マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第5回
富士登山から浅間へ


「1953年には、戦前のレースを復活させようとの気運が盛り上がり、(中略)オートバイ関係者は自社の性能を誇示しようと、あの手この手の方策を用い、レースではないが、パレードでもないといった、何とか競走の色彩をもったイベント開催を試みたのである。富士山吉田口から二合目への27キロを一気に走り登る競技、富士登山レース、正式には《富士二合目登破レース》は、当時のオートバイの優秀性を誇る絶好の機会ということで、自信あるメーカーはこぞって参加した」

リキさんは、その著書『サーキット燦々』のなかで、53年から54年という時期の日本のレース状況について、このように記し、「結局、この富士登山レースは、53年にはじまって56年まで、4回開催されています」と証言した。つまり、富士登山レースは、一回だけのアドバルーンではなかったのだ。

こうして、日本での二輪ロードレース開催への気運が高まりつつあった1953~54年に、日本を遠く離れた地球の裏側で、ある“事件”が起こっていた。そして、それを単に一過性の事件として終わらせず、技術者としてまたメーカーとして、ディープなところでそれを受けとめ、行動を起こしたメーカーがあった。

1954年2月、Hondaはサンパウロ市政400年祭における国際モーターサイクル・レースに、ドリーム号・改で出場。プロオートレースの選手の大村美樹雄が13位というリザルトを得る。

このときの“海外レース体験”が、実はあの「宣言」につながっていくのだが、ここではその前に、ようやく動きはじめたこの頃の日本のレース状況を見ておきたい。

「この頃、大島……というのは東京都の、つまり伊豆七島の大島ね、ここでイギリスのマン島レースみたいなことができないかとまじめに検討されたといいます。そのほかに、レース開催が可能な場所として、東北の牧場、四国の小豆島なんかも検討の対象だった」

こうした流れのなかから、浅間高原・北軽井沢周辺という案が浮上する。もちろん、レーシングコースなんかないから、この地域の公道を使用することが条件である。ただ公道とはいっても、当時はクルマ&バイクも少なく、観光シーズンを終えた秋口には人出も途絶えて閑散となる現実があった。こうして地元の協力を得ながら、同時に小型自動車工業会側も乗り気となって、浅間におけるレース開催への動きが加速する。

地元で最も協力的だったのは星野温泉の星野嘉助氏だった。……というより、星野氏の協力なしに、この浅間でのレース開催はあり得なかったであろう。星野氏はモータリゼーションに関してきわめて積極的であり、この時点ですでに送迎用のリムジンを持っていた。こうして、星野氏を中心とした地元の人々は、県、関係官庁を説得しつつ、レース開催への妥協点を探っていく。

「でも、すべて公道でレースをやるというのは、やっぱり、警察として容認できない。そこで、牧場を使う案がでてくるわけです」

北軽井沢に、県有地である浅間牧場があった。この牧場内の施設道路を中心に、レースコースを設定しようとしたのだが、

「ただ牧場だけでは長い距離を取れないので、ここで、牧場内と公道との組み合わせで行こうということになった」

こうして、スタート地点は北軽井沢、そして赤川、岩窟ホールや鬼押し出しなどを経る沿道の二級国道と合わせて、1周19.2キロのコースが設定された。しかし、その“サーキット”は、今日の常識ではうかがい知れないレベルの、ものすごいものであったようだ。

「当時は、県道は“険道”で、国道は“酷道”という時代……(笑)」

リキさんはその状況について、『サーキット燦々』のなかで以下のように描写する。

「国道を使ってのレースとはいうものの、火山溶岩地に造った道路だから、当時の四輪では走れないほどの、ザクザク、凹凸、岩石剥きだしの路面、路肩はとんがった溶岩ゴロゴロ、まさに酷道であり、実際に重傷者続出の、命の保証など絶対にないレースが実現したのである」

そして、公道使用のため、レースをやってもいいが、しかしタイムとスピードは絶対に公表しないという“堅い仁義”が県警と主催者との間で交わされた。

こうして、《浅間》を舞台にしたモーターサイクル・レースの準備が整った。1955年11月、正式名は「第1回全日本オートバイ耐久ロードレース」である「浅間高原レース」がついにはじまった――。

(第五回・了)

(取材・文:家村浩明)



「マイ・ワンダフル・サーキット」TOPページへ 大久保 力 プロフィール 前へ 次へ