マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第13回
豪雨の浅間、クラブマンの奮戦!


しかし、その「浅間クラブマンレース」の挙行は、さまざまな意味で“穏やかならざる”ものとなった。

まずひとつは、天候である。1958年8月24日の関東地方は、台風17号の襲来で豪雨に見舞われ、浅間の火山灰のコースはほとんど泥沼状態となった。

そして、もうひとつのトラブルは参加車両の問題だった。クラブマン(アマチュア)レースといいながら、一部の参加車両は「工場レーサー」ではないかというクレームが上がり、結局、「工場レーサーらしき」と認定されたマシンは、「模範レース」という特別クラスで走行するという決定を、現地で行なわなければならなかったのだ。

しかし、こうした悪条件のなかでも、このレースは中止しようというエントラント/チームは、ひとつもなかった。主催者である酒井氏は、あまりの悪天候のため、「選手諸君の意向を尊重する」として意見を求めたが、すべての参加者が雨中決行の意志を示したのである。

この「模範レース」問題について、リキさんは以下のように語る。

「レースの半月くらい前でしたね、『ホンダ・スピード・クラブ』が工場レーサーといっしょにアマチュアのレースに入ってくる、そのマシンは他のクラブにも貸与されてるらしい……というウワサが飛び交った。

「その『他のクラブ』というのは、実は、うちの『東京オトキチクラブ』と『高崎オートクラブ』だったんだけど(笑)。それで、この三つのクラブ以外から、あんなクルマと走る(レースする)のか?! それならレースはボイコットするぞと、事態はそんなところまで進んじゃった。それが8月24日の現場まで持ち越された」

「ホンダとしては、自製のマシンをレースという場で試したい。でも他のクラブは、そんなクルマは走らせたくない。ここからの妥協案が、工場レーサーと“思われる”ものは『模範レース』に回ってもらう、というものだった」

このときの主催者の判断は、このホンダのベンリイとドリームについて、「工場レーサーの範疇ではないが、しかし、本レースのクラブマン車両のレベルを超えすぎている部分がある」であった。

この判断と、「模範レース」カテゴリーの新設をホンダ・スピード・クラブの鈴木義一主将が受け入れ、浅間のクラブマン・レースは(ボイコットされることなく)開催に至る。

さて、その「模範レース」は第4レースとして設定され、125・250・350cc3クラスの14台混走、3周で行なわれた。2気筒125ccOHCのベンリイ新型マシンや、田中てい助、藤井璋美、神谷忠、増田悦夫、佐藤幸男といったホンダ・ライダーの走りに注目が集まった。

また、この日のクラブマン125ccレースには、15歳の生沢徹選手がレース・シーンに初めて登場していた。彼の年齢から、原付以上の免許は取れなかったため、50ccのダンディ50というマシンで、このクラスを走った。さらに、350ccジュニア・クラスでは、18歳の高橋国光選手がBSAゴールドスターを駆ってデビュー・ウィンを飾っている。

そして、雨中の観衆2万5000人にとってのメインイベントとなったのは、10周で争われる「国際クラブマン・レース」だった。そのレギュレーションはオープン! 排気量・国籍・市販レーサー・市販改造車など一切問わずの何でもアリで、エキジビション扱いにはなっているものの、観衆が一番観たかったのはこのレースでもあった。

写真上:運悪く台風17号の襲来を受けた1958年8月24日。泥沼と化した火山灰のレースのスタートを待つ大観衆。力さんはヘルパーとして、この中に混じって時代の息吹を感じていた。
写真下:排気量・国籍・市販レーサー・市販改造車など一切問わずの何でもアリで観客の注目を集めた「国際クラブマン・レース」に参加した秋山邦彦のホンダ・ドリームC75Z/305cc。

これにエントリーしたメンバーは壮観で、まず、伊藤史朗/BMW・R69、高橋国光/BSAゴールドスター、望月修/BMW・R69、本田和夫/トライアンフ。そして、ホンダ・ドリームC75Z/305ccで、鈴木義一、秋山邦彦、谷口尚己、田中健二郎が参戦。さらに、アメリカ(米軍)から、ビル・ハント、ホーレンベック、バーネットらのトライアンフ650ccトロフィーバードが加わっていた。

以下、このレースを、『サーキット燦々』のヴィヴィッドな描写とともに見てみよう。

「スタートラインでは、冷気でなかなか暖まらないウォーミングアップのエンジンサウンドが地表の細霧を蹴散らす」。BMWの水平対向、トライアンフの直立2気筒、そしてそれらがレーシングチューンされているのだ。そして、

「まさに轟音と、豪快とはこのことをいうのだろう、それ以上の表現なく、全車いっせいにスタートする」。まず先行したのは、伊藤/BMW、田中/ドリーム、ハント/トライアンフ、杉田/メグロ、鈴木/ドリーム、そして谷口/ドリームだった。

2周目の後半、伊藤の小さなミスを逃さずついたハントが、伊藤をパス。そしてその差が開いていく。「アールズフォークとシャフトドライブの純レーサーを、世界未曾有の泥濘路面で走らせるのは、いかに天才ライダーでも至難のわざのように見え」、伊藤は土手の上にコースアウトして、キャブレターのカバーを壊す。

残り2周、本田和夫、秋山邦彦、鈴木義一、立原義次/ヤマハ、そして伊藤史朗がビル・ハントを追うが、ハントははるか彼方(伊藤は結局6位でフィニッシュ)。このときハントはただひとり、雨に備えて、「ゴーグル下.部のレンズを切り取り、僅かのすき間から裸眼で見る工夫を」していた。

すでにデイトナなどでレース出場のキャリアを持っていたハントの勝利。そして、2位が同じくトライアンフの本田和夫。そのトラに、ファイナル時には10秒遅れまで迫っていたのが、鈴木義一と秋山邦彦のホンダ・ドリーム305ccだった。

「模範レースには、観客はまあ冷ややかだったけど、この国際レースの盛り上がりはすごかった。何といっても《音》ですね! 大排気量のレーシングサウンドの魅力、これに圧倒された!」

……というリキさんは、雨のなか、ゴム引きのカッパに身を包んで、この浅間の現場にいた。東京オトキチクラブの一員として、このレースでのエントラントのひとりでもあった。

「うーん、寒かった!(笑)だから、たき火してね」

若きリキさんはこのとき、ヘルパーとして浅間のクラブマン・レースに参加し、これ以後も、レースの世界へさらに深くかかわっていくことになる。

ところで、いま気づいたのだが、浅間のエントラントたちは、タイヤはどうしていたのだろう? 何度も書くように、浅間コースは火山灰で、世界に類例がないもののはず?

「ひとつは、プロのオートレース用のものを持ってきていた。船橋のオートレースは、ダートトラックだったんで、それを使うという方策があった。キャラメル・タイヤといっていたかな」

「あとは、“焼き付けタイヤ”というのが、当時あってね。すり減ったタイヤを、まず丸坊主にして、そこに新しく『ブロック』を貼りつけたものを使った。当時のタイヤショップというのは、一種のタイヤ再生産工で、大きなところではカマを持っていた。そのワザを、ダート用タイヤの“製造”に使ったんですね」

「もうひとつの方法は、貨物用の6プライくらいの新品タイヤを持ってきて、それを山刀みたいなナイフで削って、表面をボコボコにするとか。まあチームの規模と予算に応じてね(笑)いろんな工夫をしてた」

「6月から7月にかけての、浅間コースでの練習期間というのは、各クラブ間の、こうした情報交換の場になっていましたね」

(第十三回・了)

(取材・文:家村浩明)



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