F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集 F1 STINGER 【スティンガー】 > スクーデリア・一方通行 加瀬竜哉 >  > 2010年4月15日  M帝国の謎

スクーデリア・一方通行/加瀬竜哉

謹んでご報告申し上げます。
『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。

[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。

[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己

M帝国の謎

…..先日、あまりF1を良く知らないある隣人からのひとこと。「”マクラーレン”ってのはあまり聞かない会社だけど、どうしていつも強いんだ?」…..う〜ん、会社か。コレはようするにF1=自動車メーカーの闘い、という構図の印象が根強いことをとても顕著に表しているってことなんだな。だって、世界的な経済不況でホンダBMWトヨタがやめてルノーがどうしようか悩んでるってのに、このマクラーレンってのは決して安いロード・カーなんぞ販売していない社名な筈なのに常にF1のトップに君臨し、そしていつもフェラーリと王座を争っている。もちろん長い歴史の中で見ればウィリアムズだってトップ・コンストラクターのプライベート・チームなんだけど、近年の長い低迷ではその印象もやや薄くなる。
マクラーレン。かのエマーソン・フィッティパルディもジェイムズ・ハントも、アラン・プロストアイルトン・セナもいた。ミカ・ハッキネンやフェルナンド・アロンソだって乗ったし、今年は前年王者のジェンソン・バトンが乗っている、名門中の名門チーム。
今回は、このモーター・スポーツ・ファンにとってはあまりにも偉大で、一般人にとってはあまりにも無名なコンストラクター、”マクラーレン”のことを学んでおこう。歴史的に見て、ここがF1でフェラーリの次に重要なチームであることだけは疑いようがないからね。

さて、まずF1などのモーター・スポーツには前述のようにフェラーリとかルノー、メルセデス・ベンツのような自動車製造/販売会社による参戦だけではなく、コンストラクター、つまりレース参戦そのものが目的のレーシング・チーム/会社が存在する。歴史的に見れば、黎明期の’50年代は自動車メーカー同士の闘いでF1が始まり、’70〜’80年代にかけて個人によるコンストラクターが飛躍的に増え、今はメーカーが減ってコンストラクター時代になりつつある、という流れ。このマクラーレンやウィリアムズ、既にBMWとは関係のないザウバー、レッド・ブルやトロ・ロッソ、フォース・インディアも皆自動車メーカーではないコンストラクター。逆にフェラーリ/メルセデスGP/ルノー以外は皆コンストラクター。
で、何故巨大な自動車メーカーと無名のコンストラクターが同じフィールドで闘えるのか、というのが最大の疑問。例えば資金力、例えば規模、例えば影響力。全てに於いて、本来レーシング・チームを立ち上げた個人が敵う相手じゃない。そこを可能にしてくれるのが”レギュレーション”、つまりルール。大きいチームだろうが小さいトコだろうが「コレとコレ守って自分でクルマ作んなさい」と枠を設けてやれば、あとは個人の捉え方と工夫、そして長所短所のハナシ。よって、メーカーによる何百億円という巨大プロジェクトから産まれたマシンを、年間予算が1/10程度の貧乏チームが負かすことだってある。っていうか、それが最高にたまらない!。それが最も可能だったのが’70年代で、F1は市販のコスワース製のV8エンジンとヒューランド製のギア・ボックスを購入すれば、誰にでもシャシーが作れる”キット・カー”時代。誰かはウィングをバカデカくしたり、誰かはタイヤを増やしてみたり、様々なアイデアを持ったコンストラクターが比較的安価でフェラーリやアルファロメオ、マトラなんかのV12エンジン勢に一泡吹かせていた。
よって、如何に不況によるメーカー撤退が原因とは言え、F1が再度コンストラクター時代を迎えるのはおおいに歓迎、事実レッド・ブルだって’09年のブラウンGPだって、立場上巨大自動車メーカー・チームではなかったのである。で、特に今季、長年の蜜月相手だったメルセデス・ベンツが単独参戦を始めたことで、これまでのようなメルセデス・ベンツのワークス・チームという眼ではもはや見られなくなった最強のコンストラクター、マクラーレン。このチームを知るためには、まずチーム創始者である”知る人ぞ知る”ブルース・マクラーレンについて触れなければならない。

