを告げた。<br />&#8217;97年、メルセデス・エンジンを積んだ銀色の新生マクラーレンMP4／12がデビュー、開幕戦オーストラリアGPでクルサードがいきなりの勝利。クルサードは更に第13戦イタリアを制し2勝、苦労人ハッキネンは最終戦ヘレスで初優勝。エンジン絡みのリタイアで勝利を失ったレースも多かったが、マクラーレン完全復活の兆しは見えたシーズンだった。<br />&#8217;98年、ニューウィー作のMP4／13は開幕戦から3位以下を周回送れとする圧倒的な速さを見せ、シーズン後半の<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミハエル・シューマッハー</font></a>（フェラーリ）の追撃を抑え、ハッキネンが初王座。翌&#8217;99年もハッキネンの2年連続王者となり、マクラーレンは完全復活を遂げた。<br />が、&#8217;00年代に入るとフェラーリが全ての分野でライバルを圧倒。&#8217;01年にはニューウィーがジャガー（現・レッド・ブル）への移籍を模索。この時はデニスが説得に動き、離脱は免れたが、チームにとっては後味の悪い一件となった。またハッキネンの引退（当時は&#8221;休養宣言&#8221;）もあり、マクラーレンは若き<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/iceman.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">キミ・ライコネン</font></a>をエースに再スタートを切ることとなった。翌&#8217;03年、ライコネンは1勝ながらフェラーリのシューマッハーをシーズン終盤まで追いつめる速さを見せたが無念の2位。&#8217;04年は前年のマシンのモディファイ型で闘うも既にフェラーリには敵わず。クルサードがチームを去り、ファン・パブロ・モントーヤが加入。&#8217;05年型MP4／20は久々の成功作となるが、ライコネン／モントーヤの布陣を以てしても、この年初タイトルを奪うルノーのフェルナンド・アロンソに惜敗。これを最後にニューウィーがとうとうレッド・ブルへと移籍し、チームはまたも低迷期に入ってしまった。<br />未勝利で終えた&#8217;06年、ライコネンはフェラーリへと移り、モントーヤはアメリカへ旅立った。これにより、&#8217;07年は2年連続王者アロンソと、ロン・デニスの秘蔵っ子である<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/vol02.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルイス・ハミルトン</font></a>のふたりがマクラーレンを駆ることとなった。デニスは&#8217;95年のオート・スポーツ・アワードでカート王者のハミルトン（当時10歳）と出逢い、ハミルトン自身からのラヴ・コールを受け、その後の活躍を見て若きハミルトンとの長期契約を結んだのである。</p>
<p>&#8230;..ここまで、マクラーレンの&#8221;主&#8221;と呼べる人物は確実にデニスであった。プロジェクト4を率いてマールボロと共に低迷するチームを救い、ラウダを復活させつつプロストを開眼させ、セナを愛し、ハッキネンを育てて来た。極めつけはその弟分であるライコネンを含み、特に近年は勝利経験のないドライバーを世界王者にした立役者だ、と言える。これは確実にフェラーリとは違った方法論である。エディ・アーバイン、ルーベンス・バリチェロらは明らかに誰かのNo.2として雇われて来た。そしてそこには限られた勝利のチャンスしか与えられない。が、マクラーレンは常に&#8221;ジョイントNo.1&#8243;という制度を取り、シーズンを通じて速い者がエース、決してチーム操作は行わないというポリシーもデニスのものである。が、ハミルトンに限っては確実にデニスの贔屓であり、そこへ途中合流するアロンソが如何に難しい立場にいたのか、も想像に難くない。<br />かくして、ハミルトンとアロンソにはセナvsプロスト以来の&#8221;確執&#8221;が起きてしまう。若きハミルトン側が大きく行動に出ることはなかったが、逆に王者アロンソはその状況に焦った。細かいやりとりは記さないが、その内容は時には&#8221;子供じみた&#8221;ものと言えなくもなかった。特にTVカメラの前で繰り広げられてしまったハンガロリンクの予選などは。結果、アロンソは若き挑戦者に屈し、チームを出た。そしてこの頃から、チーム／マシンの実力と相反するかのように、様々な問題がマクラーレンの周囲を埋め尽くすようになる。</p>
<p>&#8217;07年、マクラーレンのデザイナー、マイク・コフランがフェラーリのチーフ・メカニックであったナイジェル・ステップニーから技術情報をリークされていた、という疑惑が持ち上がり、FIAがこれを告発。当然当人達はこれを否定するものの、最終的にマクラーレンは&#8217;07年のコンストラクターズ・ポイントを剥奪、その他多くの処分を被り、マクラーレンのCEO（最高執行責任者）であるマーティン・ウィトマーシュはこれらを受け入れ、公式に謝罪したのである。<br />さて、ここで登場するウィトマーシュは、マクラーレンの&#8221;人名&#8221;としてはそう著名な存在ではないだろう。ハミルトンやバトンと共に表彰台で上品な笑みを魅せる英国紳士、マーティン・ウィトマーシュは&#8217;89年にマネージング・オペレーターとしてマクラーレンに加入、以後デニスの片腕となってチームを支えて来た人物である。&#8217;04年のチーム／グループ内人事に於いて新たなCEOとなり、会長となったロン・デニスのNo.2となった。そして、その後マクラーレンに度重なるスキャンダルが続き、最終的に&#8217;09年の開幕戦オーストラリアGPのセーフティ・カー導入中にハミルトンが全車追い越しに関して&#8221;チームの指示による嘘の証言&#8221;をしたとして、無線でハミルトンとやりとりしたデイヴ・ライアンを定職とし、デニスは責任を取って自らの職を降りた。こうして&#8217;09年からウィトマーシュはデニスに変わり、マクラーレン・グループのCEOとなったのである。</p>
<p>さて、かくしてウィトマーシュ体制となったマクラーレンはいきなり&#8221;メルセデスとの契約見直し&#8221;という大問題と直面。これまでほぼワークス扱いだったマクラーレンを捨て、新たに独自チームによる単独参戦に踏み切ったメルセデス・ベンツ。しかもミハエル・シューマッハーを担ぎ出しての参戦とあれば、長年の蜜月を味わって来たマクラーレンとしては寝耳に水である。現在でもマクラーレンはダイムラー・クライスラー・グループの一員ではあるが、結果的にマクラーレンはメルセデス側に僅か11パーセントを残してその株を買い戻している。</p>
<p>さて、ブルース・マクラーレン〜テディ・メイヤー〜ロン・デニス〜マーティン・ウィトマーシュ、と引き継がれて来たマクラーレン。こうして振り返ると、最も色濃く見えるのが当然最も長いデニス時代であることは解ると思う。大半をラウダ、プロスト、セナ、ハッキネンらの王者と過ごし、F1史的にも象徴的な赤白のマールボロ・カラーと、生まれ変わったシルバー・アローを纏った強烈な印象である。そして、彼のプロジェクト4、いやそれ以前に既にマールボロがチームから退いて久しいにも関わらず、相変わらず今季にマシンの車番はMP4／25であり続けていること。これは、このチームが大きな変革を齎しながらもこれまで一貫して&#8221;マクラーレン&#8221;というひとつの定義に則り、きちんと進んでいることの大きな表れでもある。<br />そして、そのマクラーレンという巨大帝国を、今度はウィトマーシュが果たしてどうように舵取りをして行くのか、である。もちろんF!は再びコンストラクター時代を迎える。つまりメルセデスもルノーも、いつまでも現存のエンジン・サプライヤー的な立場さえ望みはせず、いずれグランプリの一線から身を退くことは覚悟しなければならない。となれば、彼らコンストラクターが行うげきは再び訪れる&#8221;エンジンほぼワン・メイク時代&#8221;〜それがコスワースになるのかどうかは不明だが〜に向け、各メーカーと1stプライオリティを結べる有利な状況を作り出すことである。これまでもポルシェ、ホンダ、メルセデス、そしてブリヂストンらと共に良好な関係を築き、故に常に先頭を走って来たのがマクラーレン帝国である。場合によっては、マクラーレンによる独自のエンジン開発、という大ドンデン返しが待ち受けている可能性だってあるのだ。</p>
<p>&#8230;..究極のメーカーであるフェラーリと、常に対峙する究極のコンストラクター、マクラーレン。セナvsプロストで懲りた筈の世界王者同士のジョイント・No.1を擁し、今季はライバルとなったメルセデスGPを上回る活躍を魅せている。このまま新興チームと名門に屈するとは思えない、それがこの帝国・マクラーレンの脅威なのだ。</p>
<p><i>「あのマクラーレンで勝ったんだぜ。こりゃ凄いことじゃないか！」／ジェンソン・バトン@&#8217;10年第2戦オーストラリアGP</i></font></p>
<p>&nbsp;</p><p>The post <a href="https://f1-stinger2.com/kasetatsuya/m%e5%b8%9d%e5%9b%bd%e3%81%ae%e8%ac%8e/">M帝国の謎</a> first appeared on <a href="https://f1-stinger2.com">F1 STINGER 【スティンガー】</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>Icemanに捧ぐ</title>
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		<dc:creator><![CDATA[f1-stinger2248]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 27 Jan 2010 11:02:26 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<br />
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<p>スペインの英雄フェルナンド・アロンソが遂に真っ赤なレーシング・スーツに身を包み、栄光のフェラーリ・ドライバーとなった。皇帝ミハエル・シューマッハーは自らの恩人であるメルセデスと共にF1サーカスに帰還、新王者ジェンソン・バ・・・</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">スペインの英雄フェルナンド・アロンソが遂に真っ赤なレーシング・スーツに身を包み、栄光のフェラーリ・ドライバーとなった。皇帝<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミハエル・シューマッハー</font></a>は自らの恩人であるメルセデスと共にF1サーカスに帰還、新王者<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/10/post-14.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジェンソン・バトン</font></a>は祖国の新星<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/vol02.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルイス・ハミルトン</font></a>と共にマクラーレン帝国を背負い、これを迎え打つ。&#8217;10年は21世紀の4人の世界チャンピオンが激突する、極めてハイ・レベルなシーズンとなるのである。<br />
&#8230;..4人？。いやもうひとり、21世紀を代表する世界王者がいた筈である。&#8230;..そう、&#8217;07年王者キミ・ライコネンは&#8217;10年のF1世界選手権にエントリーしていない。アロンソ獲得劇の裏でフェラーリのシートを失い、マクラーレンとメルセデスの訣別の影で行き先を失ったライコネンは、&#8217;10年の活動の場をラリーに求めたのである。<br />
筆者が&#8221;<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_top.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">no race, no life</font></a>&#8220;シリーズで連載して来た&#8221;記憶に残る名ドライバー&#8221;シリーズでは、基本的にF1を&#8221;去った&#8221;ドライバーのみを取り上げて来た。現状ライコネンがF1に帰って来るかどうかは解らない。しかし、このアロンソの跳馬移籍、シューマッハー復活と<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">メルセデスGP誕生</font></a>の裏で忘れ去られて行くべきレーシング・ドライバーではない。が、ライコネン自身にとってのレーシングが果たして本当にF1にあるのか、の答も定かではない。<br />
彼が再びF1へと戻って来ることを心から願いつつ、ライコネンを&#8221;記憶に残る名ドライバー&#8221;として取り上げることにする。</p>
<p>
</font><font color="#3e6b3a" size="+1"><b>記憶に残る名ドライバーvol.10 キミ・ライコネン</b></font><font color="#3e6b3a"></p>
<p>
キミ・マティアス・ライコネンは1978年10月17日、フィンランド2番目の大都市であるエスポーにて誕生。4,000gを越える大きな男の子だった。父マッティは大型の工事用車両を運転し、母ポーラは事務員として働く、ごく普通の家庭である。ライコネンは幼少期から無口で両親を心配させたが、5歳の頃にひとつ歳上の兄・ラミの影響でモトクロスに夢中になり、ドライビングに魅了されたライコネンは8歳の時にカート・キャリアをスタートした。「完全に自分だけの世界なんだ。誰にも何も言われず、運転に集中することが出来る」無口な少年はたちまちレースにのめり込み、国内の選手権を次々と制覇して行った。&#8217;98年、インターナショナル・カート・チャンピオンとなったライコネンは翌&#8217;99年にフォーミュラ・フォードへとステップ・アップする。しかし資金難で参戦継続を断念、冬期に行われるフォーミュラ・ルノーのウインター・シリーズにマノーから参戦し、出場4戦を全勝。マノーに高評価されたライコネンは翌&#8217;00年のイギリス選手権でレギュラー・シートを獲得、10戦7勝／全戦表彰台という圧倒的な強さでチャンピオンとなった。同年、F1チームである<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_73.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ザウバー</font></a>からF1マシンのテストの機会を与えられ、9月のヘレス・テストで初めてF1マシンを走らせる。「キミの走りは素晴らしかった。今契約しておかないと絶対後悔すると感じたんだ」ペーター・ザウバーはこの若き天才に惚れ込み、翌&#8217;01年のレギュラー・ドライバーとして契約することを決めた。<br />
&#8230;..カート以降、たった23戦のフォーミュラ・キャリア。それもF3すら未経験のF1デビュー。この前代未聞の人事にFIAは「待った」をかけた。当時、ドライバーへのスーパー・ライセンス発給はF1直下のF3000、または各国でのF3での成績が大きく影響し、当然ながらF3以下のカテゴリーしか経験のないドライバーへのライセンス発給は前代未聞であった。ザウバーはライコネンに計4,800kmに及ぶF1テスト走行の機会を与え、どうにかFIAを説得しようと試みた。結果、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/post-6.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マックス・モズレー</font></a>FIA会長は&#8221;4戦分のみの暫定ライセンス&#8221;発給を許可した。つまり、ライコネンは&#8221;仮免許&#8221;でF1世界選手権に参戦し、その走りを評価した上で正規のライセンスを発給するか否かを試されることとなったのである。</p>
<p>&#8217;01年開幕戦オーストラリアGPに向け、2月下旬にライコネンは生まれて初めてボーイング747に乗り、そして生まれて初めてヨーロッパ大陸を離れた。彼のチーム、ザウバーには&#8217;99年国際F3000王者の<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/08/post-7.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ニック・ハイドフェルド</font></a>。同じ年にデビューするドライバーには国際F3000／CART王者のファン・パブロ・モントーヤ、そして前年国際F3000選手権4位／若干19歳のフェルナンド・アロンソらがいた。周囲は明らかにこの&#8221;経験不足の新人&#8221;を冷ややかな眼で見ていた。が、ライコネン自身はそんな周りの空気をこれっぽっちも気にせず、マイ・ペースで初めてのF1ウイークを過ごしていた。予選はチーム・メイトのハイドフェルドが7位と絶好のグリッドを獲得、初予選となるライコネンは13番手。トップ・チームであるウィリアムズからデビューのモントーヤ（予選11位）よりもパドックの注目を集めた。迎えた決勝。スタート前、各ドライバー／チームは開幕戦恒例の&#8221;ドタバタ&#8221;の渦の中で、如何にこのレースを闘い抜くかの準備に追われていた。<br />
