マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第9回
新設パーマネント・コースのナゾ


こうして、浅間高原に出現したわが国初の「パーマネント・コース」だが、これまた、今日の眼からはナゾが多い“サーキット”である。

古い浅間でのレース写真を見た人なら、バイクが路面を蹴立てるように走っており、そして煙だか砂塵だかを巻き上げながら走行していることに驚いたことがあるはずだ。今日の基準なら、そんな走りをするのはダート・トラックやモトクロスと思われるが、しかし、「浅間」を走っていたのはあくまでもロード・レーサーだった。

さあ、リキさんに訊こう! そもそも、路面がヘンですよね?(笑)そして、このパーマネント・コースっていうのは、どういうサーキットだったんですか?

「路面はねえ(笑)、まあ、言葉でいえば『ザクザク』……かな」
「溶岩を砕いて、それを敷き詰めていた。ローラーをかけて整地してね」

ザクザクの路面を行く、250ccライトクラス。左から、砂子儀一(65番=2位)、下良睦夫(66番=3位)、益子治(75番=優勝)のトップ3。

新設・浅間コースの路面は、ダート(泥)でも砂でもないものだった。そしてもちろん、ここでモトクロスをやろうとしたのでもない。

「求めたのは、あくまでも平らな路面です。だから(コース設定に)アップダウンはない。煙を上げて走ってるのは見たことあっても、浅間の写真で、マシンが飛んでいるのは見たことないでしょ?」

……なるほど! コンセプトは、フラット路面でのバイクのレース。ただし、細かい火山灰を簡易に敷いただけだったので、

「路面は一応固めてはあったけれど、バイクが一台走ると掘られて、ワダチができてしまう。それを繰り返すと、火山灰がだんだんコースサイドにたまって、壁みたいになってくる。だから各ライダーは、路面のいいところ、走りやすいところを探して走った」

しかし、なかには異例ともいえる腕力を持ったライダーもいた。第1回の浅間・250ccクラスをライラックで制した伊藤史朗である。

「でも、《伊藤史朗》だけは、そのザクザクの山のなかに入って行けた。だから、他人と違うラインも取れた。これはこの年じゃなくて、58年のクラブマン・レースの話になるんだけど、あの扱いにくいアールズ・フォークのBMWで、雨でぬかった火山灰の浅間を自由自在に攻め、伝説になった」

リキさんは、もう一度、この浅間火山レースでの路面について、

「この路面に最も似ているのは、道路の舗装をしようというとき、アスファルトやコンクリートを敷く前に、まず砕石を敷き詰めますね。その状態での、とっても程度の悪い舗装の……。こう考えてください」

……と語るのだが、うーん、道路が未舗装の状態から舗装になるというその経緯と段階を、いまの多くの人は目にする機会がないかもしれない?! ともかく、そんな特殊な路面で、浅間での2度目のレースは行なわれたのだった。

(第九回・了)

(取材・文:家村浩明)



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