マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第11回
第3回の浅間レースはどうなる?


1957年・第2回の浅間レースで、はじめてレース専用のコースで闘った各メーカー。観客動員といった面でも大きな盛り上がりを見せたが、しかし、それ故にというべきか、レースに対する各メーカー間の温度差も、同時に生じてきた。

二度目の浅間レースは、当時の表現でいう「工場レーサー」、いまのいい方ならワークス・マシン同士の激突だった。そして、そのバトルの激しさが、そうした“戦争”についていけるメーカーと、そうでないメーカーという区分をつくりはじめたのだ。

そこから、業界内で論議が起こる。次回のレースは、いったい、いつ開催すべきか? そして、どんなレギュレーションでやるか?

「業界のなかに、二つの見解がありました。まずは、これは毎年やろうという積極論。そしてもうひとつは、こういうレースは1年おきくらいでいいのでは……というもの。積極論を唱えたのは、外国のバイクに早く追いつきたい、レースという場で技術を磨きたいという願いを持ったメーカーで、この路線の代表格がホンダでした」

ただ、日本の二輪車産業を発展させるのに、大幅な改造を施したワークス・マシンの闘いでいいのか、それは本来の目的から外れるのではないかという意見も、一方からはでてくる。

「結局、モメにモメたあげくに、毎年やるなら市販車でやるべし。いいかえると、市販車でレースするなら、毎年開催でも何とかやれるのではということで、業界内部で一応の一致を見た」

しかし、このレギュレーション(市販車で)もまた、そう簡単なものではない。

「でも、市販の実用車をベースにするというのはいいとして、では、レース走行に向けて、どのくらいの改造を許すのか。何がよくて、何がいけないか。こういった検討をしているうちに、時間だけはどんどん経ってしまうわけです」

「それならと、今度は、レースはやっぱり工場レーサーでやるのがいいという巻き返しが起こったりする。そして、そのレギュレーションでのレースを1958年10月に開催する……というところまで、いったん行くんだけど、でも、実際に各社に参加の意思を問うと、ホンダ、クルーザー、ポインターの3社しか手を挙げなかったり」

結局、盛り上がりを見せた「57年・第2回浅間」の翌年――1958年のレースは、レギュレーションを決めきれず、時間切れで開催不可能となってしまう。そして、第3回の浅間レースは(57年から1年おいた)「1959年」の開催とする。このことが、日本自動車工業会・二輪車部会によって正式に決定された。

「こうしたメーカー相互の論議や経緯が、一般に向けて明らかにされることは、もちろんありませんでした。ただ、58年の浅間レースは『ない』ということ、これははっきりと記事化された。時期的には、58年の冬だったですね」

観客席もないような火山灰のコースに数万の観客が集まる。そんな盛り上がりを見せた「浅間レース」が、何と、1年間の空白とともに先送りされる。このニュースは、あっという間に全国のファンの間に広まった。

そしてそこから、注目の動きがでてくるのだが、その「動き」とも関連する当時のバイク状況をまず見ておくべきと、リキさんはいう。

荷物運搬専用車としてのバイクから娯楽へ。変わり始めたバイクのニーズに呼応して、ホンダが送り出したドリーム・スポーツCS-71。スポーティな“アップマフラー”が話題を呼んだ。

「浅間レース開催と相前後して、バイクとその状況が変わりはじめた。まず、バイクの《用途》が、荷物運びからツーリングなどの娯楽にも向き始めたこと。そして、その流れに乗るかたちで、そうしたニーズに対応するスポーツ・バイクが登場しはじめる」

「その代表がホンダのドリームで、なかでもノーマルのC71をアップマフラーにしたドリーム・スポーツCS-71が注目を集めた。さらに、ヤマハからはYD-1。250ccクラスのこの2車が、そうしたスポーツ志向を代表するモデルでした」

このCS-71は、ノーマルのマフラーを持つ基準車よりも2馬力強い、4ストローク20馬力のエンジンを搭載。シートも、後席と一体でつながったタンデムタイプで、また燃料タンクにはニーグリップがついていた。価格18.2万円。

ちなみに、ライバルのヤマハYD-1は2ストローク・エンジンで14馬力。そして車重は、CSの158kgに対して149kg、価格は18.5万円。そして、エンジンのボア×ストロークは54×54mmのスクエアであるというのは、両モデルに共通していた。

「こうして、スポーツ方向に向かってバイクが進化したのはいいんだけど、それといっしょに、そういうバイクを、どこでどう使うかという問題がでてきた。それまでのように、河原あたりで練習と称して走ってるときはまだよかったんだけど、この頃になると、街なかでのレースごっこに発展しちゃったのね」

「それと《音》です。もっと速く走りたい、じゃあ、エンジンのパワーを上げたい。それの一番簡単な“チューン”が消音器を外すことだった。こうすればパワーがでると信じられていてね(笑)」

「当然、すごい音をだしてバイクが走り回ることになり、この騒音が57年頃から社会問題化していた」

さらに、「そうそう、チューンといえば……」と、リキさんは苦笑いしてつづける。「洗濯ばさみ! でもこれ、いまの人にわかるかなあ? エンジンの冷却フィンに洗濯ばさみをつけるんだけど?(笑)」

わかりにくさのひとつは、洗濯ばさみの材質が変わってしまったことだろう(注1)。当時は今日のようなプラスチック製ではなく、アルミの薄板を成型したもので、つまり洗濯ばさみは当時、誰でも買えた“軽金属のパーツ”だったのである。

そして、近年のように、高性能のバイクエンジンは水冷が主流という時代でもなく、この時代は、剥きだしの空冷エンジンには、走行風に向けてのフィンが切ってあった。このチューンとは、そのフィンに、アルミ洗濯ばさみを大量にくっつけることだった。

冷却フィンの面積を何らかの方法で拡大してやれば、冷却効率は上がる?! この理屈に乗ったもので、アルミのパーツでフィンを“長く”してやり、そしてエンジン全体を“大きく”してやれば、オーバーヒートが防げると考えたのだ。

日本におけるバイクが、浅間でのレースによって、荷物運びから脱してモータースポーツに接近した。このことは、歴史的必然であったかもしれないが、一方、対社会的には、いくつかの弊害も生みはじめていた。

・注1: 某ホームセンターで、最新の洗濯ばさみ状況をチェックしてみると、往時のアルミ製はもちろん消えていた。ただ、より挟む力を強めたものとして、スチール+メッキという素材の新タイプがあることがわかった。この強力タイプなら高速走行をしても外れず、かつてのアルミより使い途があるかもしれない?

(第十一回・了)

(取材・文:家村浩明)



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