ピット・レーン・オープン15分前。ライコネンの姿はピットの何処にもなかった。ザウバーのマネージャーであるベアト・ゼンターはライコネンを探しまわり、ようやくモーター・ホームのベッドに横たわっているライコネンを見つけた。「きっと、デビュー戦前夜は緊張して眠れず、レース直前の緊張感で冷や汗をかいて震えているんだろうと思ったんだ。ところが、キミは大きないびきをかいて眠っていやがったのさ！」ゼンターに起こされたライコネンはまだ開ききらない眼をこすりながらマシンに乗り込み、そして波乱のレースを走りきり、なんと6位1ポイントを獲得して帰って来たのである。「キミ、凄いぞ。初レースで初入賞だ！」「ふーん、そう&#8230;..」ライコネンは周囲が呆れるほど冷静だった。しかし、この仮免ドライバーのセンセーショナルな快走はFIAのド肝を抜き、今度こそ文句なしで正式ライセンスが発給された。その後もライコネンの快走は続き、第6戦オーストリア、第8戦カナダで4位入賞。最終的に9ポイント獲得でドライバーズ・ランキング10位。だがその数字以上に、ライコネンの走りは注目の的となった。ペトロナス名義でザウバーにエンジン供給する王者フェラーリがライコネンに興味を示し始める。が、それよりも早く、もうひとつの帝国がこの若き天才獲得に動いた。ライコネンはたった1年のF1キャリアで、引退する母国の英雄、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_52.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミカ・ハッキネン</font></a>の後任としてマクラーレン・メルセデスへと抜擢されたのである。<br />
「キミは凄いヤツなんだ。必ず世界チャンピオンになるよ」&#8217;98、&#8217;99年と2年連続で王者となったハッキネンはロン・デニスに対し、自らの後任としてライコネンを薦めた。&#8217;02年、フォーミュラ・キャリア僅か40戦でトップ・チームのシートを得たライコネンは開幕戦から最速ラップを樹立する速さを見せ、第11戦フランスGPではシューマッハーのフェラーリを抑えて堂々のトップ快走、しかしコース上のオイルに乗ってスピンし、惜しくも初勝利ならず。シーズンを通して17戦中リタイア10回と、マシン／エンジンの信頼性には恵まれなかったが、計24ポイントを獲得してランキング6位。<br />
チーム2年目の&#8217;03年第2戦マレーシアGP。好調のアロンソ／ヤルノ・トゥルーリのルノー勢がフロント・ロウを占め、ライコネンは7番手。スタートの混乱をくぐり抜け、オープニング・ラップで4番手へ。チーム・メイトのデビッド・クルサードが電気系トラブルで離脱し、最初のピット・ストップを終えてライコネンはトップに立つ。その後方ではアロンソとフェラーリのルーベンス・バリチェロが激しく2番手を争っており、その間に逃げを打ったライコネンが独走で遂に初優勝。「まだ実感がないよ。きっと家に帰ったら解るんじゃないかな」あくまでも冷静なライコネンはこの年、最終戦までシューマッハーとタイトルを争う活躍を見せ、僅か2点差でランキング2位となった。&#8217;04年、マクラーレンMP4/19はナーバスなマシンとなり、前半戦は不調。チームが改良型のMP4/19Bを投入するとたちまち速さを取り戻し、第13戦ベルギーGPを勝利。翌&#8217;05年は7勝／ポール・ポジション5回／最速ラップ10回の活躍を見せるも、ルノーのアロンソに敵わずランキング2位。「もっと勝てた筈だった」またもマクラーレンの信頼性の犠牲になったシーズンだった。そして&#8217;06年、新車MP4/21は完全な失敗作となり、ライコネンはチームへの不信感を強める。折しもライバル・フェラーリは皇帝シューマッハーの引退に揺れ、その後任としてライコネンに白羽の矢を立てていた。未勝利に終わったこのシーズンを最後にライコネンはマクラーレンを離れ、フェラーリへの移籍を決めた。</p>
<p>&#8217;07年、跳馬の一員となったライコネンは開幕戦オーストラリアGPでポール・ポジションから1度も首位の差を譲ることなく優勝。最速ラップも樹立し、フェラーリ移籍初戦をハット・トリックで終えた。しかしシーズン中盤に古巣マクラーレンが王者アロンソとデニスの秘蔵っ子であるハミルトンの活躍により躍進。残り2戦の時点でこのふたりがタイトルを争う影でライコネン自身はトップのハミルトンと17点差のランキング3位。タイトル獲得はほぼ絶望的な状況だった。しかし第16戦中国GPで優勝、ハミルトンはリタイア／無得点。首位とのポイント差を7点として迎えた最終戦ブラジルGP。お互いを意識し過ぎたマクラーレンのふたりが潰し合うのを尻目にライコネンは連勝、アロンソ3位／ハミルトン7位、マクラーレンのふたりに対し、たった1点差でライコネンが初タイトルを獲得したのである。これはF1史上稀に見る接戦であり、最終的にライコネンが逆転タイトルを獲得するとは誰も予想出来なかった。しかし、ライバル対決でヒート・アップするマクラーレンのふたりを尻目に、淡々と自分のレースを行ったライコネンが見事にシーズンを制したのである。「言葉では説明出来ない。でも僕らはそれを実現した。振り返ってみれば良いシーズンだった。チームや関係者の皆にお礼を言いたい」&#8230;..クールなライコネンにしては&#8221;極上の&#8221;ホットなコメントである。</p>
<p>しかし&#8217;07年をピークにライコネンを取り巻く状況は一変した。&#8217;08年は確実に力を付けて来たチーム・メイト、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/forza-felipe-siamo-con-te.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェリペ・マッサ</font></a>がライコネンを上回り、シーズン最終戦までマクラーレンのハミルトンとタイトル争いを繰り広げ、翌&#8217;09年は<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/05/kers.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">KERS開発</font></a>やシーズン序盤のディフューザー問題などでフェラーリが出遅れ、第12戦ベルギーGPでの1勝のみでシーズンを終了。更に、フェラーリはもう1年契約の残っているライコネンを放出し、アロンソの起用を決定。マクラーレンやレッド・ブルが獲得に動いたが、ライコネンは以前から興味を示していたWRCへの転向を決断。「F1のドアは閉じていない」としながらも、事実上一旦はF1を去る決意を固めた。<br />
出走157戦、優勝18回、ポール・ポジション獲得16回、最速ラップ35回。&#8217;07年王者ライコネンはF1に背を向け、新天地へと旅立って行った。</p>
<p>ライコネンを表す最も適切なひとこと。それは100パーセント間違いなく&#8221;アイスマン&#8221;である。当の本人はこのジャーナリスト達が付けたニック・ネームが気に入ったようで、自らヘルメットに&#8221;Iceman&#8221;とペイントし、左腕にはIcemanのタトゥーまで入れている。これはもちろん冷静／無口でマイ・ペースなハンサム・ガイ、というクールな意味合いだが、ライコネンのそれは一般的なレーシング・ドライバーの領域を遥かに超えている。もちろん、ライコネンは笑う。が、その笑みは商業的／社交辞令的な意味合いを持たず、心から自分が楽しんでいる際にしかお目にかかれない。例えレースに勝ち、表彰台の真ん中でシャンパンを振っていても、何処かつかみ所のない冷静な表情を浮かべていることがある。が、これは巨額の投資を行うスポンサーにとっては&#8221;イメージ&#8221;という部分で非常に重要である。事実、ライコネンはいくつかのスポンサー・イベントをすっぽかし、その間マイ・ペースな&#8221;個人活動&#8221;を行った前科がある。<br />
「俺がスポンサー・イベントに出席した数はキミの3倍くらいだね！（笑）」とはマクラーレン時代のチーム・メイト、クルサード。「彼は自分が興味のないことはしない主義なんだ。おかげでこっちは大忙しだけどね」フェラーリ恒例のスキー・イベントに新加入したアロンソと共に出席したマッサは「フェルナンドとは既に3年間一緒にいたキミよりたくさん話したよ」とジョークを飛ばした。「でも、キミとは別に話をしなくても上手くやって行けたんだけどね」ちなみに、マッサが<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/forza-felipe-siamo-con-te.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">&#8217;09年第10戦ハンガリーGP予選</font></a>で瀕死の重傷を負った際も、ライコネンからは見舞いのひとこともなかったという。「別に気にしてないよ。だって彼はそういう人だからね」行動とは裏腹に、ライコネンの性格を嫌う関係者が少ないのも興味深い事実である。フェラーリ代表の<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/05/post-1.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ステファノ・ドメニカリ</font></a>は「キミは非常に優秀なドライバーだったが、とても&#8221;閉鎖的&#8221;な人物でもあった。今のフェラーリにとって必要なのはアロンソのようにチームを牽引出来る人物なんだ。かつてのミハエルのようにね」それは確かにライコネン向きの仕事ではない。<br />
また、ライコネンの英語に対する&#8221;苦手意識&#8221;も、元から無口なライコネンのイメージを助長している。フェラーリ在籍時にもイタリア語を「勉強が大嫌い」と全く覚えず、ティフォッシの反感を買うこともあった。が、世間がどんなイメージを持とうともそのマイ・ペースぶりを崩さないというのが&#8221;アイスマン&#8221;たる所以なのである。</p>
<p>ライコネンのマイ・ペースぶりを象徴する事件は数え切れない。中でも&#8217;06年第7戦モナコGPは有名な一件だろう。2位でセーフティ・カー先導中の51周目、防熱版から火が出てリタイアを余儀なくされたライコネンはマシンを降りるとそのままピットへは戻らず、自身の所有するクルーザーへ直行、水着姿で仲間と共に酒を呑みながらレースを観戦する姿が国際映像に捕らえられた。当然パドックでは「職場放棄だ」と揶揄されたが、多くのライコネン・ファンはこれを「信頼性の低いフェラーリに対する最高のアピール」と支持した。<br />
大雨でレースが赤旗途中終了となった&#8217;09年第2戦マレーシアGP。ライコネン／フェラーリ陣営はタイヤ交換戦略に失敗して後方へ下がり、31周目／残り24周の時点で雨足が強くなりレースは中断。各車がグリッドで再スタートを待つ間、ライコネンはマシンを降りてそそくさと着替え、偶然にもピットの冷蔵庫からアイスクリームを取り出してモーターホームへ消えて行く場面が国際映像に映し出されてしまった。これでライコネンは「アイスマンではなくアイスクリームマンだ」と揶揄され、レース放棄疑惑が流れたが、フェラーリからはいずれにしてもライコネンのマシンはKERSのトラブルで再スタート出来なかったと釈明。レース結果は14位となった。<br />
タイトルを獲得した&#8217;07年の開幕戦でF1関係者が大忙しだった頃、ライコネンは&#8221;<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_99.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジェイムズ・ハント</font></a>&#8220;という恐れ多い偽名を使ってスノー・モービルのレースに出場し、優勝した。シーズン中には祖国・フィンランドで友人のスピード・ボートのレースに参加。多くの観客がライコネンがやって来ることを知っていたが、本人が騒がれるのを避けようとゴリラの着ぐるみで登場、まんまと観衆を出し抜いた。<br />
またライコネンの祖国フィンランドは徴兵制度を持つ国である。当然ライコネンにもその義務を果たす必要があり、マクラーレンに移籍した頃には兵役についてもいた。「フィンランドとの往復は大変だった。それでも僕は国際レースに出場していたので70日ほど余分に休暇を貰えたんだ」実は&#8221;無許可離隊&#8221;でライコネンが収監された経験がある、という事実はあまり知られていない。</p>
<p>最速ラップ35回、というのはF1歴代3位の記録である。ちなみに1位はミハエル・シューマッハーで76回、2位は<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_80.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アラン・プロスト</font></a>の41回。デビュー9年／僅か30歳でこの数字は如何にライコネンのレース中のラップが速いかと同時に、勝利と予選トップの2倍近い数字であることからその安定性に疑問符が付くデータでもある。つまりライコネンは予選で本領を発揮しきれず、最終日の決勝では速いがリタイアが多い、という結論である。よって、当然チームとしてはブリーフィングなども含め、ライコネンに更なる&#8221;学習&#8221;の場を求める。が、当の本人は自らの感性を信じ、本能的な行動で結果を出す。極端に言えば、集団行動やチーム戦略はライコネンに向かないのかも知れない。しかし、それは多くのチーム・スタッフ／メーカー、スポンサーなどを代表して闘うこのカテゴリーでは通用しないことをも意味する。少なくとも、シューマッハーがフェラーリで行ったのはまさにそれだからである。<br />
「我々のチームにとって、予選でトップ10に入るというのは素晴らしい出来事だったんだ。ところが、彼はそうでもなかったらしい」F1デビュー1年目、ザウバーのテクニカル・ディレクターだったウィリー・ランプは、若きライコネンの冷静さに驚いたひとりである。「だがその姿勢は我々チーム全体の士気にとても良い影響を及ぼした。彼が4位になって大騒ぎしていたら、キミは『倒さなきゃならない相手がまだ3人いる』と言ったんだ！」そしてライコネンは栄光のフェラーリ・ドライバーとなり、世界王者となった。もしかしたら、ライコネンの&#8221;倒すべき相手&#8221;は、もうF1にはいないのかも知れない。</p>
<p>筆者選出、キミ・ライコネンのベスト・レースは&#8217;05年第18戦日本GP。予選は雨で混乱、17番手スタートとなったマクラーレン・メルセデスのライコネンは序盤から積極的に仕掛け、セーフティ・カー導入の混乱をくぐり抜けて14周目までに7位に上がる。29周目にフェラーリのシューマッハー、ルノーのアロンソとの壮絶な5位争いを制し、41周目にトップを行くトヨタのラルフ・シューマッハーが3回目のピット・ストップで後方へ下がると、ライコネンがトップに立ち、アロンソのチーム・メイトであるジャンカルロ・フィジケラのルノーとの優勝争いとなった。45周目、ライコネンが最後のピット・ストップを終え、最速ラップを更新しながら猛然とフィジケラを追う。その差は1周ごとに縮まり、遂にファイナル・ラップの1コーナーでフィジケラをキャッチ。グランド・スタンドが総立ちとなる中、劇的なオーバー・テイクでフィジケラを豪快にアウトから抜き、実に16台抜きの勝利を掴んでみせた。眼の前でこんなシーンを見せられた日本のファンはたまらない。ライコネン自身も「今日の勝利は僕のキャリアの中でもベスト」と喜び、チェッカー直後は珍しく両手を振り上げて勝利を喜んでいた。アイスマンが見せた心からの喜び。日本にライコネン・ファンが多いのも頷ける。</p>
<p>現在ライコネンは&#8221;ラリー・ドライバー&#8221;である。元よりラリーへの興味を公言していたライコネンだったが、&#8217;10年はレッド・ブルとの1年契約により、シトロエン・ジュニア・チームのドライバーとして12戦に出場する。「この素晴らしいチャンスをくれたレッド・ブルに感謝する」ライコネンはWRC転向を決める以前、マクラーレンとレッド・ブルへの移籍が囁かれていた。ライコネン自身も「トップ・チーム以外では走らない」と名言。ライコネンのマネージャーであるスティーヴ・ロバートソンは「メルセデスGPからもオファーがあったが、その時既にキミはWRCへの転向を決めていたんだ」と明かす。シトロエンのオリビエ・ケネルは「もしもキミが素晴らしい結果を残すようであれば、&#8217;11年にセバスチャン・ローブと共にファースト・チームに加入出来るかも知れない」とライコネンのラリー転向を歓迎している。が、ライコネンの加入したレッド・ブルはセバスチャン・ヴェッテル／マーク・ウェバー共に&#8217;10年末で契約が切れるため、1年間のラリー活動の後にレッド・ブルからのF1復帰、という筋書きが推測されている。<br />
が、恐らくマイ・ペースなアイスマン・ライコネン自身は&#8221;自分に正直に&#8221;生き、そして選択するだろう。筆者個人としては近代F1の枠をブチ破る豪傑のひとりとして、まだまだF1でライコネンの暴れっぷりを見ていたいと心から願う。</p>
<p>
<i>「今はF1よりWRCのタイトルの方が魅力的なんだ」／キミ・ライコネン</i></p>
<p></font></p><p>The post <a href="https://f1-stinger2.com/kasetatsuya/iceman%e3%81%ab%e6%8d%a7%e3%81%90/">Icemanに捧ぐ</a> first appeared on <a href="https://f1-stinger2.com">F1 STINGER 【スティンガー】</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>解らず屋より。</title>
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		<dc:creator><![CDATA[]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 04 Nov 2009 11:51:32 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>
