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遠乗会
わらぶき屋根とボンネット・バスを背景に、当時の街道を遠乗会のライダーたちが走る。 この写真のような舗装路は、主要街道であってもまだレアだった。
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でも高速道路はまだないので、たとえば箱根へ行くというのは、いまの《東京・箱根駅伝》と同じコースになる。小田原から湯本へ行き、1号線を上って芦ノ湖へというルート。そして帰りは、同じ道じゃつまらないというので、鎌倉を回ったり」
そして、そのツーリング会は、「クラブ単位で企画して、クラブ員が集まるから、50台とか100台とか連なって走ることになります。バイクを売ってるディーラー主催のツーリングだと、もうちょっと規模が大きくなって、ときには300~400台が集まることもありましたね。こうなると、ツーリング・メンバーの長さは1里(約4キロ)くらいになっちゃう!」
ただし、そんな「長さ」で公道を占拠していても、あまり交通のジャマにはならなかったという。なぜなら、クルマやバイクの数はとても少なかったから! そう、一般の人々が買うには、バイクはまだ、あまりにも高価だったのだ。
1955年、Hondaは、当時は画期的だった全国統一価格を呈示する。それまでは、
「《今月の新車価格》といういい方だった。つまり、今月はこれだけできました、だから値段はコレコレですって……ねえ、野菜じゃないんだから(笑)」
そして、そのHondaドリーム4E型は全国一律16万円だった。何だ、そんなに高くないのでは……というなかれ! 当時の大卒初任給は1万円以下。ブルーカラーの給料が7000円くらいの時代のこと。道路工事などの単純労働は“ニコヨン”と呼ばれていたが、その“にぃごぅよん”とは、そうした労働の日給が254円だったからであった。
当時のバイクはあくまでも業務用で、ウイークデイはひたすら仕事のために走り回っていた。そうしたバイクが、たまさかの休日に荷台(!)を外され、クラブ員たちとともに、郊外を走ったのだ。
「だからっていうわけじゃないんだけど、遠乗会では、人通りの多いところでバイクは磨いたね!(笑)宿に着いても、風呂より先に、バイクの掃除をした」
そして、そうしたツーリングのメンバーを統率するため、「伝令係」が設定された。もとは軍隊用語であるこの「伝令」とは何をしたのか?そう、当時はもちろん携帯電話も、一般人が使える無線もなかった。そこで人を選抜し、
「そいつが隊列の後ろまで下がって、前からの指示を伝えた。今日はどこそこで休憩するとかね。これは例外なく、巧くて速いライダーの役目だった」
こうして、いわば休日のアクティビティと癒しのギアであったバイク世界だったが、ある日から、もっと速く走りたいとか、もっと巧くなりたいといった風潮が生まれてくる。
「それはやっぱり、1957年以後です。つまり、浅間の火山レースをみんなが見た。《浅間》が火をつけたんですね。《浅間》以前は、アマチュアはそんなに本気で走ってなかった。
そしてその頃から、外国のレース関連のニュースも入ってくるようになった」
なるほど、やっぱり日本のレースの原点は、1955年に浅間山麓の公道19.2kmで始まった第一回浅間火山レース(第一回全日本オートバイ耐久レース)を経て、専用コースに代わった1957年の第2回浅間火山レースが開催された≪浅間≫だったんだ!
……と思いかけたが、しかしリキさんは、ハナシはそんなに単純ではないという。「日本のレース」には、しっかり《浅間以前》の歴史があった、と。
そしてもうひとつ、あの「宣言文」である。
「(略)昭和三十年六月、英国にて毎年催されるTTレースに出場する決意を、ここに固めました次第でございます」これが掲げられたのは、何と、《浅間》に先立つ1954年のことであった。
……というわけで、私たちはもう少し、リキさんといっしょに、《浅間以前》の時代を探ってみることにしたい。
(第三回・了)
(取材・文:家村浩明)
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