「戦後の復興を支えた重要な輸送用途から、人の移動に重宝なもの、すなわち乗用目的が顕著になってゆくとともに、ライディングにスポーツ性を感じる予兆のような傾向が生まれ、オートバイは新たな存在となってゆくのである」
リキさんは、1957年前後の状況について、著書『サーキット燦々』のなかで、このように記す。
1958年の、メーカーによる浅間火山レースは中止となった。そして一方で、バイクに乗ることが《スポーツ》になってきていて、多くの人が「スポーツ的に」バイクに親しみはじめる。しかし、そのスポーツ性を一般アマチュアが体感できる場がない。(だから公道での“発散”になってしまう!)
こうしたなか、ひとつの提案が生まれてきた。提案者は、二輪車誌「モーターサイクリスト」を主宰する八重洲出版の酒井文人氏。そしてその提案とは、アマチュアでも浅間火山レースのようなスピード・レースができないものか、であった。
「街なかでウォンウォンやるのではなく、バイクのほんとうの走りとは何かということ。それをアマチュアにも指導したい、体感させたい。では、どこで? ここで、58年は開催中止が決まっていた、浅間コースが浮上する」
1958年3月、酒井文人氏は、「第1回浅間クラブマンレース」開催の発表に踏み切る。そしてそれは全国的に大きな反響を呼び、各地からの問い合わせが殺到する。
「このときの酒井さんは、まだ34歳くらいでしょう。新興バイク出版社の若造が何をいう? こんな反発もあってか、いろんな中傷もあった。本を売るためだろう、とかね」
「でも、当事者というべきほとんどの《クラブ》は、この開催宣言に対しては協力的でした。ハイ・スピリッツ、東京オトキチクラブ、スポーツライダースといった有力どころも、こぞってサポートに回った」
「それと、大きかったのは、米軍(のクラブ)の賛同があったことです。基地の愛好家で作っていた『オールジャパン・モーターサイクル・クラブ』と、それに所属する軍人のライダーが、この話しに乗ってきた」
そしてもうひとつ、アマチュアだけでレースをやろうという、この破天荒な試みにあたたかい手をさしのべた組織/メーカー/個人があった。浅間高原のテストコースを管理する、浅間テストコース協会理事長、ホンダの藤沢武夫氏(専務=当時)である。
「そして藤沢さんが、コースも貸す、協力資金もだす……というのと同時に、的確なアドバイスをされる。それが、一出版社で主催するというのではなく、この際、全国のクラブの連合体を作って、その団体がレースを開催するというかたちを取った方がよいのではないか、でした。そうしたアマチュア団体に対してコースを貸す。この方が協会としても話しをすすめやすいということですね」(大久保)
これが今日にまでつながるクラブ連合「全日本モーターサイクルクラブ連盟」(MCFAJ)の端緒である。
こうして、「1958年8月24日、全国43のクラブから120車が参加する、わが国初のアマチュアライダー=クラブマンによるレースが、ここに誕生する」(『サーキット燦々』より)
著書にこう書いたリキさんは、さらにつづけて、
「このレースの開催が決まって、そのため、6月頃から、浅間に週末に練習に行くクラブやライダーが出現しはじめる。そうすると、土日の観光地・軽井沢に、オートバイの騒音が響くことになります。そしてそのバイクが、前述のように“チューン”してあって(笑)これは何だ、音がうるさいぞ、と」
「そしてもうひとつ、さっき米軍のクラブが浅間レースへ積極的に参加したという話しをしましたが、このレースによって、エントラントであった米人ライダーとホンダとの間にコンタクトが生まれた。そしてこれが実は、ホンダの『マン島』へとつながっていくんです!」
|