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<p>「日本人は何だってやめるんだ？続けてりゃいいのに」&#8230;..&#8217;92年、名前も知らないとあるイタリア人の男が言った言葉である。もちろん、彼の矛先は&#8221;第2期&#8221;と呼ばれるエンジン供給・・・</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">「日本人は何だってやめるんだ？続けてりゃいいのに」&#8230;..&#8217;92年、名前も知らないとあるイタリア人の男が言った言葉である。もちろん、彼の矛先は&#8221;第2期&#8221;と呼ばれるエンジン供給を行った&#8217;83〜&#8217;92年の10年間の活動を終え、F1を&#8221;休止&#8221;するホンダに向けられたものである。そしてその彼の基準はF1世界選手権初年度の&#8217;50年から42年間、良い時も悪い時も、常に跳ね馬の描かれた真っ赤なマシンを走らせ続けるフェラーリである。</p>
<p>&#8217;09年11月2日にブリヂストンが、2日後の11月4日にトヨタが、F1からの撤退を正式に発表した。</p>
<p>ブリヂストンは&#8217;07年の供給開始以来、グッド・イヤー／ミシュランとのタイヤ・レースを制し、ワンメイク供給となって3年目となっていた。彼らがFIAとの契約期間を1年前倒しし、来年いっぱいでの撤退を決めたことは会社の危機感を示すには充分なものであった。理由は今更ここに記す必要もない、経済的なもの。同時に、1年間の猶予期間が設けられているのはブリヂストンなりの礼儀である。何故なら、彼らのタイヤを想定した形で、既に各チームが&#8217;10年型の新車の設計を行っているからである。従ってFIAはこれから&#8217;11年以降F1にタイヤを供給してくれる／出来るメーカーを探さなければならない。それが欧州産になるのか違うのかは世界経済の推移を伴うので解らないが、F1は当分優秀なタイヤを装着するのは難しい筈である。BSに関しては筆者もそれなりに想うところもあり、更にあと1年、彼らの&#8221;レース&#8221;を追いかけることが出来る。またいずれ別の機会にその歴史を紐解くこととして、ひとことだけ言うのであれば、その猶予を持たせた紳士的且つ難しい決断をこのタイミングで齎してくれたことに心から感謝したい。突然バックレる、というのはあまりにも衝撃的でスタイリッシュではなく、少なくともF1の品位を充分に理解した上での、流石の行動だと痛感する。同時に、敵不在のまま1社供給し続けることの意義と、その短期間での成功に関わる全ての努力に賞賛を贈る。</p>
<p>さて、一方の&#8221;バックレた方&#8221;に話を移そう。<br />トヨタは&#8217;02年にF1参戦を開始。その経緯は常に複雑であった。1890年（明治23年）の豊田佐吉による豊田式木製人力織機に始まり、豊田自動織機製作所内に自動車部門が設けられ、佐吉の息子である喜一郎が責任者となり、1937年（昭和12年）に豊田自動車が発足する。しかし創業主である豊田家の「社員が汗水流して作った車を一瞬で壊してしまうカー・レースは我々の目標ではない」というポリシーの前にモーター・レーシングへの過度の関わり合いを制限され、トヨタは大衆車をメインに手掛けて成功、時代の移り変わりと共に1962年（昭和37年）にパプリカ・スポーツを発表、ここからS800、2000GTといった名車が誕生する。あくまでも大衆性と安全性、トヨタとモーター・レーシングは必ずしも結びつくものではなかった。<br />既にホンダが第1期F1活動を終えた&#8217;68年、トヨタは初のツーシーター・レーシング・カー、トヨタ7を開発する。北米のCanAm選手権出場のために作られたこのマシンは、事実上彼らのF1への挑戦のスタート、でもあった。が、&#8217;70年の河合稔の鈴鹿でのテスト中の事故死をきっかけに、社内外／世論を巻き込んで論争が始まる。結果、表面上トヨタはレース活動の縮小を余儀なくされた。<br />5年後の&#8217;75年、トヨタはベルギーにT.T.E（トヨタ・チーム・ヨーロッパ）を設立し、オベ・アンダーソンと組んでWRCへ参戦する。国外活動、市販車ベースのラリー、彼らの方法論は&#8221;信頼性の高い市販車の世界的な宣伝&#8221;へと向けられた。が、彼らの選手権制覇はユハ・カンクネンを擁した93年まで、18年間待たなくてはならなかった。&#8217;85年には童夢と組んでグループCにも参戦するが&#8217;92年の選手権2位が最高、トヨタはどうしてもレース部門では輝けなかった。そしてその頃、日本の&#8221;カー・レース&#8221;という印象は全てホンダの元にあった。アイルトン・セナ、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケ、そして中嶋悟。レースを良く知らない人達にも名前の浸透したスターとなった彼らに共通するアイテムはホンダであり、そのドラマは皆ホンダの聖地・鈴鹿で起きていた。<br />喜一郎〜章一郎〜英二と引き継がれて来た豊田家のポリシーは、&#8217;95年に社内の刷新を計る人事の切り札、奥田碩（現・経団連名誉会長）が社長に抜擢されたことから変化を始める。そして奥田が掲げたのは「F1、インディ、ル・マンの制覇」という、それまでのトヨタのイメージを完全に打ち破るものだった。そして世界初のハイブリッド車&#8221;プリウス&#8221;とモーター・レーシングの両立は、かつて「誰にも不可能」と言われたマスキー法をクリアし、低燃費／低公害を実現しながらF1世界選手権を獲得するというホンダの偉業を明らかに意識したものだった。奥田の&#8221;攻め&#8221;は社内に革新を齎し、それは販売台数などの数字にも明らかに表れた。が、&#8217;91年にマツダがロータリー・エンジンで勝利したル・マン24時間レースは2位止まりで撤退、インディでは&#8217;96年からのホンダが圧勝、&#8217;02年に選手権を、&#8217;03年にインディ500マイルをようやく制覇。世界3大レースの内ふたつを1勝1敗とした。<br />&#8217;90年に興したフォーミュラ・トヨタ、&#8217;92年のジョン・バーナードとのトムス。社内で&#8221;X&#8221;と呼ばれていたトヨタのF1挑戦は水面下で始まっていた。「やるからには勝て」奥田はそう言明し、&#8217;99年1月21日、奥田は多くのカメラのフラッシュを眩しそうに、でも嬉しそうに「ようやく夢だったF1に参戦することになりました」と語った。その笑顔は、つい1ヶ月前、ヤルノ・トゥルーリの2位フィニッシュに大喜びしていた鈴鹿での豊田章男社長の笑顔とは違っていた。</p>
<p>今回の発表は、一部報道でのエンジン供給のみやスポンサーシップとしての活動継続は一切なく、F1というカテゴリーからの完全撤退、というものだった。潔く全て、ということなのだろうが、このタイミングでのこれはF1という世界的組織の中では日本人特有の&#8221;無責任の極み&#8221;である。<br />ウチの村長／編集長である山ちゃんの言葉を借りるのなら、「誰がトップなのか解らない」のが日本チーム。例えばフェラーリにはエンツォが、ホンダには本田宗一郎がいた。マクラーレンにはロン・デニスが、そしてウィリアムズにはサー・フランクが、ブラウンGPにはブラウン自身がいる。メルセデス・ベンツやBMWがどんなに大きな企業であっても、それを象徴するのはノルベルト・ハウグでありマリオ・タイセンである。現在、フラビオ・ブリアトーレの解任によって急遽ルノーを仕切るボブ・ベルの顔が出て来ないのは仕方がない。が、それと同じくらい不透明なのが8年間もF1をやってるトヨタだった。山科忠？、新居章年？、本来なら<br />
ば敵地であった筈の鈴鹿で見かけた、見慣れない豊田章男社長の笑顔、そうか、あれは応援に来たのでも、楽しみに来たのでもない。トップがわざわざF1に&#8221;お別れ&#8221;をしに来たのだ。</p>
<p>世界的不況の前に、巨大メーカーが会社保全のために資金の負担の大きな広報活動を削った。たったそれだけのことである。そしてそれはトヨタのみの問題ではなく、僅か1年間の間にホンダ／富士SW／BMW／ブリヂストンに続いて起きた5つ目の例でしかない。が、この5つの内4つが日本メーカーであることの意味合いは大きい。<br />決断の内側にあるものは非常にシンプルだ。まず、メリットとデメリットを計りにかける。次に、将来性を評価する。最後に、熱意を沈め、恥をかく覚悟をする。その全ての行程を経て決断された結果は、今後多くの社員やその家族の生活を守り、日本社会の未来へ貢献する。そこには何の問題も、何の異論もない。戦争とバブルの昭和を生きた彼らが21世紀の今、出した答である。「日本人は頭がイイ」その通りだ。だから我々は安全に、幸福に暮らしている。従って、それが単なる広報活動の一貫でしかないのであれば、その決断に何か疑う余地は全く存在しない。</p>
<p>忘れてはいけないことがある。<br />FOTAの一員であるトヨタは、今年6月にFIAに対し最低でも2012年までF1に参戦することを約束し、&#8217;10年のエントリー・リストにサインした筈である。そして、BMWザウバーはそのサインを行わず、後にF1からの撤退を発表した。つまり、BMWは出来ない約束をしなかったのだ。嘘をつくことを良しとしなかったのだ。その後継続を目指す現場のレーシング・チームが来年の参戦枠を巡ってどれほどの苦労をしているのか。それを横目に、やると言っておきながらやっぱりやらない、それも、エントリー期限の時点で世界中の誰もこの先景気が良くなるとは思っていない、更にトヨタの赤字転落は目に見えて確実と解る時期、つまり、パドックやメディアの報道以上に、自分達が&#8217;12年までF1参戦を続けることなど出来ないと解っていた上で、世界中に、仲間に、ファンに、そして現場のレーシング・チームや開発チームにまで&#8221;嘘をついていた&#8221;のである。<br />少なくとも、FIAはどうにかコストを下げようと必死になっていた。通らなかったバジェット・キャップ案も含め、なんとかF1サーカスから落伍者を出さぬよう尽くした。トヨタはそれにすら反対し、挙げ句の果てに新シリーズ立ち上げ案に共謀し、そして最後に「金がない」と逃げた。<br />11月15日の役員会を待たずに予算を決められない。イタリア人のトゥルーリ、ドイツ人のグロック、ヨーロッパの彼らには既にその意味が解っていた。だからこそ、これっぽっちも未練なく、自身に予選フロント・ロウ独占と最高位2位を齎すチームに別れを告げられたのだ。<br />更に、役員会よりも前である11月8日に記者会見が予定された。何故だ？、来季の体制はそのタイミングでは決められない筈だ。そしてBSの発表直後の11月4日、誰かのリークによって全ては&#8221;前倒し&#8221;された。ドサクサに紛れるには良いタイミングだ。が、それは最も恥ずかしいやり方でもある。<br />しかし、これが日本人の現実である。筆者としては最も使いたくない表現だが、負けが解っていながら「御国のために／必ず勝つから」と兵士を送り続け、死なせ、そして無条件降伏という結末を迎えた国のやり方なのだ。あまりにも大きく、そして無駄な犠牲を払い、戦後この国は復興した。が、彼らはバブルを経て覚えた「ヤバくなったら逃げろ」&#8230;..ただそれだけのことだ。サムライとは何だ？、死ぬ覚悟で無駄に突っ込んで行く者のことではない。誰が何を言おうとも己の信念に従い、己に嘘をつかずに生きる。それがサムライ。従って、彼らはサムライじゃない。が、サムライは日本の企業のトップになんかなれない。だからサムライでもある。</p>
<p>F1という巨大なかたまりが一斉にスタートするその瞬間、我々は皆子供に還ったようにワクワクする。それはバーニー・エクレストンでも、現場のカメラマンでも、筆者でも同じことである。夢のようなF1を前に、そのワクワク感は我々を童心に還らせてくれる。<br />そして、子供は大人を信じる。その大人が嘘をついた時、子供の傷心は取り返しがつかない。何時になったら帰ると決まっているクセに、「何処へも行かないよ」とウソをつく。そんなに大人にはなるまいと子供の頃誓った。が、どうやらそんなヤツはこの国に大勢いるようだ。</p>
<p>「何だって日本人は辞めるんだ？、続けてりゃ良いのに&#8230;..」<br />モンツァのF1イタリアGPには、親子のみならず三代に渡ってフェラーリを応援に来る人達がいる。祖父は「あのパラボリカでファンジオとファリーナが&#8230;..」と懐かしみ、その息子がベルガー／アルボレートの奇跡の1-2フィニッシュを想い出し、孫は必死にライコネンの姿を追う&#8230;..そんな光景が当たり前のように、今年も行われていた筈である。羨ましいかって？、もちろん。だって、それは&#8221;夢&#8221;みたいな話だから。<br />鈴鹿で&#8221;Gives You Wings（翼をあげるよ）&#8221;の文字をまとったセバスチャン・ヴェッテルのレッド・ブルRB5は、西日を浴びて本当に空に飛んで行ってしまいそうだった。OK、F1はヨーロッパのもの。僕らはまた、その憧れの&#8221;異世界&#8221;のスポーツを追いかけよう。そしていつの日か、初めてF1グランプリを観た日本の誰かが「何だアレは！自分もやるぞ！」と立ち上がる日を待とう。</p>
<p>通算140戦、ポール・ポジション獲得3回、最速ラップ3回、入賞87回、表彰台獲得13回、未勝利。「勝ったらやめる」筈のトヨタは1勝2敗で去って行った。</p>
<p></font><i><font color="#3e6b3a">オマエに何が解ると誰かが言うだろう。だが、解らず屋がやるのがF1だ。<br />&#8217;09年11月4日　筆者・加瀬竜哉</font></i></p>
<p>&nbsp;</p><p>The post <a href="https://f1-stinger2.com/kasetatsuya/post_16/">解らず屋より。</a> first appeared on <a href="https://f1-stinger2.com">F1 STINGER 【スティンガー】</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>ブラウンの戦略ゲーム</title>
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		<pubDate>Fri, 02 Oct 2009 15:21:22 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<br />
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<p>いよいよ残り3戦&#8230;..&#8217;09年のタイトル争いは日本／鈴鹿、ブラジル／インテルラゴス、そして初開催のアブダビGP／ヤスマリーナへ。&#8217;09年シーズン開幕当初は、このまま楽にタイトルを決める・・・</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">いよいよ残り3戦&#8230;..&#8217;09年のタイトル争いは日本／鈴鹿、ブラジル／インテルラゴス、そして初開催のアブダビGP／ヤスマリーナへ。&#8217;09年シーズン開幕当初は、このまま<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/05/post-3.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">楽にタイトルを決めると思われたジェンソン・バトン／ブラウンGP</font></a>が中盤に入って失速し、その間着実に速さを磨いて来たレッド・ブルのセバスチャン・ヴェッテル／<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/08/post-7.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マーク・ウェバー</font></a>の追撃に合い、序盤の不調／マシン・コンセプトのミスを名門ならではの開発力でリカバリーし、遂には勝利を掴むほどの復活を遂げて来たマクラーレン／フェラーリが今度はダーク・ホース的にレースを席巻、復活の兆しを見せたブラウンだが今度はバトンではなくチーム・メイトのルーベンス・バリチェロが2勝&#8230;..初優勝ひとり（ウェバー）を含む6人の優勝者を生んだ&#8217;09年シーズンが遂に決しようとしている。3戦を残し、現在ポイント上タイトル獲得の可能性のあるドライバーは3名。</p>
<p></font></p>
<table border="0">
<tbody>
<tr>
<td colspan="3"><font color="#3e6b3a">第14戦シンガポールGP終了時</font></td>
</tr>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a"><b>ジェンソン・バトン</b></font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">84点</font></td>
</tr>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a"><b>ルーベンス・バリチェロ</b></font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">69点</font></td>
</tr>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a"><b>セバスチャン・ヴェッテル</b></font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">59点</font></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p><font color="#3e6b3a"><br />つまり、誰が勝っても初タイトルなのである。とは言え、事実上トップのバトンから25点差をつけられたヴェッテルの逆転は難しい。彼は勝つだけでなく、ライバルの脱落を待たなくてはならなくなり、プロ野球風に言うと「自力優勝の可能性がほぼ消滅した」と言って良い状況。圧倒的有利なのはもちろん首位のバトン。ポイント上の直接的なライバルであるチーム・メイトのバリチェロとは15点差、仮に残りを3連勝すると、バトンが3戦全てで4位に入れば同点、優勝回数（バトン6勝／バリチェロ5勝）の多いバトンが逃げ切る計算となる。もしバトンが1度でも2位／8点を加算出来たら、残り2戦は4位と5位で充分。もっと極端なパターンでは、仮に次戦鈴鹿でバトンが優勝し、バリチェロが4位以下なら、そこでバトンのタイトル獲得が決定する。従って、バリチェロがタイトルを獲得するには3連勝＋バトンの3戦連続4位以下という極端な結果が必要であり、現状の勢力図を考えると極めて難しい。余裕のあるバトンが鈴鹿で無理をして勝ちに行くとは思えないが、今バトンは限りなくタイトル争いに&#8221;王手&#8221;をかけた状況にいるワケだ。</p>