’37年8月30日、ニュージーランド生まれのブルース・レズリー・マクラーレンは”レース奨学生”、つまりスカラシップ第1号として’58年にクーパーからイギリスF2へ参戦、翌’59年に同チームからF1デビュー。最終戦アメリカGPで史上最年少初優勝を果たし、以降毎年タイトル争いに絡む活躍を見せる。’63年、知人であるアメリカ人弁護士、テディ・メイヤーと共に自らのチーム”ブルース・マクラーレン・モーター・レーシング”というチームを設立、クーパーの低迷に見切りをつけ、’66年に自らのチームのオリジナル・シャシー”マクラーレンM2B”で参戦。’68年第4戦ベルギーGPでは自らの名を冠した、祖国ニュージーランドのオレンジ色を纏ったカラーリングのマシンで勝利。再びタイトル争いへと返り咲いたのである。
が、’70年6月2日、ブルースはグッドウッド・サーキットでCan-Am(カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ)レース用のマシンであるマクラーレンM8Dのテスト中、270Km/hで走行中に突然リア・ウィングが脱落、激しくコンクリート製の防護壁に突っ込んで死亡。あまりにも突然の事態に当然チームは揺らいだが、ブルースの闘志を消すまいと、相棒のメイヤーが跡を引き継ぐ形でチームとコンストラクターの存続が決定。当時Can-AmやF1以外にもF2やインディ500などのカテゴリーでシャシーも制作していたマクラーレンは、その後各カテゴリーで大成功を収める。
というわけで、マクラーレンはブルース・マクラーレンという人物が興した”レーシング・カー・コンストラクター”なのである。フェラーリやルノーのように市販車の量産メーカーとしてではなく、初めからブルース自身のレース活動のために誕生し、そして創立僅か7年でその主を失い、それでも後継者達の努力で21世紀の現在までトップ・チームとして君臨し続けている、まさに名門中の名門なのである。

しかし、決して最初から全てが上手く行っていたわけでもない。本来の舵取り役を失ったマクラーレンは、シャシー・コンストラクターとしては素晴らしく一流だったが、レーシング・チームとしては未だ若い集団だった。マクラーレンの新代表となったメイヤーは無理をせず、F1活動に集中するためにCan-Amから撤退。既に’72年に制覇していたインディ500からも手を退いた。更にメイヤーは場合によってはマクラーレンのイメージを覆しかねない巨大スポンサーの獲得を決定、マクラーレンはマールボロと契約し、’74年にかの有名な”マールボロ・マクラーレン”という組み合わせが誕生するのである。そしてこの年、ブラジルの若き英雄であり、既にロータス(’72年)で史上最年少王者記録を持っていたエマーソン・フィッティパルディが、マクラーレンに初のWタイトルを齎す。’76年はイギリスのジェイムズ・ハントがニキ・ラウダ(フェラーリ)との激闘を制して自身初のドライバーズ・タイトルを獲得。F1のトップ・コンストラクターとしての地位を確たるものとした。
が、’70年代後半にロータス/コーリン・チャップマンが発案した”ウィング・カー”という思想がグランプリを席巻し、マクラーレンは空力開発面でライバルに遅れを取ってしまう。マクラーレンの成績低迷に危機感を持ったメイン・スポンサーのマールボロとメイヤーは、チーム内の新たな改革を必要とし、大胆なチーム改造を決断する。

