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1955年11月、「第1回全日本オートバイ耐久ロードレース」、通称「浅間高原レース」がはじまった。写真は、125ccで優勝したYA1。この年に誕生したばかりのヤマハ発動機が、宣伝を兼ねて送り出したバイクである。
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ヤマハが浅間に持ち込んだマシンは、125ccにその全力を集中しての『YA1』、通称、赤トンボである。その軽量パイプフレームに2ストロークのエンジンを積む。そのマシンについて、リキさんは、
「赤トンボは、西独DKWのコピー・マシンだったけど、でも、これは本家をしのぐデキだった。とくにパーツは本家より上! ミッションはDKWは3速だったけど、これは4速になっていてね」
……という。
そして、そうしたハードだけでなく、このときのヤマハはレースへの参戦態勢が他社とは異なっていたとも。
「最後発だからというか、最後発ながらもというか、ともかくヤマハは“ワークス体制”を組んだ。レースに勝つべし!というプロジェクトですね。社内に二つのプロジェクト・チームがあって、どっちが用いた方策が実際のレースでは速いのか? こうした社内での闘いを経ての参戦だった。
ライダーも、このレースのためにプロやアマから速いのを集めて、そして猛特訓した。(オーバルの)オートレース出身者は、どうしてもコーナーで足をだしちゃうんだけど、ヤマハ・チームでは、ダートの125ccでそれをやるとロスになるとして、きびしく禁止した」
一方のHondaは、エンジンは4ストローク、ベンリィの変速機は3速で、あくまでも実用車ベースの改造車。それを操るライダーも社員からのセレクトだった。この結果、「第1回浅間」の125ccクラスでは、1位から4位を“ヤマハ・サーカス”と呼ばれたヤマハ・ワークスが独占することになる。
しかし、リキさんは語る。
「レースにはたしかに勝てなかったけれど、でも、Hondaにはフィロソフィーがあった。この時点で、はっきり4ストローク・エンジンにこだわって、それでレースもやった。
また、市販車の開発や発展につながる技術ということにもこだわった。『レースは走る実験室』というHondaのスタンスは、このときからのものです。結果的にいま、2ストローク・エンジンは一部のスポーツ車だけのものになって、今日の公道を走るバイクのエンジンは4ストロークが主役になっている。社会的存在であるメーカーとしての先見の明があったということ」
こうして、第1回の「浅間高原レース」は成功裡に終わり、二輪業界は、このような公道ではなく、パーマネントなサーキットの設営に向けて大きく動きはじめる。第2回の「浅間」は、そうした新設のサーキットで行なわれ、そして、その内容も大きく様変わりすることになる。
(第七回・了)
(取材・文:家村浩明)
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