<p>F1ワールド・チャンピオンはたった1戦で決する。が、それはそこまでの全てのレースに於ける積み重ねによるものであり、たった1戦がチャンピオンを決めるという意味でもない。勝つべきレースに勝ち、穫るべきポイントを確実に穫り、総合得点制度を上手く活用した者、つまり速さだけではなく&#8221;強さ&#8221;をも兼ね備えていなければならない。<br />誰が勝っても初チャンピオン。この歴史的な瞬間は間もなく訪れる。3年振りの鈴鹿／日本GP直前となる今回の<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya" target="_blank"><font color="#ff00ff">スクイチ</font></a>は近代F1に於ける、残り3戦からのチャンピオン決定劇を振り返ってみる。</p>
<p>この10年間の内、&#8217;01／&#8217;02／&#8217;04年は、残り3戦の時点で既にドライバーズ・タイトルが決していた。いずれもフェラーリのミハエル・シューマッハーの仕事である。&#8217;01年は全17戦中13戦目、&#8217;04年は全18戦中14戦目で共に残り4戦時、&#8217;02年に至っては全17戦中第11戦／残り6戦の時点で早々とタイトルを決定。ちなみに勝利数は&#8217;01年が17戦9勝、&#8217;02年17戦11勝、&#8217;04年は18戦13勝&#8230;..つまり圧勝。しかしながら、ほぼ皆さんお気づきのこととは思うが&#8217;02年／&#8217;04年はチーム・メイトでありセカンド・ドライバーのバリチェロをランキング2位に従えてのタイトル獲得であり（&#8217;01年はバリチェロ3位／2位はマクラーレン・メルセデスのデビッド・クルサード）、フェラーリに於ける&#8221;シューマッハー帝国のルール&#8221;により現実的にシューマッハーのタイトル獲得にアシスト役はいてもライバルは存在していなかった、と言える。&#8217;04年はランキング3位が未勝利のバトン（<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_95.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">BAR・ホンダ</font></a>）であり、フェラーリはバリチェロの2勝と合わせ18戦中15勝、モナコ／ベルギー／ブラジルの3戦以外は全てフェラーリが穫ったシーズンだった。&#8217;00年代に於ける皇帝・シューマッハーの&#8221;勝ち方&#8221;は、それこそチーム・オーダー事件でF1グランプリのルールが根本的に問われるほど圧倒的なものだった。しかし、この3シーズンを除いては、以外に残り3戦の時点ではまだ勝負の行方が解らない接戦状態が多かったことに気づく。この10年間の内、シューマッハーの圧勝に終わった3年間以外の&#8221;残り3戦&#8221;からの当該ドライバー達の闘い方、そしてタイトルの決し方を振り返ってみよう。</p>
<p><i><b>◆&#8217;08年</b><br />ポイント・リーダー＝ルイス・ハミルトン（マクラーレン・メルセデス）<br />2位＝フェリペ・マッサ（フェラーリ）<br />得点差7点</i></p>
<p>まず記憶に新しい昨年。全17戦で争われたシーズンの残り3戦は、今年と同じくシンガポールGPから日本GP、というタイミング。F1史上初のナイト・レースとなった第15戦シンガポールGPはここスクイチでも取り上げた、例の<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/09/post-10.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルノーを巡るクラッシュ・ゲート事件</font></a>の舞台となり、ダーク・ホースのアロンソがラッキーな勝利を掴む一方で、タイトルを争うフェラーリの若きエース、マッサは<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/05/post-1.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">チームがピット作業で焦り自滅</font></a>、僚友ライコネンもクラッシュで戦線離脱し、ポイント・リーダーのハミルトンは目立った走りこそなかったものの7位フィニッシュで2ポイントを追加。これにより残り3戦でハミルトン84点／マッサ77点／ライコネン57点。ライコネンは3戦連続無得点でほぼタイトル獲得は絶望となり、ハミルトンとマッサにタイトル争いは絞られた。<br />結果的に<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/06/post-5.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">富士スピードウェイ</font></a>での最後の開催となった第16戦日本GP、ライバル意識剥き出しのハミルトンとマッサは5位を争う2周目に接触、ハミルトンはスピンして18番手に後退、マッサはドライブスルー・ペナルティを食らって14番手へと後退。レースは序盤の混乱をくぐり抜けたアロンソが2連勝し、マッサが7位2ポイント追加により79点、ハミルトンは12位無得点で84点のまま、その差は5点となった。ライコネンは3位表彰台により63点で残り2戦での逆転王者の可能性は消えた。<br />第17戦中国GP、予選ポール・ポジションはハミルトン、2位にマッサという直接対決。絶妙なタイヤ・チョイスで序盤からハミルトンがリードを築く。2番手には予選3位のライコネンが続き、マッサは3位だがフェラーリ勢とハミルトンとのギャップは広がるばかり。最終的に既にタイトル争いから脱落しているライコネンがチーム・メイトのマッサに2位を&#8221;譲り&#8221;、シーズン5勝目のハミルトンが94点、2位で8点加算のマッサが87点となり、タイトル決定は最終戦へともつれ込んだ。<br />最終第18戦ブラジルGP、追う立場のマッサが勝っても、7点差を持つハミルトンは5位でフィニッシュすれば1ポイント差で初王者となる楽な展開。必勝態勢のフェラーリ／マッサは地元ブラジルの大観衆に後押しされポール・ポジションから絶妙なスタートで首位を独走。対する余裕のハミルトンは4番手スタートで無理なくポジション・キープ。レース終盤、突然の雨に各車ウェット・タイヤへと交換するが、<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/vol02.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ドライのままチェッカーを目指すギャンブルに出たトヨタのティモ・グロック</font></a>がピット・アウトしたハミルトンの前となり、ハミルトンは5位に後退。このままでもタイトル確定だが、この年史上最年少初優勝を遂げたトロ・ロッソのヴェッテルが濡れた路面でハミルトンをパス、残り2周でハミルトンはタイトル獲得圏外の6位へ後退。マッサはトップでチェッカーを受け、ライバルの結果を待つ。ファイナル・ラップの最終コーナー、強くなった雨にコントロール不能となったグロックをヴェッテルとハミルトンが抜き、結局ハミルトンは5位で辛くも1ポイント差で史上最年少世界王者となった。<br />結果的に、ハミルトンは残り3戦の時点で持っていた7点のリードをほぼ失った。が、2戦で無得点レース1／優勝10点獲得レース1、最終戦で相手が勝っても無理な争いをせずとも堅実なポジションをキープすることでタイトルが転がり込む、という余裕を持って望むことが出来たのも事実である。反対にマッサは鈴鹿での直接対決で無理をして2点止まりとなり、中国ではチーム・メイトの後塵を拝しながら譲られた8点でハミルトンの2戦合計得点に届かず、完全に追う者の焦りで自滅。開き直った最終戦は素晴らしいレースを展開したが、既に余裕を持っていたライバルに対して出来ることはもう残されていなかった。シーズンを通してハミルトン／マッサの直接的な接触事故も多く、ドライバー管理に長けたマクラーレンと、皇帝・シューマッハーを失った新生フェラーリの焦りが良く現れたタイトル決戦だった。</p>
<p><i><b>◆&#8217;07年</b><br />ポイント・リーダー＝ルイス・ハミルトン（マクラーレン・メルセデス）<br />2位＝フェルナンド・アロンソ（マクラーレン・メルセデス）<br />得点差2点</i></p>
<p>三つ巴のタイトル争いとなった&#8217;07年は第14戦ベルギーGP終了時点で、デビュー1年目のハミルトン97点、チーム・メイトで2度のタイトル経験者アロンソが95点、フェラーリのライコネンが84点。ランキング4位のマッサを含め、帝国フェラーリvs復活のマクラーレン、の図式となっていた。しかしマクラーレンは王者アロンソと新人ハミルトンを例によってジョイントNo.1とし、公平にタイトルを争わせる姿勢を取り続けていた。しかしそれは仇となり、第11戦ハンガリーではチーム内の扱いに不満のアロンソがハミルトンの予選アタックを妨害、ロン・デニスの秘蔵っ子ハミルトンと、ルノーから移籍のアロンソとの間には取り返しのつかない緊張感が漂っていた。<br />残り3戦第1ラウンド、鈴鹿に代わって改装後初開催となる富士スピードウェイでの日本GPはポール・ポジションにハミルトン、以下2位アロンソ／3位ライコネン／4位マッサというランキング通りの順位。決勝は大雨の中、アロンソが41周目にスピンしてリタイアし、痛いノー・ポイント。勝ったハミルトンは10点を加算し、ライコネンは3位で6点獲得。残り2戦でハミルトン107点／アロンソ95点／ライコネン90点、脅威の新人ハミルトンが圧倒的有利な状況となった。<br />第16戦中国GPは波に乗るハミルトンが予選を制し、以下ライコネン／マッサ、不利になったアロンソは4番手スタート。ウェット・スタートとなった決勝レースはハミルトンが順当に首位をキープ、しかしレース中盤に雨が降ったり止んだりを繰り返し、ハミルトンはトップの座をライコネンに明け渡す。アロンソはマッサを抜いて3位に上がり、眼の前のハミルトンを猛追。焦ったハミルトンは31周目にピット・レーン入り口でグラベルにはまり、そのままリタイア。レースはライコネンが制し、アロンソは2位。これでポイント差はハミルトン107点／アロンソ103点／ライコネン100点となり、それでも最終戦アロンソ勝利／自身2位でデビュー・イヤー・チャンピオンとなるハミルトンの優位は覆らないと思われていた。<br />最終第17戦ブラジルGP、地元マッサが予選を制し、以下ハミルトン／ライコネン／アロンソ。オープニング・ラップでハミルトンはアロンソと接触してコース・アウト、順位を8位へ落とす。レースはマッサが引っ張り、ライコネンが追う展開。ハミルトンはギア・トラブルでペースが上がらず、ポイント圏外へ。フェラーリ勢を追撃すべきアロンソは逆にBMWザウバーのロベルト・クビサのプッシュに合い、3番手キープに必死。レース終盤、51周目に首位マッサのピット・イン後にライコネンが猛チャージ、3周後にライコネンがピットを出るとマッサの前で遂にトップへ。アロンソは2位、ハミルトンは5位以上でなければライコネンが逆転王座となる展開。しかし僚友マッサの手助けの必要もなくフェラーリ2台がレースを制し、アロンソ3位／ハミルトン7位でレースは終了、予想を大きく裏切るライコネンの逆転王座獲得となった。<br />残り3戦時点でランキング3位のライコネンが劇的なタイトル獲得を達成した裏には、マクラーレンのチーム内不和が大きく影響した。結果的にアロンソはこの年限りでマクラーレンを離脱し、翌年古巣ルノーへと復帰。チーム内で立場を確立出来なかった元王者と、チームの育成プログラムを経て鳴り物入りでデビューした脅威の新人とを巡る溝は深く、最後はフェラーリのチーム・プレイの前に屈した。ハミルトン／アロンソが互いに1戦ずつ無得点レースを出したこの3戦で、絶対的に不利だった筈のライコネンは2連勝＋3位という&#8221;強さ&#8221;を見せたのである。</p>
<p><i><b>◆&#8217;06年</b><br />ポイント・リーダー＝フェルナンド・アロンソ（ルノー）<br />2位＝ミハエル・シューマッハー（フェラーリ）<br />得点差2点</i></p>
<p>第15戦イタリアGP終了時、アロンソ108点／シューマッハー106点。互いに6勝ずつをマークし、完全に互いのチーム・メイト（フェラーリ／マッサ、ルノー／ジャンカルロ・フィジケラ）を引き離しての直接対決。シューマッハーはここで&#8217;06年限りでの引退を発表。しかし初勝利を得たばかりのフェラーリ1年目のマッサの成長は著しく、終盤でシューマッハーのサポート役としての活躍が期待されていた。残り3戦、ほぼ互角のまま両者は決戦になだれ込む。<br />第16戦中国GP、ルノー勢がフロント・ロウを独占し、シューマッハーは3列目スタート。ウェット・コンディションのレースはルノーの1-2で幕を明け、シューマッハーは巧みなドライビングで中盤に3番手へ浮上。ペースの上がらないアロンソは一旦チーム・メイトのフィジケラに首位を明け渡すが、直後にシューマッハーにも抜かれ3位に後退。コンディション変化に上手く対応したシューマッハーが41周目に首位に立ち、再び降って来た雨の中アロンソの猛追をかわして優勝。両者116点で同点となるが、勝利数でひとつ上回るシューマッハーが逆転トップ。<br />第17戦日本GPは&#8221;鈴鹿最後の開催&#8221;。マッサ／シューマッハーのフェラーリ勢がフロント・ロウ、アロンソは5番手と、丁度前戦中国GPの逆のようなグリッド状況となる。レースはシューマッハーがスタートから独走、しかし37周目に突然のエンジン・ブロウでストップ／リタイア。ライバルの脱落でプレッシャーから解き放たれたアロンソがなんなく優勝し、最終戦での勝利＋アロンソ無得点以外にタイトルの可能性がなくなったシューマッハーの王座獲得は事実上難しくなった。<br />最終第18戦ブラジルGP、これが引退レースとなるシューマッハーは予選から不調で10番手、アロンソは4番手スタート。地元で初のポール・ポジションを獲得したマッサはいつでもシューマッハーに先頭を譲るつもりで首位を守るが、肝心のシューマッハーが他車との激しいバトルでタイヤを痛め、一時は最後尾まで後退。しかしここから鬼神の追い上げを見せ、最終的には4位フィニッシュ。無理に首位マッサを追わず、クレバーに走ったアロンソが13ポイント差をつけて2年連続のチャンピオンとなり、熾烈だったコンストラクターズ・タイトル争いもルノーのものとなった。<br />現役引退を決めた7度の王者・シューマッハーの強さは残り3戦時の中国GPでも相変わらずだったが、その後のラスト2戦でのマシン・トラブルが致命的だった。その間アロンソは2位→優勝→2位と効率良くポイントを稼ぎ、新たな時代の王者として強さを見せた。</p>
<p><i><b>◆&#8217;05年</b><br />ポイント・リーダー＝フェルナンド・アロンソ（ルノー）<br />2位＝キミ・ライコネン（マクラーレン・メルセデス）<br />得点差25点</i></p>
<p>3戦を残した第16戦ベルギーGPで勝利したランキング2位のライコネンは86点、2位でフィニッシュしたルノーの若きエース・アロンソは既に111点となり、もはやアロンソの初タイトル獲得は時間の問題だった。そしてそれは翌第17戦ブラジルGPで現実のものとなった。既に数字上余裕のアロンソがポール・ポジションを獲得。既に自力チャンピオンの可能性の消えたマクラーレン側に失うものはなく、序盤からライコネン／ファン・パブロ・モントーヤ共にアグレシッヴなレースを見せ、モントーヤ／ライコネンの1-2でレースを展開。しかしアロンソはこれを無理に追わず、3位フィニッシュ。2戦を残して23点差でライコネンを下し、史上最年少王者（当時）に輝く。ちなみに第18戦鈴鹿はライコネン優勝／アロンソ3位、最終第19戦中国GPはアロンソ優勝／ライコネン2位という接戦で、最終的なポイントはアロンソ133点／ライコネン112点。共に年間7勝／6ポール・ポジション。しかしラップ・リード周回数と最速ラップ回数はライコネンが上回るものの、トップ走行中のファイナル・ラップでのリタイアなどの不運が響き、シーズンを通して完走率／入賞率でアロンソに敵わなかったのが敗因と言える。</p>
<p><i><b>◆&#8217;03年</b><br />ポイント・リーダー＝ミハエル・シューマッハー（フェラーリ）<br />2位＝ファン・パブロ・モントーヤ（ウィリアムズ・BMW）<br />得点差1点</i></p>