F2のマールボロ・チームを勝利に導いたロン・デニス率いるプロジェクト3は、デザイナーであるジョン・バーナードと共にマールボロから”低迷するマクラーレンのF1チームへの技術協力”をオファーされた。これを機にデニスはF1プロジェクトを”プロジェクト4″とし、’80年にマクラーレンはデニスの会社と合併という形でマクラーレン・インターナショナルという会社へと生まれ変わった。現在まで続くMP4/〜という車番は、’81年の1号車であるMP4/1からスタートした、言わばプロジェクト・ネームである。MはマールボロのMであり、プロジェクト4の1号車、という意味なのである。
こうして新生マクラーレンがスタートし、’82年には既に引退していた3度の王者、ニキ・ラウダをチームに迎え、’83年には長年使用して来たフォード・コスワースDFV・V8エンジンを捨て、ポルシェ製のV6ターボ・エンジンにスイッチ。翌’84年には帝王ラウダ(5勝)とフランスの新鋭アラン・プロスト(7勝)がシーズンを席巻、チームに’76年のハント以来8年振り/コンストラクターズは10年振りとなるWタイトルを齎した。翌’85年は今度はプロストがラウダを下し、遂に2年連続でマクラーレンがシーズンを圧倒した。
しかし、この頃からターボ・エンジン開発でホンダが成果を上げるようになり、’86年はプロストが2年連続王座を奪うも、コンストラクターズ・タイトルはウィリアムズ・ホンダに奪われてしまう。’87年、マクラーレンはプロストに加えロータス・ホンダに乗る新進気鋭のアイルトン・セナを擁し、ホンダ・エンジンの獲得を発表。史上最強布陣と言われたこのライン・アップでマクラーレンは’88年、ホンダ・ターボ搭載/奇才ゴードン・マーレイ作のマクラーレンMP4/4が16戦中15勝という圧倒的な強さを見せつけてシーズンを席巻した。セナは初の王座を獲得するが、同時に先輩格であるプロストとの熾烈なライバル意識にも影響、トップ・ドライバー同士の争いは時にはアンフェアな一面も見せ、後世に残る”セナ・プロ対決“へと発展する。
’89年はプロストがセナからタイトルを奪い返すが、「チームはセナに肩入れしている」と扱いの不平等さを訴え、チャンピオン・ナンバーを持ってフェラーリに移籍。残ったセナは翌’90年、更に’91年と連覇、マクラーレン・ホンダで3度のタイトルを獲得する。しかし’92年にホンダがエンジン供給活動休止を発表、フォードV8エンジンで苦戦するマクラーレンから’93年いっぱいでセナが離脱。翌’94年からはプジョー・エンジンを搭載し、若きミカ・ハッキネンをエースに闘うが、マーレイのロード・カー(マクラーレン・F1)設計部門への移籍などの要因も含め、再びマクラーレンは低迷期を迎えてしまう。とうとう1勝も出来なかったマクラーレンはプジョーを諦め、既にイルモア・エンジニアリングとの提携でF1に復帰していたメルセデス・ベンツとの契約を発表。ドライバーにはマールボロの”強い希望”により、既に引退していたナイジェル・マンセルが選ばれた。…..が、既にモチベーションを失っていたマンセルと、ただでさえデニスを犬猿の仲と言われた関係が上手く行く筈もなく、マンセルはシーズン序盤で離脱。10年前のラウダ復帰のようには上手く行かなかった。
’96年、セナの没後ウィリアムズからデビューしたデビッド・クルサードがチームに加入し、ハッキネンとコンビを組む。チームはウィリアムズから奇才エイドリアン・ニューウィーを獲得し、長き低迷からの脱出を期する。しかしここまで23年間に渡ってチームを支えて来たマールボロはフェラーリへのスポンサードに集中することを決定。F1の象徴でもある赤白のマールボロ・カラーのマクラーレンの歴史はここで終わりを告げた。
’97年、メルセデス・エンジンを積んだ銀色の新生マクラーレンMP4/12がデビュー、開幕戦オーストラリアGPでクルサードがいきなりの勝利。クルサードは更に第13戦イタリアを制し2勝、苦労人ハッキネンは最終戦ヘレスで初優勝。エンジン絡みのリタイアで勝利を失ったレースも多かったが、マクラーレン完全復活の兆しは見えたシーズンだった。
’98年、ニューウィー作のMP4/13は開幕戦から3位以下を周回送れとする圧倒的な速さを見せ、シーズン後半のミハエル・シューマッハー(フェラーリ)の追撃を抑え、ハッキネンが初王座。翌’99年もハッキネンの2年連続王者となり、マクラーレンは完全復活を遂げた。
が、’00年代に入るとフェラーリが全ての分野でライバルを圧倒。’01年にはニューウィーがジャガー(現・レッド・ブル)への移籍を模索。この時はデニスが説得に動き、離脱は免れたが、チームにとっては後味の悪い一件となった。またハッキネンの引退(当時は”休養宣言”)もあり、マクラーレンは若きキミ・ライコネンをエースに再スタートを切ることとなった。翌’03年、ライコネンは1勝ながらフェラーリのシューマッハーをシーズン終盤まで追いつめる速さを見せたが無念の2位。’04年は前年のマシンのモディファイ型で闘うも既にフェラーリには敵わず。クルサードがチームを去り、ファン・パブロ・モントーヤが加入。’05年型MP4/20は久々の成功作となるが、ライコネン/モントーヤの布陣を以てしても、この年初タイトルを奪うルノーのフェルナンド・アロンソに惜敗。これを最後にニューウィーがとうとうレッド・ブルへと移籍し、チームはまたも低迷期に入ってしまった。
未勝利で終えた’06年、ライコネンはフェラーリへと移り、モントーヤはアメリカへ旅立った。これにより、’07年は2年連続王者アロンソと、ロン・デニスの秘蔵っ子であるルイス・ハミルトンのふたりがマクラーレンを駆ることとなった。デニスは’95年のオート・スポーツ・アワードでカート王者のハミルトン(当時10歳)と出逢い、ハミルトン自身からのラヴ・コールを受け、その後の活躍を見て若きハミルトンとの長期契約を結んだのである。

