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Honda カブF
自転車に後付けする1952年のHondaの原付で、カブFと呼ばれた。 ドリームEはすでに4サイクルになっていたが、この50ccは2サイクルで出力は1馬力だった。
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いまの原付の起源といってもいいHondaの傑作、スーパー・カブが登場するのは――これについてはいずれゆっくりお話ししますけど、そのスーパーカブの発売は、ずっとあとの1958年の8月」
Hondaは、ドリームをE型(1951年)にまで発展させたあと、50ccの後付けエンジン・モデルに「カブF」という名を与えていた。カブという名のこの“自転車”が後年すごいものになったから「スーパー・カブ」としたのだ。
「14歳でバイクを……というのは、小型バイクの普及がその背景にありました。『原動機付き自転車許可証』というかたちで、警察への届け出だけで済む許可証制度になったのは1952年で、このときに、それが14歳以上ということになった」
「住民票を持って警察に行ってね。原付許可証をくださいって。そういえばそのときに、原付の最高速を訊かれたな。40キロだったかなあ?といったら、ダメダメ、原付は30キロだ!なんていわれてね(笑)」
「あと、53年時点では、この許可制で乗れたバイクは、4サイクルと2サイクルでは排気量が違ってました。2サイクルは2倍近い馬力がでる?! クランク回転に対しての爆発回数の違いで、当時はまだこういう“理論”があって、2サイクルは60ccまで。一方4サイクルは90ccまでというのが、許可証で乗れるエンジンの範囲だった」
ただし、この“2サイクル2倍理論”はすぐに廃され、2年後の1955年には、エンジン型式にかかわらず50ccまでを「第一種原付」とすることになって、今日に至っている。そして、実技試験のない許可制でバイクに乗れるという制度も継続されている。
ちなみにこの「1953年」というのは、前年からラジオ・ドラマで大ヒットした「君の名は」が映画化され、その主人公の装いである“真知子巻き”(マフラーの巻き方)が大流行し、NHK東京のテレビ放送が始まり、街頭テレビに人々が群がり、ティーン・エイジャーという言葉が出現した。
そして1945年の終戦から9年を経て、電化元年とも評され、2年後には神武景気とよばれる消費が経済を引っぱっていく時代になった。この年のバイク生産台数は約12万台に飛躍し、やがて、日本が世界有数の自動車生産国になる基盤にもなった時期で、ようやく日本全体がゲンキになってきた!
「街頭テレビっていったって、いまの人、わかんないんじゃないの?!(笑)」
そうかもしれない。ただ、それをいうなら(本格的な)テレビ放送がまだなかった!ということの方が驚きであるかもしれない。
そして、仮に放送をしていたとしても、誰もまだ、それを受信できる機械を持っていなかった。人々は、映画館に映画を見に行くのと同じような感覚で、街頭に設置されたテレビ(受信機)の画面に見入り、新しい視覚メディアが登場したことを知った。
――リキさんが一番最初に乗ったエンジン付きの乗り物って何ですか?
「それは、ブリヂストン・モーターの原動機付き自転車です。ぼくは祖母に育てられて、そしてうちは造園業だったので、バイクに乗ることは家の手伝いをすることでもあった。商売してるとか工場やってるとか、当時はまず、そういったところにバイクが普及していったのね。だから、バイクには必ず荷台がついていた!(笑)」
なぜ他社ものではなく、BSモーターだったのかというそのワケは、いかにもダンディなリキさんらしい理由があり、それは同時になかなか50年代的でもある。
まず、他社と違ってBSモーターは、自転車・車輪のリムにゴムを接触させて、人力による駆動力を伝達し、それによって回転を与えてエンジン始動を行なう方式だった。これは、後輪にリムとは違うサイズのもうひとつの輪っかを抱えたようなデザインの他車よりは、たしかに、見た目はるかにスマートである。
そしてもうひとつの、BSであった理由。
それは、エンジンを使わずに単なる自転車として乗るときには、余計な荷重がかからずラクだったから。当時は、あくまでも、自転車にエンジンがついたという乗り物。したがって、自転車としてどう機能するかということも重要だったのだ。
「このリム摩擦方式の欠点は、雨の日なんかに、リムとゴムの摩擦が減って、滑ってしまって、エンジンがかからないこと。その対策として、リムとゴムに松ヤニを塗るというのがあった」
こうやって、エンジンによる走りを体験したリキ少年は、深く深く感動する。バイクにまたがり、車上で風に当たりながら、リキ少年は心のなかで思わず叫んでいた。
「人間って、すごいものを創りだしたな!」
(第一回・了)
(取材・文:家村浩明)
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