<p>シューマッハー72点、モントーヤ71点、ライコネン70点。第13戦ハンガリーGPを終えて僅か1ポイント差の首位争いは完全に予想出来なくなっていた。ディフェンディング・チャンピオンであるシューマッハーが、第8戦カナダでの今季4勝目以降5戦連続で未勝利に苦しむ間、実弟であるラルフ・シューマッハーとファン・パブロ・モントーヤのウィリアムズ・コンビが急成長。2勝のモントーヤが着実にポイントを稼ぎ、気づけば1勝のライコネン（マクラーレN・メルセデス）を抜いて真後に迫っていた。<br />残り3戦、第14戦イタリアGP／フェラーリの地元モンツァで無様なレースは見せられない。フロント・ロウに並んだシューマッハーとモントーヤの闘いはオープニング・ラップから白熱し、地元の意地を見せるシューマッハーがどうにかモントーヤを振り切って5戦振りの勝利。2位モントーヤとのポイント差を3点とし、どうにかランキング首位を死守。<br />続く第15戦アメリカGP／インディアナポリスではランキング3位のライコネンがポール・ポジションを獲得、モントーヤは4位、シューマッハーは7位。レースは序盤から降り出した雨が強くなった中盤、ミシュラン勢に対し明らかにウェット・タイヤでのアドバンテージを持つブリヂストンを履くシューマッハーが11番手からトップへ。結局シューマッハーがライコネンを従えてフィニッシュ、モントーヤは6位に終わり、最終戦を残してシューマッハー92点／ライコネン83点／モントーヤ82点となり、モントーヤはここでタイトル争いから脱落。しかしライコネンも自身の勝利＋シューマッハー無得点がタイトル獲得の条件となり、シューマッハーのタイトルはほぼ間違いない。<br />最終第16戦鈴鹿。必勝体制のライコネンはフリー走行のクラッシュが影響して無念の予選8位、だが1点穫るかライコネンが勝たなければタイトルの決まるシューマッハーも14位と低迷。レースはシューマッハーが5周目にBAR・ホンダからスポット参戦の佐藤琢磨に追突し、フロント・ウィング破損で最後尾へと転落。しかしライコネンもトップを快走するシューマッハーのチーム・メイトであるバリチェロを追いきれず、無念の2位フィニッシュ。シューマッハー自身もどうにか8位入賞し、93点vs91点の2点差でタイトルを防衛した。<br />シーズン中盤の苦しみはあったものの、まだまだ若手にはシューマッハーを脅かすドライバーは不在なことを実感したシーズンだった。ライコネン1勝／モントーヤ2勝は結果的にシューマッハーの6勝に遠く及ばず、最後の3戦で2勝し、最終戦で必要最低限の1ポイント獲得は、6度目の王者らしい集中力を発揮したと言える。</p>
<p><i><b>◆&#8217;00年</b><br />ポイント・リーダー＝ミカ・ハッキネン（マクラーレン・メルセデス）<br />2位＝ミハエル・シューマッハー（フェラーリ）<br />得点差2点</i></p>
<p>第14戦イタリアGP、シューマッハーは故・<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_21.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アイルトン・セナ</font></a>に並ぶ通算41勝目をあげ、記者会見中に感極まって涙し、それを選手権上のライバルであるかつてのセナのチーム・メイト、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_52.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミカ・ハッキネン</font></a>が慰めていた。シューマッハーはこの勝利でランキング首位のハッキネンに2点差と迫り、2年連続で逃したフェラーリでのタイトル獲得を目指す。ディフェンディング・チャンピオンのハッキネンはシーズン序盤のフェラーリの躍進に圧されていたが、シーズン後半に強さを取り戻し、ハッキネン80点／シューマッハー／78点での直接対決となった。<br />第15戦はF1初のインディアナポリスに於けるアメリカGP。シューマッハーがシーズン7回目のポール・ポジション、ハッキネンは僚友クルサードに続く3番手スタート。レースはシューマッハーが終始独走、クルサードはフライングによるペナルティで後退、ハッキネンは26周目にエンジン・ブロウでリタイア／ノー・ポイント。フェラーリはバリチェロの2位で1-2フィニッシュとなり、宿敵マクラーレン勢に大きく差をつけて選手権をリードした。ドライバーズ・タイトル争いは8点差となり、残り2戦でいよいよシューマッハーが王手。<br />第16戦鈴鹿、予選からふたりのポール・ポジション争いは白熱し、互いにトップ・タイムを塗り替え合う展開。最終的にシューマッハーが穫り、決勝はスタートで出し抜いたハッキネンがリード、全く気の抜けないドッグ・ファイトが続き、レース中盤に落ちて来た雨を的確に捉えたシューマッハーがピット・ストップでハッキネンを逆転、そのままフィニッシュしてフェラーリでの初王座が決定。<br />最終第16戦中国でもシューマッハーが連勝し、フェラーリはダブル・タイトル獲得。最終的にシューマッハー108点／ハッキネン89点と、ほぼ2勝分の差がついた。終わってみればシューマッハー9勝／ハッキネン4勝、クルサードの3勝／バリチェロの1勝、という側面で考えれば、シューマッハーが勝てるレースをしっかりと勝ち、対するマクラーレンはチーム・メイト同士にも争いがあったことが星を分け合う結果となり、マクラーレン／フェラーリの戦略の違いが結果に表れたシーズンとなった。</p>
<p><i><b>◆&#8217;99年</b><br />ポイント・リーダー＝ミカ・ハッキネン（マクラーレン・メルセデス）<br />2位＝エディ・アーバイン（フェラーリ）<br />得点差0点</i></p>
<p>第8戦イギリスでシューマッハーが骨折し長期離脱となった&#8217;99年シーズンは、ディフェンディング・チャンピオンのハッキネンが自身のミスで第13戦イタリアを落とし、急遽フェラーリを背負って立つこととなったセカンド・ドライバー、エディ・アーバインに60ポイントで並ばれてしまった（勝利数はハッキネンが上）。しかもレースに勝ったハインツ・ハラルト・フレンツェン（ジョーダン・<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_27.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">無限</font></a>）が50点、ハッキネンの僚友クルサードが48点、ランキング上位4人が12点差以内という混迷のシーズンとなっていた。<br />第14戦ニュルブルクリンクでのヨーロッパGPはポール・ポジションにフレンツェン、2位クルサード、3位ハッキネン。アーバインは9位に沈み、雨で混乱するレースではトップ・ドライバーが次々に脱落、クレバーに走ったダーク・ホースのスチュワート・フォード／<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_58.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジョニー・ハーバート</font></a>が勝利し、選手権上位4人ではハッキネンが5位2ポイントを加算するも他は全員無得点。残り2戦ではまだ4人全員にタイトル獲得のチャンスが残された。<br />第15戦マレーシアGPで長期離脱していたシューマッハーが復帰、無念の&#8221;アーバインのタイトル獲得アシスト役&#8221;へと回り、見事なレース展開でハッキネンを抑え、アーバインを勝たせて自身は2位。しかし<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/06/ff.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">FIA</font></a>はフェラーリのディフレクターが寸法違反だとしてリザルトを取り消し、失格による繰り上がりで優勝のハッキネンは一旦暫定チャンピオンとなるが、フェラーリはこの裁定に抗議し、最終的に無罪が確定、アーバイン70点／ハッキネン66点で決着は最終戦へ。<br />第16戦鈴鹿はシューマッハーがポール・ポジション／ハッキネンが2位、タイトル・プレッシャーに押しつぶされそうなアーバインは5番手に沈む。しかしハッキネンが逆転王座を獲得するには優勝か、自身2位／アーバイン5位以下、自身3位／アーバイン無得点が必須条件。スターティング・グリッドは何の安心も齎さない。決勝レース、ハッキネンは絶妙なスタートでシューマッハーを抜いてトップへ。抜かれたシューマッハーに前戦のような勢いはない。アーバインは前走車の離脱で3番手まで上がるが、既にハッキネンを追える位置にはおらず、そのままハッキネン／シューマッハー／アーバインの順位でフィニッシュ、コンストラクターズ・タイトルはフェラーリが手にしたが、ドライバーズ・タイトルはハッキネンが2点差で2年連続王座。骨折でシナリオが崩れたシューマッハーの&#8221;思惑通り&#8221;とも言われるレースだった。<br /></font></p>
<hr>
<p><font color="#3e6b3a"><br />&#8230;..こうして過去10年間を振り返った際、シューマッハー独走の3年間以外は残り3戦の時点で意外に接戦だったことが解る。大きく点差が開いていたのは&#8217;05年のアロンソ／ライコネン（25点差）だけで、あとは昨年のハミルトン／マッサが7点差、それ以外の5戦は2点差以内の接戦のままシーズン終盤を迎えている。そしてその5戦で残り3戦時点でのポイント・リーダーが王座を獲得したケースが4回、唯一逆転王座となったのは&#8217;00年のシューマッハー／ハッキネンだけで、この年シューマッハーは終盤4戦を4連勝で40点、対するハッキネンは15点しか穫れなかった。<br />ランキング3位のライコネンが13点差を跳ね返して逆転王座についた&#8217;07年は、上位2名のマクラーレン勢がチーム・メイト同士で&#8221;潰し合う&#8221;シーズンを象徴し、反対に可能性の低さからさほどのプレッシャーのなかったライコネンが攻めに攻めて3戦2勝2位1回で大逆転。そこには2度の王者と超大型新人によるプライドの激突と、それをコントロールしきれなかったマクラーレンというチームの&#8221;伝統&#8221;が存在する。</p>
<p>そして今年。バトン84点／バリチェロ69点、その差15点での残り3戦はいずれのケースにも当てはまらない。何故なら、シューマッハー帝国時代も最終的にセカンド・ドライバーが絶対的エースであるシューマッハーを追撃することは有り得なかったからである。が、今年のタイトル争いにはシューマッハー帝国時代のフェラーリと共通する事柄が存在する。<br />&#8230;..上位2名のドライバーを走らせているチーム・ボスはシューマッハー帝国の参謀だったロス・ブラウンその人であり、ランキング2位のドライバーはまたしてもバリチェロ、という事実である。</p>
<p>ブラウンGPはシーズン序盤に絶対的なリードを築き、中盤にマシン・パッケージに於ける冒険を試み、レッド・ブル勢の台頭を見届けた上でタイトル決戦に向けて信頼性の高いパッケージングへと戻し、後半戦に突入した。言わば、ブラウン自身にとっては&#8221;余裕の展開&#8221;なのである。当然<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/09/post-11.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">エンジンの残り数</font></a>などの要素も含め、最後は自身のチーム・メイト同士の決戦となることは予想していた筈である。シーズン序盤、バリチェロは作戦面でチームがバトンを優遇していると不満を訴えていた。これは&#8217;02年の選手権でチーム・オーダーが問題となった際に酷似している。しかも当事者2名は同じであり、実際ブラウン自身が公の場でいくら公平な闘いを公言しようとも、2名のドライバーとチームをコントロール下に置いて選手権を制覇するのはブラウンの真骨頂である。事実、この終盤に来てチームは来季ベテランのバリチェロとの契約を更新せず、ウィリアムズから<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/08/post-7.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ニコ・ロズベルグ</font></a>を迎え、ブラウンGPはメルセデス・ベンツのワークス扱いとして参戦するのではという噂が流れ始めた。バリチェロ自身も来季の契約話が進んでいないことを認め、反対にバトンには来季の大幅な年棒増加の話し合いをチームと行っているとの噂が流れた。これは明らかに来季カー・ナンバー1をつけて走るためにバトンのタイトル獲得が必須なことが伺え、且つ当該ドライバーの耳にも届くことを充分理解した上での&#8221;心理戦&#8221;とも言える。<br />しかし、冷静沈着で非情なボスであるブラウンが、マネジメント・バイアウトで手にした自身のチームをF1史に残る&#8221;参戦初年度Wタイトル獲得&#8221;という形でスタートさせるためのシナリオを考えれば、少なくとも&#8217;07年のマクラーレンのようにチーム・メイト同士が星の奪い合いを行い、3番手のライバル（&#8217;07年のライコネン／今年のヴェッテル）に横からタイトルを横取りされてしまう危険性があることを知っている筈である。となれば方法はひとつ、来季の契約を巡る心理戦で窮地に立たされているバリチェロをコントロールするのではなく、チームそのものをコントロールし、バトンに安全にタイトルを獲得させる。それがブラウンがフェラーリ時代に培った戦略と、今シーズン序盤で&#8221;試した&#8221;ブラウンGP式タイトル獲得術に他ならない。ただ、このまま順当に進めばポイントで有利なバトンのタイトル獲得は必至であり、表立ったバトルなく自然に決定することも充分に有り得る。元ホンダ組とは言え、かのブラウンが選んだドライバー布陣である。恐らくチェスの駒のように、最初の一手から勝利の瞬間まで、ブラウン自身の中では既に全てが計算し尽くされている筈だ。</p>
<p>&#8230;..そして、F1カレンダー上の妙ではあるが、シーズン終盤／秋にプログラミングされる鈴鹿の日本GPは常にタイトル争いに絡む最終3戦内にあり、&#8217;99年／&#8217;00年／&#8217;03年の3度、鈴鹿でチャンピオンが決定している。ブラウンの戦略ゲームに於ける鈴鹿がどんな役割なのかは解らないが、鈴鹿はまたしても選手権上の非常に重要な役割を担う。多くの王者誕生の瞬間を魅せて来た聖地・鈴鹿の日本GPを、歴史の証人となるべく今年も見届けたい。</p>
<p></font><i><font color="#3e6b3a">「私が彼らに望むのはフェアでオープンな闘いだ。お互いにそれが出来るキャリアなのだから」&#8217;09年／ロス・ブラウン</font></i></p><p>The post <a href="https://f1-stinger2.com/kasetatsuya/%e3%83%96%e3%83%a9%e3%82%a6%e3%83%b3%e3%81%ae%e6%88%a6%e7%95%a5%e3%82%b2%e3%83%bc%e3%83%a0/">ブラウンの戦略ゲーム</a> first appeared on <a href="https://f1-stinger2.com">F1 STINGER 【スティンガー】</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
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		<title>復活直前！バドエルって誰だ！？</title>
		<link>https://f1-stinger2.com/kasetatsuya/46858/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[f1-stinger2248]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 21 Aug 2009 06:20:54 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<br />
<b>Warning</b>:  Attempt to read property "ID" on string in <b>/home/c8663320/public_html/f1-stinger2.com/wp-content/themes/f1_stinger/functions.php</b> on line <b>282</b><br />
<p>まず、ハンガロリンクで不慮の事故に遇ったフェリペ・マッサの無事帰還を神に感謝しよう。まだ左目の視力が元通りではないとのことだけど、おでこの傷も目立たなくなり、自宅で元気にインタビューに答えるフェリペの姿を観てとにかく安心・・・</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">まず、ハンガロリンクで<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/forza-felipe-siamo-con-te.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">不慮の事故に遇ったフェリペ・マッサ</font></a>の無事帰還を神に感謝しよう。まだ左目の視力が元通りではないとのことだけど、おでこの傷も目立たなくなり、自宅で元気にインタビューに答えるフェリペの姿を観てとにかく安心した。フェラーリのカー・ナンバー3のシートに早く戻りたくて仕方がないのは解るけど、今はじっと我慢して、完治したらまたあのアグレッシヴな走りでオーディエンスを熱狂させてくれ。君の留守中は、かの皇帝・<a href="http://www.f1-stinger.com/news/2009/07/post-375.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミハエル・シューマッハー様が代わりにカー・ナンバー3のマシンを操ってくれる</font></a>そうだから、何も心配はいらないよ。さ、じゃあ一緒にヴァレンシアのヨーロッパGPをTV観戦して、シューマッハーの復活振りを拝見しようじゃないか&#8230;..え？</p>
<p></font><font color="#3e6b3a" size="+2">シューマッハー出ない！？</font><font color="#3e6b3a"></p>
<p>なんだなんだ、本人も周りもアレ程意気込んでたのに&#8230;..首が痛い？、ああ、そう言えばバイクで派手にコケたんだっけ&#8230;..。で？、やる気はあるけど今回は見送り&#8230;..ナルホド、それじゃ仕方がない。でも、1ヶ月のサマー・バケーションを挟んだとは言えヨーロッパGPはもう眼の前。フェラーリはどうするんだ？、まさかライコネンの1カー・エントリーでもなかろうし、かと言ってシューマッハーの代わりになるようなドライバーで今ヒマな人（爆）なんていないし&#8230;..。あ、フェラーリ・エンジン搭載のトロ・ロッソ・チームから昇格か！。でもブルデーはクビになっちゃったし、ブエミはルーキーだし、アルグエルスアリまだ2戦目だし&#8230;..じゃあ、限りなく現役に近い浪人ドライバー！。ピケJrじゃ弱いか。なら琢磨もいるぞ！。それからクルサード／クリエン／ブルツ／デ・ラ・ロサあたりはいつでもイケるんじゃないかな。違う？&#8230;..困ったな、あとフェラーリで走れるヤツもういないモンな&#8230;..。あ、いたいた！。ロッシか！（&#8230;..）。</p>