…..ここまで、マクラーレンの”主”と呼べる人物は確実にデニスであった。プロジェクト4を率いてマールボロと共に低迷するチームを救い、ラウダを復活させつつプロストを開眼させ、セナを愛し、ハッキネンを育てて来た。極めつけはその弟分であるライコネンを含み、特に近年は勝利経験のないドライバーを世界王者にした立役者だ、と言える。これは確実にフェラーリとは違った方法論である。エディ・アーバイン、ルーベンス・バリチェロらは明らかに誰かのNo.2として雇われて来た。そしてそこには限られた勝利のチャンスしか与えられない。が、マクラーレンは常に”ジョイントNo.1″という制度を取り、シーズンを通じて速い者がエース、決してチーム操作は行わないというポリシーもデニスのものである。が、ハミルトンに限っては確実にデニスの贔屓であり、そこへ途中合流するアロンソが如何に難しい立場にいたのか、も想像に難くない。
かくして、ハミルトンとアロンソにはセナvsプロスト以来の”確執”が起きてしまう。若きハミルトン側が大きく行動に出ることはなかったが、逆に王者アロンソはその状況に焦った。細かいやりとりは記さないが、その内容は時には”子供じみた”ものと言えなくもなかった。特にTVカメラの前で繰り広げられてしまったハンガロリンクの予選などは。結果、アロンソは若き挑戦者に屈し、チームを出た。そしてこの頃から、チーム/マシンの実力と相反するかのように、様々な問題がマクラーレンの周囲を埋め尽くすようになる。

