前述のように、浅間に「コース」は出現したが、その建設の目的をテストコースとしたため、観客席のようなものははじめから設定されなかった。しかし、そういった“環境”であったにもかかわらず、この第2回浅間火山レースは6万5000人という観客を集めた。もちろん、リキさんも、そのひとりである。
「観客数は、実際にはそれ以上だったと思うね。ぼくは、このレースの開催は雑誌の記事で知った。それで、友だちと連れだって、バイクで碓氷峠を越えた。あ、二人乗りじゃなくて、それぞれがバイクでね。ぼくがこのとき乗っていったのはトーハツの250cc」
そして、リキさんはつづける。
「(レースの)どこに感動したかといったら、それはもう、全部!です(笑)。見るものすべてが新鮮だった」
「そして、自分が恥ずかしかったね! オートバイに乗る、それを乗りこなすっていうのは、ああ、こういうことなんだ!と思った」
「《レース》が目の前で見せてくれる、そのスピード、迫力、そして各ライダーのコーナリングのテクニック、そんなすべてに魅了された」
「……いやライディングってね、自分ではけっこう巧いと思っていたのよ。でも、とんでもなかったね(笑)。だからこそ、こんなことを自分でもやってみたいと思った」
高校の仲間同士で、ツーリングや、河原でのライディングなどを楽しんでいたリキさんだったが、浅間で、目の前で繰り広げられた“ワークス・ライダー”たちの異次元ともいえるテクニックやファイトに圧倒された。そして、この“浅間体験”が、リキ少年の人生を変えた。
「57年のレースを観て、“入り込んだ”ね。これはやりたい! これが俺のやりたいことだと思った」
かくしてリキさんは、浅間でレースを観たその1年後、「クラブ」の門を叩く。めざしたのは、地元・東京府中の名門「東京オトキチクラブ」だった。
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