<p>ああ、書いててツラくなって来た（爆）。<br />8月11日、フェラーリは首の痛みを訴えるシューマッハーを負傷したマッサの代役として起用することを<a href="http://www.f1-stinger.com/news/2009/08/f1-33.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">断念</font></a>し、テスト／リザーブ・ドライバーのルカ・バドエルをヨーロッパGPに出走させることを発表した。フェラーリ社長ルカ・モンテツェモーロは「ミハエルが出られなくて残念。F1にとってこれは歓迎すべきことだったし、我々はそのために如何なる努力も惜しまなかった」とシューマッハー復帰を断念したことを悔やみ、急遽代役となるバドエルに対しては「長年チームのために尽くして来てくれたバドエルに出走の機会を与えることにした」とその理由を語った。&#8230;..まるで「ミハエルがダメならもう誰でもいいから、記念に走らせてやれば」という意味合いにも取れてしまう発言である。</p>
<p>&#8230;..昨年、最終戦までマクラーレン・メルセデスのルイス・ハミルトンとドライバーズ・タイトルを争い、僅か1ポイント差で敗れたフェラーリのエース、マッサ。そして、そのマッサの負傷により、再びスクーデリアから白羽の矢が立った前人未到の7thチャンピオン、皇帝シューマッハー。そのふたりの更に代役として選ばれた男、ルカ・バドエル&#8230;..。<a href="http://ameblo.jp/momozonotamaki/" target="_blank"><font color="#ff00ff">ウチのマネージャー</font></a>が言った。<br />「誰ソレ？」<br />&#8230;..そりゃ、あまりにも寂しいじゃないか。でも、良く考えたらTV中継だけでF1グランプリを観ていても当然ながら出番はなく、たま〜にフェラーリのピットにいるのを見かけるけど、コメンタリーが「お、テスト・ドライバーのバドエルですね〜」とか言うワケでもなく、特に今年はテスト制限のおかげでシーズン中に彼らテスト／リザーブ・ドライバーがサーキットを走る機会もないので、特に若いファンがバドエルを知らないのも無理はない。何しろ、バドエルが最後にレース・ドライバーとして仕事をしたのはもう10年も前のことなのだ。その間、各チームのドライバー市場リストに載ることも、自らレースが出来るチームへの移籍を模索したこともなかった彼を知るのは確かに難しい。ついでに、フェラーリのもうひとりのテスト・ドライバー、マルク・ジェネの方は&#8217;04年までレースに出走していたので、通常ならこっちを使うだろうと言う周囲の予想も完全に覆した結果。と言うか、実は今回のバドエル起用には誰もが驚くフェラーリの&#8221;前科&#8221;があり、そのためあまりにも意外な結果と受け止められてしまっているのである。<br />ではまず、肝心のルカ・バドエルをご紹介。マネージャーPも、良く読むように！。</p>
<p>ルカ・バドエルは1971年1月25日、イタリア／トレヴィーゾにて誕生。多くのイタリアの少年同様、サッカー選手とフェラーリのレーサーを夢見る少年時代を過ごし、後者を自らの道と選びカート・レーサーとしてのキャリアをスタート。&#8217;85年、14歳の時にイタリア・カート選手権を制覇。&#8217;89年にはイタリアF3にステップ・アップし、2年目の翌&#8217;90年に初勝利。&#8217;92年にはクリプトンから国際F3000選手権へ出場し、ポール・ポジション5回／4勝を挙げて史上最年少王者となった。翌&#8217;93年、将来を期待されたイタリアの新星は遂にハイテク全盛期のF1へと足を踏み入れる。が、チームはそのハイテクから最も遅れを取ったイタリアの弱小チーム、スクーデリア・イタリアだった。<br />F1の歴史に於いて、フェラーリの聖地であるイタリアからはしばしばフェラーリに憧れた小さなチームがチャレンジを行って来た。ミナルディやライフと並び、&#8217;88年にF1に参戦したスクーデリア・イタリアもまたそんなフェラーリ・フォロワーによるチームだった。特に彼らのマシンはフェラーリと同じイタリアン・レッドに塗られ、コース上ではまるでフェラーリと見間違うほどのルックスを擁していた。元々ダラーラのシャシーにコスワース・エンジンを搭載して闘っていた彼らは、&#8217;90年代に本家フェラーリのワークス・V12エンジンの供給を受け、&#8217;93年にはエース・ドライバーに元フェラーリの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_74.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミケーレ・アルボレート</font></a>を起用。シャシーもフランスのラルースが使用して戦闘力を発揮したローラへと変更し、イタリア期待の新星であるバドエルをセカンド・ドライバーに据えた。<br />が、結果は散々であった。予選最高位21位、決勝最高位7位（完走9台中）。エース・アルボレートをして5度の予選落ちを喫し、フェラーリからのエンジン供給の打ち切りも決まり、チームは最終戦を待たずして崩壊。翌年のミナルディとの合併を決め、第14戦ポルトガルGPを最後にグリッドから姿を消してしまった。しかし、この弱小チームに於いてバドエルは時折タイトル争い経験を持つアルボレートを上回る走りを見せ、予選では8勝6敗。第4戦サンマリノGPでは入賞まであと1歩の7位フィニッシュ。チーム体制さえ整えばしっかりと結果を出せる才能を見せつけた。<br />&#8217;94年、合併によって&#8221;ミナルディ・スクーデリア・イタリア&#8221;となったチームにはミナルデイのエース、ピエルルイジ・マルティニとスクーデリア・イタリアのエース、アルボレートが起用され、バドエルはテスト／リザーブ・ドライバーとなった。翌&#8217;95年、アルボレートの引退で再びバドエルの出番が来る。開幕直前に<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_27.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">無限エンジン</font></a>との契約問題が拗れ、急遽コスワースへと変更するなどドタバタのスタートを切ったミナルディだったが、それなりの信頼性は見せ、キャリア2年目となるバドエルは第6戦カナダで7位、第10戦ハンガリーで8位と健闘。しかしマルティニの離脱でシーズン途中からチーム・メイトとなったペドロ・ラミーが最終戦オーストラリアで6位入賞し、高い完走率と速さを示したものの結果／評価には恵まれなかった。<br />&#8217;96年、バドエルはミナルディから同じイタリアのフォルティ・チームに&#8221;レンタル移籍&#8221;する。フォルティは元々大富豪のF1ドライバー、ペドロ・ディニスがスポンサーとなって&#8217;95年にF1に参戦したチームだが、ミナルディを凌ぐ戦闘力不足により肝心のディニスが離脱し、2年目のシーズンに於いてもエンジン契約料未払いの問題でフォードから最新型の供給を打ち切られ、予選通過もまま成らない状況。最終的に第10戦イギリスGPを最後にチームが撤退。当然1ポイントも取れなかったが、バドエルはチーム・メイトのアンドレア・モンテルミーニに対し予選で全勝、グリッド上で最も信頼性の低いマシンで2度の完走は特筆に値する。しかし、在籍するチームの体制に恵まれず、バドエルは自らのキャリアを一旦見つめ直す必要性を感じていた。&#8217;97年、バドエルはフェラーリのテスト・ドライバーとなり、裏方とは言えトップ・チームと仕事をすることで次のチャンスを伺った。そして&#8217;99年、フェラーリのテスト・ドライバーとしてマシン開発を行っていたバドエルは、そのフェラーリの支援により再びミナルディからレース・シートに復帰する。</p>
<p>&#8217;99年第8戦イギリスGP。<br />フェラーリのエース、シューマッハーはタイトルを争う<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_52.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミカ・ハッキネン</font></a>（マクラーレン・メルセデス）とフロント・ローに並んだ。スタートでシューマッハーは出遅れ、チーム・メイトのエディ・アーバインにも先を越されて4位へ後退。しかし2台のマシンがグリッド上に取り残されたため、レースは赤旗中断。ところがシューマッハーはアクセルを緩めずアーバインとのバトルに夢中、チームからも無線による指示はなく、シューマッハーはそのままストウ・コーナーのタイヤ・バリアへと突っ込んだ。<br />&#8220;右足脛骨と腓骨骨折&#8221;&#8230;..シューマッハーはこのクラッシュで最終的に3ヶ月間の戦線離脱を強いられ、フェラーリはタイトル争いに於いて致命的な事態と直面することになってしまった。<br />一方、バドエルはこの年デビューのスペイン人ドライバー、マルク・ジェネとコンビを組み、フォンドメタルのバックアップを受けるミナルディから2年振りのフル参戦を果たしていた。同時に、自らのキャリアに於いて、正念場となるシーズンであることは明らかだった。相変わらずチーム・メイトと最後尾を争う状況ではあったが、ポイント獲得には至らなかったものの、攻めの走りで何度かトップ10フィニッシュを果たしていた。そしてシーズン中盤、シューマッハーの事故。フェラーリはセカンド・ドライバーであるアーバインをハッキネンと闘わせることを余儀なくされ、負傷欠場／長期離脱決定のシューマッハーのシートにはアーバインをサポート出来るドライバーが必要となった。そしてバドエル自身、いや世界中が、その役目はフェラーリのテスト／リザーブ・ドライバーとして今季のマシンの開発を担当し、他の誰よりも適応すると思われるバドエルが務めることになると思っていた。</p>
<p>フェラーリは第9戦オーストリアGP以降、シューマッハーの代役としてフィンランド人ドライバーであるミカ・サロの起用を発表した。</p>
<p>この決定には世界中が驚いた。何故なら、現状フェラーリの契約下にあり、且つ現役でコース上で闘っているテスト・ドライバー以上の適任者の存在など、誰も考えもしなかったからだ。が、フェラーリはF1浪人中のサロを抜擢したのである。<br />サロは前年アロウズとの契約を打ち切り、&#8217;99年は負傷欠場したリカルド・ゾンタに代わって<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_95.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">BAR・スーパーテック</font></a>から第3戦サンマリノ／第4戦モナコ／第5戦スペインの3戦に代打エントリーし、それ以後も独占契約を持たないフリーの1年間を過ごしていた。言わば浪人中の身である。ただ、このフェラーリの人選には深い理由があった。サロは、同郷で現在フェラーリが闘う直接のライバル、ハッキネンの&#8221;天敵&#8221;だったのである。<br />お互い歳も近く、フィンランド国内のカート時代から常に一緒にステップ・アップし、F3に至るまでサロはハッキネンにとって「コイツさえいなければ」というほど厄介な存在であった。&#8217;90年マカオF3では、最終ラップでシューマッハーと接触してハッキネンはリタイア、表彰台に乗ったのはシューマッハー／アーバイン、そしてサロという面々であった。つまりフェラーリは、&#8217;99年シーズンをこの3人でハッキネンを攻略する、という作戦に出たのである。その賭けはまんまと成功し、最終的にシューマッハーが復帰してアーバインのタイトル獲得には至らなかったが、サロはシーズン後半ハッキネンを苦しめ、結果フェラーリに16年振りのコンストラクターズ・タイトルを齎したのである。</p>
<p>&#8230;..サロの起用に、バドエルは困惑していた。何故自分ではないのか。チーム首脳モンテツェモーロ、ジャン・トッド、そしてロス・ブラウンらは多くを語らなかった。サロが適任だったからなのか、バドエルでは役不足だったのか。いずれにしても、将来的なレース・ドライバーの座を夢見てフェラーリとテスト・ドライバー契約を行ったバドエルの夢はここで打ち砕かれた。フェラーリは、テスト・ドライバーとしてしか自分を評価していない。それを知ったバドエルに出来ることは、例えそれが弱小ミナルディであっても、コース上でしっかりと速さを見せつけることだけだった。</p>
<p>第14戦ヨーロッパGP、ドイツ・ニュルブルクリンク。<br />シューマッハー不在のタイトル争いはハッキネン、アーバイン、そしてデビッド・クルサード（マクラーレン・メルセデス）、ハインツ・ハラルト・フレンツェン（ジョーダン・無限）の4人によって争われていた。決勝当日、雨が降ったり止んだりの不安定なコンディションの中、タイトル争いの主役達が次々と脱落し、荒れたレース展開となった。<br />レース終盤51周目、トップは伏兵・スチュワートの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_58.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジョニー・ハーバート</font></a>。2番手にプロスト・プジョーのヤルノ・トゥルーリが着け、3位はハーバートのチーム・メイトであるルーベンス・バリチェロ。ウィリアムズ・スーパーテックのラルフ・シューマッハーがピット作業に手間取る間に、混乱のレースを上手くくぐり抜けて来たバドエルは4番手に上がった。5位に落ちたラルフの後方にジャック・ビルヌーヴ（BAR・スーパーテック）、その後にはバドエルのチーム・メイト、ジェネがいた。混乱の中、このまま行けばミナルディのW入賞、バドエルにとっては初のポイント獲得となる。更に上位3台もポディウム常連ではなく、もし何かが起これば表彰台のチャンスでもある。サロは既にリタイア、バドエルはようやく訪れたチャンスを何とか結果に結びつけるべく、ステアリングを握りしめていた。そうすることで、自らの存在をアピールし、フェラーリならずとも他チームの眼を自分に向けさせるのが彼の仕事だった。<br />&#8230;..54周目、バドエルのミナルディM01は、白煙を上げながらゆっくりとコース・サイドにストップした。ギア・ボックス・トラブルだった。<br />マシンを降りたバドエルはコックピットに突っ伏し、号泣した。駆け寄って来たコース・マーシャルが「next」と声をかける。バドエルの答は「no next」（次はない）&#8230;..バドエルは自らの立場を知っていた。明らかに、これが最後のチャンスだった。波乱のレースを堅実に走り、戦闘力の劣るマシンで上位入賞&#8230;..その夢は潰えた。それは、バドエルのF1ドライバーとしての未来が潰えたことも意味していた。スタンドからも好走を魅せたバドエルに惜しみない拍手が贈られた。ヘルメットを外した彼の顔は悔し涙でグシャグシャだった。<br />そしてバドエルは決断した。子供の頃からの憧れであるフェラーリに、例えテスト・ドライバーとしてでも在籍出来るのは幸せなことだ。ここでキャリアを全うしよう。それが自分の生きる道なのだ&#8230;..。</p>
<p>&#8230;..ああ、涙出て来た（悲）。<br />そういうワケで、バドエルは&#8217;99年日本GP以降、1度もレースにエントリーしていないので10年振りのF1復帰ということになる。F1ドライバーとしてのルカ・バドエルの戦績は出走56戦（決勝49戦）入賞ゼロ。F1史上、最多出走無得点記録保持者でもある。しかし、その全てがイタリアの弱小チームからだったことを考慮すれば仕方ないような気もするが、この&#8217;99年ヨーロッパGPでチーム・メイトのジェネは結局6位入賞、&#8217;96年もラミーが6位1回を記録しているので、シーズンを通して考えればバドエルの方が印象的な速さを持っていても、何故か結果には結びつかない。逆にフェラーリはそんなバドエルの堅実な完走力を買ったと言え、F1はバドエルに戦闘力を期待しなかった／出来なかったということになる。<br />こうしてバドエルはフェラーリのテスト・ドライバーこそ天職と割り切り、以降現在までその座を守り、その間に彼の開発力はチームに大きく貢献、シューマッハーの5度／ライコネンの1度のドライバーズ・タイトル獲得と、実にこの10年の間に8回のコンストラクターズ選手権制覇という偉業に貢献して来ている、というワケだ。<br />事実、バドエルのフェラーリに対する貢献度、及びスタッフからの信頼は非常に大きい。例えばフェラーリの新車発表会でニュー・マシンのヴェールを剥がす時、フェラーリ主催のイベントでドライバーが一堂に会す時、彼はシューマッハーやマッサ、ライコネンらと共に同じ深紅のレーシング・スーツに身を包み、フェラーリの顔として人前に立って来た。ティフォッシからの人気も高く、&#8217;06年のトリノ・オリンピック開会式ではフェラーリF2005をスピン・ターンさせるパフォーマンスを披露。バドエルなくしてフェラーリなし、とは言い過ぎかも知れないが、それほどまでにフェラーリになくてはならない人物である。何より、その控えめな性格（と言うよりそう思われてしまってる感が強いが）で、誰からも愛される存在なのである。</p>
