マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第5回
浅間高原レース


では、ようやく開催にこぎつけた浅間でのレースとは、どういうものだったか?

レースは、コースの幅員がないために、2台ずつ、30秒間隔でスタートする「インターバル・スタート」方式が採られた。そして、参加メーカーはHondaをはじめとして19社。レースのカテゴリーは以下のように区分されていた。

・ウルトラ・ライトクラス = 125㏄
・ライト・クラス = 250㏄
・ジュニア・クラス = 350㏄
・セニア・クラス = 500㏄

このうち、250クラスではHonda・ドリームを押さえて、ライラックに乗った16歳の伊藤史朗が優勝した。350クラスでは、ドリームの大村美樹雄(サンパウロを走ったライダーである)、そして500クラスでは、ドリームを360ccにボアアップしたSDZを駆るHondaの鈴木淳三が優勝した。

では、最激戦区となった125クラスは? Hondaは、ここではすでに量産規模を整えはじめていた「ベンリィ」で闘う。スズキは、原付のダイヤモンド・フリーから発展させた本格オートバイの「コレダ」を投入。この「コレダ」というのは、バイクは「これだ!」ということからネーミングされたというのは、ウソのような実話である。さらに、ベビー・ライラック(丸正)、ミシマ、昌和といったブランド&メーカーがエントリーしていた。

そして、この群雄割拠というべきジャンルに、敢然と割って入ったメーカーがあった。 リキさんは語る。

「この55年に、最後発でバイクを作りはじめたメーカー。それが日本楽器、つまりヤマハですが、突然のように、この125クラスに挑んできたのです」

楽器メーカーをその出自とするヤマハは、1955年の1月に生産1号車を完成させ、7月に新生「ヤマハ発動機」として発足していた。その新参のメーカーが、11月に行なわれるこの浅間でのレースに参加しようというのである。そして、その戦略は明確なものだった。

「最後発メーカーとしての、また新参としての最大のアピールは何かと考えたんですね。そして、55年に実施が計画されていたこのレースをターゲットにした。そういう明確なミッションとともに、ヤマハは浅間へ向けての必勝作戦を組む」

1955年11月、「第1回全日本オートバイ耐久ロードレース」、通称「浅間高原レース」がはじまった。写真は、125ccで優勝したYA1。この年に誕生したばかりのヤマハ発動機が、宣伝を兼ねて送り出したバイクである。

ヤマハが浅間に持ち込んだマシンは、125ccにその全力を集中しての『YA1』、通称、赤トンボである。その軽量パイプフレームに2ストロークのエンジンを積む。そのマシンについて、リキさんは、

「赤トンボは、西独DKWのコピー・マシンだったけど、でも、これは本家をしのぐデキだった。とくにパーツは本家より上! ミッションはDKWは3速だったけど、これは4速になっていてね」

……という。

そして、そうしたハードだけでなく、このときのヤマハはレースへの参戦態勢が他社とは異なっていたとも。

「最後発だからというか、最後発ながらもというか、ともかくヤマハは“ワークス体制”を組んだ。レースに勝つべし!というプロジェクトですね。社内に二つのプロジェクト・チームがあって、どっちが用いた方策が実際のレースでは速いのか? こうした社内での闘いを経ての参戦だった。

ライダーも、このレースのためにプロやアマから速いのを集めて、そして猛特訓した。(オーバルの)オートレース出身者は、どうしてもコーナーで足をだしちゃうんだけど、ヤマハ・チームでは、ダートの125ccでそれをやるとロスになるとして、きびしく禁止した」

一方のHondaは、エンジンは4ストローク、ベンリィの変速機は3速で、あくまでも実用車ベースの改造車。それを操るライダーも社員からのセレクトだった。この結果、「第1回浅間」の125ccクラスでは、1位から4位を“ヤマハ・サーカス”と呼ばれたヤマハ・ワークスが独占することになる。

しかし、リキさんは語る。

「レースにはたしかに勝てなかったけれど、でも、Hondaにはフィロソフィーがあった。この時点で、はっきり4ストローク・エンジンにこだわって、それでレースもやった。

また、市販車の開発や発展につながる技術ということにもこだわった。『レースは走る実験室』というHondaのスタンスは、このときからのものです。結果的にいま、2ストローク・エンジンは一部のスポーツ車だけのものになって、今日の公道を走るバイクのエンジンは4ストロークが主役になっている。社会的存在であるメーカーとしての先見の明があったということ」

こうして、第1回の「浅間高原レース」は成功裡に終わり、二輪業界は、このような公道ではなく、パーマネントなサーキットの設営に向けて大きく動きはじめる。第2回の「浅間」は、そうした新設のサーキットで行なわれ、そして、その内容も大きく様変わりすることになる。

(第七回・了)

(取材・文:家村浩明)



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