マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第5回
サンパウロからマン島へ


1954年の2月、サンパウロ市政400年祭の国際モーターサイクル・レースに、Honda・ドリームが参加する。そして、13位という結果を得る。

このとき、この国際レースに「参加しようとした」メーカーは、実はHondaとメグロの2社だけ。この両社以外は、いわば「レースって何?!」という状態で、遠くブラジルまで人とマシンを運ぼうというメーカーは二つだけだった。そしてメグロは、現地入りしてのちにライダーがケガをしてしまい、本番は走れずに終わった。つまり、結果としてHondaだけが参戦したのだ。

では、この時期のHondaというのは、いったいどういった状況だったのか?

「52年から54年、Hondaはまあ倒産寸前だった。当時、日本には本格的なレースはなく、唯一大きな性能比べは富士山の二号目まで駆け登る“富士登山レース”ぐらいだがここでも負け続けてね。そんな危機を脱するには、そして宗一郎に“やる気”を起こさせるにはどうするか。また、対社内、あるいは対外的にも、意気消沈してる人たちをどうやって勇気づけるか。
だから藤沢さん(当時の専務)は、そんな危機を迎えて、対外的にいろいろ説明するよりも、社内を奮い立たせる! それを選んだんですね。
『どうかね、マン島にでもでるかね?』
藤沢さんは本田宗一郎に、こんな風にけしかけたんだと思う」

1954年の3月、こうしてHondaは、マン島TTレースへの参戦を宣言する。とはいえ、この時点で、どこかのレースにでられるようなレース用の車両を、Hondaがすでに持っていたわけではなかった。サンパウロのレースに参加したといっても、市販の実用車ドリームの排気量を125ccに縮小しただけの改造車で、ミッションも2速しかなかった。

「だから、宣言から、実際の参戦までには5年かかってます」

今日の視点では、この宣言は、のちのHonda二輪による世界完全制覇につながる輝かしき記念碑のひとつと見える。しかし、当時はどうだったのだろう? たとえばリキさんは、この宣言を当時、どこで見て、そしてどんな感想を持ったのか?

「ぼくは高1くらいの頃でしたね。この宣言は雑誌で見ました。そうか、HondaはいよいよTTに挑戦するんだ!……とは思ったけど、ただ、そのときのことを正直にいえば、いまひとつ意味不明だったね(笑)。

ただ、その熱意だけはわかった。TTレースにでられるようなクルマを作るメーカーになってやるんだ、と。いつかはマン島で走るんだ、と。そんな夢を持つメーカーなんだということは、ひしひしと伝わってきた」

たしかに、この50年代前半という時点では、日本の自動車/二輪業界はようやくヨチヨチ歩きをはじめたところであり、何とかブツをこさえてみよう……といったレベルだった。したがって、この時点での国際戦略など、イメージすらできなかったはず。(トヨタが純国産の乗用車クラウンをデビューさせるのは1955年である)

そんな日本の「1954年」に、世界へ挑戦するという宣言をしたメーカーがあったのだ。HondaというメーカーのこのDNAは、やはり、すごいとしかいいようがない。

「それと、いまよくそれを読んでみると、Hondaは世界へでていくと宣言してるけど、それが二輪に限るとは、ひと言もいってないのね」

そう、本田宗一郎によるこの「マン島宣言」の一節には、こんなフレーズがあるのだ。

「私の青年時代よりの夢は私の製作致しました自動車を以て全世界の自動車競争場裡に於て覇者となることで御座居ました」。

これにつづけて、

「終戦後二輪車なれば最初から四輪車のような尨大なる設備をしなくても企業として成り立つと考え、先ずこの分野に於て出発いたしました」

として、この54年の時点でHondaができることを述べている。 四輪のF1制覇にまで至るその後のHondaの歴史を考えると、この「宣言」の奥深さがあらためて見えてくる。

(第六回・了)

(取材・文:家村浩明)



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