<p>さて、&#8217;99年のシューマッハー負傷時に現役でありながら呼ばれなかったバドエルに、何故今になって白羽の矢が立ったのか。<br />当時、フェラーリはトッド指揮下の元、ブラウン／ロリー・バーン／シューマッハーというベネトン2連覇（&#8217;94、&#8217;95年）組をそっくりそのまま引き抜き、長き低迷時代に別れを告げるのに必死だった。前年の&#8217;98年は完全にマクラーレン・メルセデスにやられ、新体制4年目の&#8217;99年にようやく戦闘力が整って来た。高額のギャラを支払っているシューマッハーにタイトルを獲らせるため、フェラーリは惜しみない投資を行い、それがようやく形に表れ始めたところだった。第7戦フランスGPを終えてハッキネン40ポイント／シューマッハー32ポイント。コンストラクターズ・ポイントはクルサードが前半振るわず、マクラーレン52ポイント、対するフェラーリはアーバインの開幕戦初優勝で58ポイントとリード。最悪でもコンストラクターズ・タイトルはイケる。15年間無冠のフェラーリには是が非でも欲しいタイトルだった。<br />そして第9戦イギリスGPのシューマッハーの事故で、まずひとつを諦めなくてはならない可能性が浮上。全世界のファン、元よりフェラーリ本体にとっても、例えアーバインがドライバーズ・タイトルを獲得してもどうにも複雑な想いだった筈である。何故なら、マラネロの全てはシューマッハーを中心に回り、チームもシューマッハーの王者獲得のために動いて来たからである。16年振りのWタイトル獲得と&#8221;プライド&#8221;を天秤にかけた時、その答は決まっていた。よって、まずここでフェラーリの目標はコンストラクターズ・タイトル奪取に絞り込まれた筈である。<br />次に、シューマッハーの復帰時期である。右足の脛骨と腓骨を骨折したレーサーが現場復帰するのに一体どれほどの期間を擁するのか、事故直後には誰にも解らなかった。実際シューマッハーは驚異的な回復力を見せ、6戦を欠場して最後の2戦には出場するのだが、シーズンを棒に振ることになるかどうかは誰にも解らなかった。となれば、その場凌ぎの人選ではなく、確実にポイントを穫れる上手いドライバーが必要となる。とは言え当然ながらそんなドライバーは皆トップ・チームに在籍中、つまりライバルであり、残された選択肢はまだ引退時期ではない／でも実戦で即戦力となるドライバー、ということになる。<br />サロはこの年3戦でBARから代打出場し、ポイント獲得こそならなかったもののチーム・メイトで元王者であるビルヌーヴに1歩も引けを取らない走りを見せた。僅か3戦前までこうして走っていたサロが適任だとフェラーリが考えたのは納得の行くところである。皮肉なことにこの活躍によりサロはプール・リーグの目玉となり、翌&#8217;00年の<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_73.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ザウバー</font></a>のシートを獲得した。</p>
<p>ここまではサロが選ばれた理由。では反対に、フェラーリがバドエルを選ばなかった理由を考えてみよう。<br />まず、伝統的にフェラーリはイタリア人ドライバーを避ける傾向にある。これは元々故・エンツォ・フェラーリの「跳ね馬にイタリア人ドライバーが乗れば、ファンやイタリアのマスコミの関心やプレッシャーに押しつぶされてしまう」という方針による。<br />最後にフェラーリのレギュラーとなったイタリア人は&#8217;92年のイヴァン・カペリ。しかしカペリは入賞僅か2回で第14戦ポルトガルを最後にチームから解雇され、終盤2戦は同じイタリア人であるニコラ・ラリーニにそのシートを譲った。ラリーニは&#8217;94年にも負傷した<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_42.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジャン・アレジ</font></a>に代わって2戦に出場し、第3戦サンマリノGPでは2位表彰台に上がっている。<br />フェラーリで最後にタイトルを争ったイタリア人は&#8217;85年のアルボレート。彼はエンツォ自身が生前最後に指名したイタリア人ドライバーだが、最終的にタイトル獲得は成らなかった。<br />全てのイタリア人の憧れであるフェラーリだが、決してイタリア人ドライバーとの良い歴史を作って来たとは言い難く、事実フェラーリを成功に導いた立役者であるシューマッハーはドイツ人、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_80.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アラン・プロスト</font></a>やアレジはフランス人、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_68.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ゲルハルト・ベルガー</font></a>はオーストリア人。伝説のフェラーリ・ドライバー、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_11.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジル・ビルヌーヴ</font></a>はカナダ人である。が、この無情なナショナリズムこそ、近代フェラーリの強さとも言える。悪い言い方をすればイタリア人をあてにせず、フェラーリのためになるのであれば何処の国の人物でもかまわない。従って、ジャンカルロ・フィジケラやヤルノ・トゥルーリらイタリア人ドライバーがいくら活躍を見せても、フェラーリは目もくれないのである。<br />そして今回選ばれたバドエルは38歳。グリッド上で彼より歳上なのはバリチェロ（ブラウンGP・メルセデス）しかいない。しかも10年間のブランクを経ての人選である。もうひとりのテスト・ドライバーであるジェネも実戦から遠のいて久しく、年齢も35歳と決して若くはない。フェラーリにいるリザーブ・ドライバーはこのふたりだけである。ただし、彼らのフェラーリ・キャリアは長い。<br />つまり、フェラーリはテスト／リザーブ・ドライバーをレースに出す気は初めからないのだ。逆の言い方をすれば、多くのチームが行っているような&#8221;新人育成プログラム&#8221;が存在しない。よって、次を狙う若手を育てるという概念がないチームなのである。<br />今年、レッド・ブルはシーズン中にも関わらずトロ・ロッソから<a href="http://www.f1-stinger.com/news/2009/07/post-347.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">セバスチャン・ブルデーを解雇し、ハイメ・アルグエルスアリをデビュー</font></a>させた。アルグエルスアリはレッド・ブルの育成ドライバーである。ルノーも同様にネルソン・ピケJrを放出し、バドエルと同じヨーロッパGPで新人の<a href="http://www.f1-stinger.com/news/2009/08/jr-4.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ローマン・グロージャンをデビュー</font></a>させる。最も解りやすい例として、昨年2年目ながら初の王者に輝いたハミルトンはロン・デニスの秘蔵っ子であり、マクラーレン・グループの息の長いプログラムを経てF1デビューしている。<br />では、フェラーリのテスト・ドライバーふたりが何故長期に渡ってそのポジションを務めているのか。何故新人開発の場に使わないのか。<br />その答は、まずフェラーリには経験値の少ない新人ドライバーが座れるシートなど存在しないこと。フェラーリは&#8221;育てる&#8221;場所ではない。確かな実力と経験値を持ち、即座に戦闘力を発揮してチームに貢献出来る人材しか必要としないのだ。次に、絶対的な秘密保持主義のため。<a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/08/post-7.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">前回紹介したニック・ハイドフェルド</font></a>はメルセデスの育成ドライバーとしてF1デビューしながらもメルセデスに見切られ、同じドイツのライバルであるBMWのワークス・ドライバーとなった。BMWのスタッフは、場合によってはメルセデスの企業秘密をハイドフェルドから聞き出すことが出来るかも知れない。少なくとも、メルセデスの長期的なモーター・レーシング・プログラムを知ることは可能である。場合によっては致命的なアイデアの流出も考えられる。<br />特に&#8217;90年代後半から&#8217;00年代にかけ、フェラーリは複数所有する自社サーキットで<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_117.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">豊富な独自テスト</font></a>を行い、自由にマシン開発を行っていた。部外者及び部外者予備軍と見なされる者は立ち入ることが出来ず、FIA主催の合同テストにはほとんど参加しなかった。つまり、フェラーリのテスト・ドライバーには絶対的な秘密保持が課せられる、ということである。事実、かのアルボレートでさえも、フェラーリ離脱後に他のトップ・チームへの移籍は叶わなかった。</p>
<p>&#8220;忠誠を誓う&#8221;。<br />バドエルはフェラーリにそのキャリアを捧げ、生涯その能力をフェラーリのために使うことを約束したのである。つまりもしもバドエルが他チームへの移籍を模索した場合、そのキャリアには暗雲が立ちこめることとなっただろう。飼い殺しという表現は厳し過ぎるかも知れないが、逆にそうすることでスクーデリアはバドエルに対し信頼と尊敬をもって接することが出来るのである。<br />バドエル本人は「マッサが帰って来るまで僕が頑張る」と言うが、シューマッハー復帰延期を受けてフェラーリが行った発表は「ヴァレンシアはバドエル」である。つまり、もちろんマッサの回復状況やシューマッハーの首の状態にもよるが、この先バドエルが数戦を闘うという発表ではない。バドエル起用はあくまでも1戦のみ、シューマッハー断念によるフェラーリ側の時間切れ回避策でしかない。つまりこれは、フェラーリに忠誠を誓い、ここまでフェラーリの成功に縁の下で貢献して来たバドエルに対する&#8221;ご褒美&#8221;と受け止めざるを得ない。チームは好調ライコネンに全力を注ぎ、バドエルはあわよくばポイント獲得を、という妥協策と考えるしかないのである。この先マッサの復帰までバドエルがレースに出場出来るのかどうかはヴァレンシアの結果にかかっているのである。</p>
<p>ヨーロッパGPを目前に控え、フェラーリは&#8221;プロモーション用の撮影&#8221;と称して2日間に渡りフィオラノ・サーキットで<a href="http://www.f1-stinger.com/news/2009/08/f60-1.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">バドエルにフェラーリF60をドライブさせた</font></a>。当然これはバドエルのためのテストである。しかし、現実的にレース現場から離れて10年になる38歳の無得点ドライバーが、復活の兆しを見せる名門・フェラーリのレース・ドライバーが務まるのかどうか。これだけは見てのお楽しみとなる。<br />温厚な印象そのままに、チャンスを与えてくれたフェラーリのために堅実に走るのか、それともレーサーとしての本能で最高の武器を使用して勝負に出て来るのか。この10年間、バドエルはF1で誰かをオーバー・テイクしたこともされたこともない。その瞬間、彼がどうするのか。それだけでもヨーロッパGPが待ち遠しいじゃないか。</p>
<p><i>「フェラーリのファンのために、全力を尽くすよ！」&#8217;09年8月／ルカ・バドエル</i></font></p><p>The post <a href="https://f1-stinger2.com/kasetatsuya/46858/">復活直前！バドエルって誰だ！？</a> first appeared on <a href="https://f1-stinger2.com">F1 STINGER 【スティンガー】</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ゆく人、くる人。</title>
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		<dc:creator><![CDATA[f1-stinger2248]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 18 Jul 2009 06:02:38 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<br />
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<p>出来レースなのかそれともマジだったのか、FIAとFOTAがガチンコで争いを繰り広げたバジェット・キャップ問題も根本的な解決こそしてないものの、どうにかグランプリ・チームのF1大量離脱、という最悪の事態は免れた。で、これだ・・・</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">出来レースなのかそれともマジだったのか、FIAとFOTAがガチンコで争いを繰り広げたバジェット・キャップ問題も根本的な解決こそしてないものの、どうにかグランプリ・チームのF1大量離脱、という最悪の事態は免れた。で、これだけドタバタしたら流石に誰かが責任を取るのが社会通念上の儀式。所謂&#8221;ケツを拭く&#8221;ってヤツだ。<br />今回はFIA会長マックス・モズレーが、限りなく辞任に近い&#8221;<a href="http://www.f1-stinger.com/news/2009/07/post-341.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">次期会長選出選挙に出馬しない</font></a>&#8220;という形で責任を取った。確かに全ての&#8221;言い出しっぺ&#8221;であり、レギュレーション変更に関してチーム側から目の敵にされたのがモズレーであることは否めない。同時にトップであるモズレーが退くということはFIAの&#8221;負け&#8221;を意味する。が、バジェット・キャップ案を取り下げる代わりに「2年以内に参戦費用を&#8217;90年代初期のレベルにまで引き下げる」という同意を取り付けた。つまり、彼はその犠牲の代わりに一筋縄では行かない大幅なコスト削減案を&#8221;ほぼ&#8221;実行出来た、とも考えられる。考え方によっちゃどっちもどっち、勝ち負け以前に&#8221;問題解決&#8221;があるべきなのは確かなので、騒動終結まで&#8221;FIA会長&#8221;という重要な人事が二の次になっちゃってたのは仕方がない。そろそろ「で？、次誰がやんの？」も気になって来る。</p>
<p>まず、そのFIA会長ってのはいったい何する人なのか。<br /><a href="http://f1-stinger2.com.tokyo-1r.conohawing.com.tokyo-1r.conohawing.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/06/ff.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">以前にも書いた</font></a>通り、FIAはFederation Internationale de l&#8217;Automobile、国際自動車連盟の略。主にヨーロッパを舞台とするF1やGP2などのフォーミュラ・カー選手権／ラリー／GTカー・レースなどを主催する組織であり、本部はモーター・スポーツ発祥の地であるフランス／パリにある。そこに参戦するドライバーのライセンス発給や各レースのスケジューリング、レギュレーションの管理なども全てFIAが行う。他にも自動車メーカー／オーナーの国際振興、安全／環境保護活動も含まれる、非営利組織である。世界130ヶ国、222の自動車クラブ／国立モーター・スポーツ組織が加盟する。日本では<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/日本自動車連盟" target="_blank"><font color="#ff00ff">JAF（日本自動車連盟）</font></a>がFIAに加盟しており、代表は田中節夫JAF会長。こういった世界各国の自動車連盟を統率するのがFIA。会長はそこの一番偉い人、つまりこの人がアメリカ以外の世界中のモーター・スポーツ全体の管理をしているワケ。<br />んでケンカ相手のFOTA（Formula One Teams Association、F1チーム協会）が各チーム／自動車メーカーの集まり、つまり&#8221;実労部隊&#8221;だったので、先のバジェット・キャップ問題は丁度会社の上層部と現場の労働組合による&#8221;春闘&#8221;みたいなモンだった、ということが出来る。 </p>
<p style="LINE-HEIGHT: 4ex"><b><font color="#3e6b3a">「経費下げるよ」</font></b><br /><font color="#3e6b3a" size="+1"><b>「いきなりその額は無茶だ」</b></font><br /><font color="#3e6b3a" size="+2"><b>「いや、従って貰う」</b></font><br /><font color="#3e6b3a" size="+3"><b>「じゃ、辞めてやる！」</b></font></p>
<p>みたいなもの（&#8230;..）。その例えで言えば、今回の結末は結果的に金額が譲歩されて社長が事態収拾のために辞める、ってところ。実際には労働組合側は「全員で辞めて新しい会社作ってやる！」と息巻いていたんだから、事態はそれなりに深刻だった、と言える。</p>
