1957年・第2回の浅間レースで、はじめてレース専用のコースで闘った各メーカー。観客動員といった面でも大きな盛り上がりを見せたが、しかし、それ故にというべきか、レースに対する各メーカー間の温度差も、同時に生じてきた。
二度目の浅間レースは、当時の表現でいう「工場レーサー」、いまのいい方ならワークス・マシン同士の激突だった。そして、そのバトルの激しさが、そうした“戦争”についていけるメーカーと、そうでないメーカーという区分をつくりはじめたのだ。
そこから、業界内で論議が起こる。次回のレースは、いったい、いつ開催すべきか? そして、どんなレギュレーションでやるか?
「業界のなかに、二つの見解がありました。まずは、これは毎年やろうという積極論。そしてもうひとつは、こういうレースは1年おきくらいでいいのでは……というもの。積極論を唱えたのは、外国のバイクに早く追いつきたい、レースという場で技術を磨きたいという願いを持ったメーカーで、この路線の代表格がホンダでした」
ただ、日本の二輪車産業を発展させるのに、大幅な改造を施したワークス・マシンの闘いでいいのか、それは本来の目的から外れるのではないかという意見も、一方からはでてくる。
「結局、モメにモメたあげくに、毎年やるなら市販車でやるべし。いいかえると、市販車でレースするなら、毎年開催でも何とかやれるのではということで、業界内部で一応の一致を見た」
しかし、このレギュレーション(市販車で)もまた、そう簡単なものではない。
「でも、市販の実用車をベースにするというのはいいとして、では、レース走行に向けて、どのくらいの改造を許すのか。何がよくて、何がいけないか。こういった検討をしているうちに、時間だけはどんどん経ってしまうわけです」
「それならと、今度は、レースはやっぱり工場レーサーでやるのがいいという巻き返しが起こったりする。そして、そのレギュレーションでのレースを1958年10月に開催する……というところまで、いったん行くんだけど、でも、実際に各社に参加の意思を問うと、ホンダ、クルーザー、ポインターの3社しか手を挙げなかったり」
結局、盛り上がりを見せた「57年・第2回浅間」の翌年――1958年のレースは、レギュレーションを決めきれず、時間切れで開催不可能となってしまう。そして、第3回の浅間レースは(57年から1年おいた)「1959年」の開催とする。このことが、日本自動車工業会・二輪車部会によって正式に決定された。
「こうしたメーカー相互の論議や経緯が、一般に向けて明らかにされることは、もちろんありませんでした。ただ、58年の浅間レースは『ない』ということ、これははっきりと記事化された。時期的には、58年の冬だったですね」
観客席もないような火山灰のコースに数万の観客が集まる。そんな盛り上がりを見せた「浅間レース」が、何と、1年間の空白とともに先送りされる。このニュースは、あっという間に全国のファンの間に広まった。
そしてそこから、注目の動きがでてくるのだが、その「動き」とも関連する当時のバイク状況をまず見ておくべきと、リキさんはいう。
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