’07年、マクラーレンのデザイナー、マイク・コフランがフェラーリのチーフ・メカニックであったナイジェル・ステップニーから技術情報をリークされていた、という疑惑が持ち上がり、FIAがこれを告発。当然当人達はこれを否定するものの、最終的にマクラーレンは’07年のコンストラクターズ・ポイントを剥奪、その他多くの処分を被り、マクラーレンのCEO(最高執行責任者)であるマーティン・ウィトマーシュはこれらを受け入れ、公式に謝罪したのである。
さて、ここで登場するウィトマーシュは、マクラーレンの”人名”としてはそう著名な存在ではないだろう。ハミルトンやバトンと共に表彰台で上品な笑みを魅せる英国紳士、マーティン・ウィトマーシュは’89年にマネージング・オペレーターとしてマクラーレンに加入、以後デニスの片腕となってチームを支えて来た人物である。’04年のチーム/グループ内人事に於いて新たなCEOとなり、会長となったロン・デニスのNo.2となった。そして、その後マクラーレンに度重なるスキャンダルが続き、最終的に’09年の開幕戦オーストラリアGPのセーフティ・カー導入中にハミルトンが全車追い越しに関して”チームの指示による嘘の証言”をしたとして、無線でハミルトンとやりとりしたデイヴ・ライアンを定職とし、デニスは責任を取って自らの職を降りた。こうして’09年からウィトマーシュはデニスに変わり、マクラーレン・グループのCEOとなったのである。

さて、かくしてウィトマーシュ体制となったマクラーレンはいきなり”メルセデスとの契約見直し”という大問題と直面。これまでほぼワークス扱いだったマクラーレンを捨て、新たに独自チームによる単独参戦に踏み切ったメルセデス・ベンツ。しかもミハエル・シューマッハーを担ぎ出しての参戦とあれば、長年の蜜月を味わって来たマクラーレンとしては寝耳に水である。現在でもマクラーレンはダイムラー・クライスラー・グループの一員ではあるが、結果的にマクラーレンはメルセデス側に僅か11パーセントを残してその株を買い戻している。

さて、ブルース・マクラーレン〜テディ・メイヤー〜ロン・デニス〜マーティン・ウィトマーシュ、と引き継がれて来たマクラーレン。こうして振り返ると、最も色濃く見えるのが当然最も長いデニス時代であることは解ると思う。大半をラウダ、プロスト、セナ、ハッキネンらの王者と過ごし、F1史的にも象徴的な赤白のマールボロ・カラーと、生まれ変わったシルバー・アローを纏った強烈な印象である。そして、彼のプロジェクト4、いやそれ以前に既にマールボロがチームから退いて久しいにも関わらず、相変わらず今季にマシンの車番はMP4/25であり続けていること。これは、このチームが大きな変革を齎しながらもこれまで一貫して”マクラーレン”というひとつの定義に則り、きちんと進んでいることの大きな表れでもある。
そして、そのマクラーレンという巨大帝国を、今度はウィトマーシュが果たしてどうように舵取りをして行くのか、である。もちろんF!は再びコンストラクター時代を迎える。つまりメルセデスもルノーも、いつまでも現存のエンジン・サプライヤー的な立場さえ望みはせず、いずれグランプリの一線から身を退くことは覚悟しなければならない。となれば、彼らコンストラクターが行うげきは再び訪れる”エンジンほぼワン・メイク時代”〜それがコスワースになるのかどうかは不明だが〜に向け、各メーカーと1stプライオリティを結べる有利な状況を作り出すことである。これまでもポルシェ、ホンダ、メルセデス、そしてブリヂストンらと共に良好な関係を築き、故に常に先頭を走って来たのがマクラーレン帝国である。場合によっては、マクラーレンによる独自のエンジン開発、という大ドンデン返しが待ち受けている可能性だってあるのだ。

…..究極のメーカーであるフェラーリと、常に対峙する究極のコンストラクター、マクラーレン。セナvsプロストで懲りた筈の世界王者同士のジョイント・No.1を擁し、今季はライバルとなったメルセデスGPを上回る活躍を魅せている。このまま新興チームと名門に屈するとは思えない、それがこの帝国・マクラーレンの脅威なのだ。

「あのマクラーレンで勝ったんだぜ。こりゃ凄いことじゃないか!」/ジェンソン・バトン@’10年第2戦オーストラリアGP

 

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