<p>ちなみにこうした管理組織による運営を嫌い、参戦するチーム達が独自にシリーズを立ち上げた例は存在する。アメリカの所謂&#8221;インディ・カー&#8221;レース。IRL（インディ・レーシング・リーグ）とCART（Chanmpionship Auto Racing Teams）がそれだ。<br />CARTは名前の通り、各チームによる組織。つまり参加チームがレース／選手権を運営していた。そこへ、&#8221;世界3大レース&#8221;のひとつであるインディアナポリス500マイル・レース（所謂&#8221;インディ500&#8243;）を主催するIMS（Indianapolis Motor Speadway）がオーバル・サーキット減少とアメリカ人以外のドライバー（特にF1）の増加傾向に難色を示してシリーズを離脱、1996年に新たにIRLを立ち上げた。CART側は伝統のインディ500レースを失いながらもシリーズを続行。以降、時にはIRL側が、時にはCART側が人気を博すシーソー・ゲームのような年月を経て、2003年にCART側がとうとう観念。一時はOWRS(Open Wheel Racing Series)にシリーズそのものを売却するも、アメリカのNASCAR人気に圧され万事休す、2008年、OWRSはついに離脱した方のIRLに吸収されることとなった。<br />簡単に言えば&#8221;元さや&#8221;だが、つまりオーディエンスは2つのシリーズを望まない、ということ。アメリカのこの例を失敗とみるかある種の成功と見るかは人それぞれだが、少なくとも&#8221;世界最高峰のフォーミュラ・カー・レース&#8221;はひとつでいい。それがオーディエンスの明確な答である。</p>
<p>さて、現・FIA会長、マックス・モズレー。<br />イギリスのファシスト連合創設者である<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/オズワルド・モズリー" target="_blank"><font color="#ff00ff">オズワルド・モズレー</font></a>を父に持ち、自身は元々はイギリス国内では有名な弁護士であった。1969年に仲間と共にF1チーム&#8221;マーチ&#8221;を設立、その後F1の世界に身を置くようになり、1991年にFIAの前身であるFISA（Federation Internationale du Sport Automobile／国際自動車スポーツ連盟）会長に就任、会長任期4年の4期目。会長は4年に1度、世界評議会メンバーの投票により選出される。つまり選挙制。モズレーは&#8217;91年にFISA会長選挙初当選、&#8217;93年にFISAがFIAに吸収されてFIA会長となり、その後4年に1度行われる会長選挙を3回勝ち抜いて来て現在に至る。1940年生まれ、来年で70歳。</p>
<p>モズレーの功績のひとつとして筆者が大きく讃えたいのは、とりわけグランプリの安全性についてである。<br />彼の任期中である1994年、F1世界選手権としては実に12年振りの死亡事故（<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_98.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ローランド・ラッツェンバーガー</font></a>、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_21.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アイルトン・セナ</font></a>）が起き、同シーズンに進化し過ぎたハイテク・マシンと古いサーキットによる重大事故の乱発により、強硬な安全策を行使。ドライバー／チーム、そしてファンからのブーイングにも負けず、ドライバーと観客の安全性向上に尽くして来た。少なくとも&#8217;95年以降、ドライバーにとって深刻な事故は起こっていない。空力やテクニカル分野でも&#8221;速過ぎて危険なF1&#8243;を取り締まり、安全なスポーツへと変貌させることに成功した。反論はもちろんあるだろうが、これは偉大な功績である。特にモズレーの任期中にはエンジン排気量規制／ハイテク規制／給油／タイヤなどの多くの分野のレギュレーションが&#8221;激変&#8221;を繰り返した。参戦する側にとって多大なストレスとなったのも事実だが、全てが安全性向上とコスト削減を目指したものだったことも事実である。</p>
<p>以前にも書いたことだが&#8230;..2008年春、モズレーはとある&#8221;スキャンダル&#8221;に悩まされた。あまり具体的なことはここでは記さないが、極めてプライヴェートな問題である。が、栄誉あるFIA会長としては当然ながら大問題となり、一時はその座を追われる可能性すらあったほど。結果的にFIA臨時総会による採決で辞任／解任とはならなかったが、イギリスのタブロイド紙がすっぱ抜いたこのスキャンダルには&#8221;モズレーの解任を画策する何者かによる陰謀説が浮上した。それが誰によるものなのかは解らないが、多くの関係者がF1チームを疑った。度重なる強行姿勢によるレギュレーション変更と、選手権操作に対する報復であるとする見方が世間を駆け抜け、この件によってFIAとFOTAとの溝はますます深くなって行ったのである。</p>
<p>ちなみにモズレーの前任者はフランス人の<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン＝マリー・バレストル" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジャン＝マリー・バレストル</font></a>。愛称は&#8221;ティラノザウルス&#8221;、理由は強権／傲慢という性格からである。<br />バレストルはモーター・ジャーナリスト出身。フランス自動車連盟会長を経て1978年にFISAを設立。<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_50.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">バーニー・エクレストン</font></a>と並んで近代F1グランプリを構築した立役者でもある。当然バレストル会長時代にもチーム側との衝突／混乱は起き、事実&#8217;80年には選手権分裂の危機を迎えた。しかし&#8217;81年にはこうした混乱を収拾するため、主催者側と参加チーム側による和平協定である&#8221;コンコルド協定&#8221;を締結、その後の選手権のバランスを取ることに貢献した。ただ、その独裁的な運営手腕は賛否両論でもあり、強引なレギュレーション変更でスポーツ・カー選手権の破滅を招くなど、後年はその運営手腕を問われ、結果的に&#8217;91年にモズレーに敗れて失職した。2008年没。<br />バレストルと言って、古いファンの方が思い出されるのは<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_104.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">FISA対FOCAの&#8221;勝者なき争い</font></a>&#8220;だろう。&#8217;79年、FISAとフェラーリ／アルファロメオにフランスのルノーを加えた&#8221;大陸系同盟&#8221;と、マクラーレン／ロータス／ウィリアムズ／ティレルなどのイギリス系FOCA加盟チームとの争いが泥沼化。見ての通り、前者は自社エンジン使用の自動車メーカー、後者はコスワース・エンジン使用のレーシング・コンストラクターという対図だったのだが、バレストルは後者を宿敵と見なし、翌&#8217;80年第5戦スペインGPではグランプリ・ウィーク中に突如このレースを選手権から除外すると通告、怒ったFOCA系チームはレースを強行。結果的に選手権からは除外されてしまったが、これを機に何度かのボイコット騒ぎを繰り返す。結局こういった事態を収拾するために作られたのが所謂&#8221;コンコルド協定&#8221;なのである。<br />ミドル・エイジのファンの方にとってのバレストルは<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_112.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">セナとアラン・プロストを巡る&#8217;89年シーズン</font></a>だろうか。セナの母国ブラジルや日本のファンから「バレストルは同郷のプロストに肩入れしている」と揶揄され、かつてホンダに対しても母国のルノーが先陣を切ったターボ・エンジン開発で負けたことから「F1にイエローはいらない」と発言するなど、人種差別という側面で度々問題とされて来た。&#8217;89年第15戦日本GPで起きた両者クラッシュ〜セナ失格裁定に於いては、決定を下したバレストルが完全にヒール（悪役）となった。真意のほどは定かではないが、セナがバレストルと犬猿の仲だったことは事実である。<br />これらの出来事から、バレストルが自身の母国であるフランスに肩入れしている、というイメージは拭いきれなかった。いわば会長職を私的に&#8221;乱用&#8221;した、とも受け取れてしまう。ただし、決してFIAの会長とは独裁的な人物だ、というわけではなく、これらは極めて&#8221;個人的な暴走&#8221;として記憶されている。当然だが基本的には混乱を避けるための取り決めを行うべき立場。中立／冷静さが問われるのは当然である。しかし結果的にバレストルがそのワンマン体制によって失職したことも事実である。</p>
<p>今回バジェット・キャップ問題の解決の条件のひとつとして、モズレーが&#8217;09年10月のFIA会長選出選挙に立候補しない、という条項が含まれたのは、当然事態収拾のためにモズレー自身が責任を取った、ということである。が、これでようやくこの争いも沈静化したと思われた矢先、<a href="http://www.f1-stinger.com/news/2009/06/fiafota-5.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">火に油を注ぐような事件</font></a>が起きた。FOTA代表／フェラーリ社長、ルカ・ディ・モンテツェモーロによる&#8221;勝利宣言&#8221;である。<br />「我々は勝利した。独裁者は去り、即座にミシェル・ボエリ（FIA議長）がその仕事を引き継ぐだろう」<br />&#8230;..アタリマエだが、和解した筈のFOTAから独裁者呼ばわり（この&#8221;独裁者&#8221;には昨年のモズレーのナイト・スキャンダルについての意味合いも含まれる）されたモズレーは激怒。即座にモンテツェモーロに対して謝罪を要求したが回答はなく、「この発言（ボエリのFIA会長説）は何の根拠もなく、悪意に満ちたものであり、FIAに対する侮辱である」とし、10月の会長選への再出馬をほのめかした。本末転倒ではあるが、これによってFIA次期会長が一体誰になるのかの予測は完全に不可能になった。そして、現実問題として3ヶ月後に迫った次期FIA会長選挙で一体誰が選出されるのか、モズレーやバレストルが直面して来た問題と、今度は誰が闘うのか。今回の騒動を受けて、現FIA副会長のヘルマン・トムツィクは早々と次期会長選出馬を否定。モズレーは「私は今、世界中のFIAメンバーから再出馬の要請を受けている」とFOTAを牽制。&#8217;04年にも辞意を撤回したことのあるモズレーが、そのプライド／面目を潰され、吠えた。一旦解決したかに見えた<a href="http://www.f1-stinger.com/news/2009/07/fotafia-2.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">&#8217;10年のエントリー問題も再燃</font></a>、モズレーはあくまでもFOTAを許さないという姿勢を強固に打ち出した。最終的にモズレーがFIAプレス・リリースによって正式に次回会長選挙に出馬しない旨を表明してこの騒ぎは集結したが、去り行く老兵が「あまり調子に乗るなよ！」と一喝して行った形である。さすがのFIA会長、ただでは転ばない。もっとも、悪意に満ちたスキャンダルにも動じなかったモズレーだが、6月に息子が急死、最終的に「家族との時間を」という選択となったのはやむを得ないことである。</p>
<p>さて、そうなるといよいよ後任が誰になるのか、である。ここで現在までに次期FIA会長候補者として名前の挙がっている人物を見てみることにしよう。</p>
<p><b>・ミシェル・ボエリ</b><br />現FIA議会議長／WMSC（世界モーター・スポーツ評議会）副会長のボエリは1972年にモナコ自動車クラブ会長となり、かつては&#8221;エクレストンのライバル&#8221;とも呼ばれたモーター・スポーツ界の重鎮とも言える人物である。ただし、モズレー自身がボエリが既に高齢であることと「彼自身、FIA会長職に興味があるとは私には思えない」という発言により、自らの立候補はないとする向きが強い。ボエリ自身も現在モナコの政界に身を置くため、今更FIA会長職に意欲的ではないことは明らかである。ただし、先のモンテツェモーロの「ボエリが引き継ぐ」という発言の裏に、モズレー自身も知らない何かがあるのかどうかは未だ不明である。</p>
<p><b>・ジャン・トッド</b><br />WRC／ル・マンでプジョーを、F1でフェラーリを率いて大成功を収め、昨年正式にフェラーリを離脱したトッドは現時点で最も次期FIA会長に近い人物、と言われている。が、反面多くの関係者から「特定のチーム代表を務めた人物が会長職を務めるのは好ましくない」という意見も出ている。例えばF1でフェラーリ／ル・マンでプジョーが優遇されるのでは、という危惧である。事実、バレストルの&#8221;フランスびいき&#8221;が問題となった経緯があるだけに、懐疑的な見方も多い。しかし、モズレーはトッドが後任となることを歓迎する趣旨の発言を行い、当初は沈黙を守っていたトッド自身も、最近になって立候補の意思を明らかにした。</p>
<p><b>・ロン・デニス</b><br />昨年いっぱいでマクラーレンのCEOを退いたデニスは、もしかしたらFIAと最も&#8221;闘って来た&#8221;人物かも知れない。&#8217;07年にはスパイ事件に絡みFIAから5.000万ポンド（約80億円）の罰金を課せられたが、FOTAはこの一件に関してモズレーに対して不信感を募らせており、今回の対決への影響も少なからず存在する。パドックでデニスがFIAの&#8221;天敵&#8221;と呼ばれているのは周知の事実である。更に、今回の人選にデニス自身は「チーム代表経験者がFIA会長となるのは望ましくない」と冷静に分析。自身がその役職に着けばマクラーレンを、トッドが着けばフェラーリを優遇しかねない、という趣旨の発言を行い、「私は不適切だ」と公言した。</p>
<p><b>・ビッキー・チャンドック</b><br />チャンドックはFIA議会メンバーであり、元インド・モーター・スポーツ連盟会長、FIA幹部やバーニー・エクレストンとも親しい人物。実の息子のカルン・チャンドックは現在GP2に参戦中（オーシャン・レーシング）。しかし、当のチャンドック自身は立候補しても自分が会長に選出される可能性は低く、名前が取り上げられるだけでも恐れ多い、と控えめなコメントを出し、同様にFIA次期会長には自分よりもトッドやデニスの方がより適任であるとも発言していることから、自らの立候補の可能性は低いと見られている。</p>
<p><b>・アリ・バタネン</b><br />欧州議会フランス代表のバタネンは、今回の会長選挙に自ら立候補する方針を明らかにしている。バタネンは1952年フィンランド出身のラリー・ドライバーとして有名であり、&#8217;81年のWRCチャンピオン（当時のコ・ドライバーはデビッド・リチャーズ）という輝かしいキャリアを持ち、トッドのチームで勝利したこともある。「独裁者の時代は終わりだ。F1は変革の時期に来た。私が選挙で勝てる要素は少ないだろうが、チャレンジする」今回名前が取り沙汰されているメンバーの中で、最も意欲的なのがバタネンと言える。</p>
<p><b>・ニック・クロウ</b><br />アメリカ人のクロウはACCUS（アメリカ自動車競走委員会）会長／国際スポーティング連盟代表。しかしモズレーは「彼には彼の仕事があり、他の仕事（FIA会長職）には興味がないだろう」と噂を一蹴。目下のところメディアの先走り感が強い。</p>
<p>&#8230;..&#8217;09年7月中旬現在、候補としてメディアに名前が挙っているのはこの6人である。各自の状況／発言等を見ても、現状でボエリ／デニス／チャンドック／クロウらの立候補はなさそうである。となれば噂の筆頭であるトッドか、或は最も意欲的なバタネンか、という構図となる。もちろん、今後新たにどんな人物が浮上して来るかは解らない。FOTAのジョン・ハウェット（トヨタ）は「我々は独立した人物を望んでいる」と、チーム出身者からの会長選出を牽制し、マーティン・ウィトマーシュ（マクラーレン）は「バランス感覚に優れたバタネンは適任者だ」としている。<br />&#8230;..しかし、忘れてはならない重要な問題がある。<br />前述の通り、FIA会長はFIAの122人の幹部を代表した26人のモーター・スポーツ評議会メンバーによる投票で選出される。つまり、FOTAに加盟するチーム、自動車メーカー、スポンサー、そしてドライバーの誰にも、この選挙に投票／参加する資格はないのである。よって、モンテツェモーロ、ハウェット、ウィットマーシュらが何を言おうとも、次期FIA会長の人選への影響はない。ミハエル・シューマッハーにもルイス・ハミルトンにも、モナコ国王にも投票権はない。彼等はFIAの内部で行われる決定をただ待つのみなのである。</p>
<p><i>「私は歳を取り過ぎたんだ」&#8217;09年6月／マックス・モズレー</i></font> </p><p>The post <a href="https://f1-stinger2.com/kasetatsuya/%e3%82%86%e3%81%8f%e4%ba%ba%e3%80%81%e3%81%8f%e3%82%8b%e4%ba%ba%e3%80%82/">ゆく人、くる人。</a> first appeared on <a href="https://f1-stinger2.com">F1 STINGER 【スティンガー】</a>.</p>]]></content:encoded>
					
		
		
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