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写真上:運悪く台風17号の襲来を受けた1958年8月24日。泥沼と化した火山灰のレースのスタートを待つ大観衆。力さんはヘルパーとして、この中に混じって時代の息吹を感じていた。
写真下:排気量・国籍・市販レーサー・市販改造車など一切問わずの何でもアリで観客の注目を集めた「国際クラブマン・レース」に参加した秋山邦彦のホンダ・ドリームC75Z/305cc。
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これにエントリーしたメンバーは壮観で、まず、伊藤史朗/BMW・R69、高橋国光/BSAゴールドスター、望月修/BMW・R69、本田和夫/トライアンフ。そして、ホンダ・ドリームC75Z/305ccで、鈴木義一、秋山邦彦、谷口尚己、田中健二郎が参戦。さらに、アメリカ(米軍)から、ビル・ハント、ホーレンベック、バーネットらのトライアンフ650ccトロフィーバードが加わっていた。
以下、このレースを、『サーキット燦々』のヴィヴィッドな描写とともに見てみよう。
「スタートラインでは、冷気でなかなか暖まらないウォーミングアップのエンジンサウンドが地表の細霧を蹴散らす」。BMWの水平対向、トライアンフの直立2気筒、そしてそれらがレーシングチューンされているのだ。そして、
「まさに轟音と、豪快とはこのことをいうのだろう、それ以上の表現なく、全車いっせいにスタートする」。まず先行したのは、伊藤/BMW、田中/ドリーム、ハント/トライアンフ、杉田/メグロ、鈴木/ドリーム、そして谷口/ドリームだった。
2周目の後半、伊藤の小さなミスを逃さずついたハントが、伊藤をパス。そしてその差が開いていく。「アールズフォークとシャフトドライブの純レーサーを、世界未曾有の泥濘路面で走らせるのは、いかに天才ライダーでも至難のわざのように見え」、伊藤は土手の上にコースアウトして、キャブレターのカバーを壊す。
残り2周、本田和夫、秋山邦彦、鈴木義一、立原義次/ヤマハ、そして伊藤史朗がビル・ハントを追うが、ハントははるか彼方(伊藤は結局6位でフィニッシュ)。このときハントはただひとり、雨に備えて、「ゴーグル下.部のレンズを切り取り、僅かのすき間から裸眼で見る工夫を」していた。
すでにデイトナなどでレース出場のキャリアを持っていたハントの勝利。そして、2位が同じくトライアンフの本田和夫。そのトラに、ファイナル時には10秒遅れまで迫っていたのが、鈴木義一と秋山邦彦のホンダ・ドリーム305ccだった。
「模範レースには、観客はまあ冷ややかだったけど、この国際レースの盛り上がりはすごかった。何といっても《音》ですね! 大排気量のレーシングサウンドの魅力、これに圧倒された!」
……というリキさんは、雨のなか、ゴム引きのカッパに身を包んで、この浅間の現場にいた。東京オトキチクラブの一員として、このレースでのエントラントのひとりでもあった。
「うーん、寒かった!(笑)だから、たき火してね」
若きリキさんはこのとき、ヘルパーとして浅間のクラブマン・レースに参加し、これ以後も、レースの世界へさらに深くかかわっていくことになる。
ところで、いま気づいたのだが、浅間のエントラントたちは、タイヤはどうしていたのだろう? 何度も書くように、浅間コースは火山灰で、世界に類例がないもののはず?
「ひとつは、プロのオートレース用のものを持ってきていた。船橋のオートレースは、ダートトラックだったんで、それを使うという方策があった。キャラメル・タイヤといっていたかな」
「あとは、“焼き付けタイヤ”というのが、当時あってね。すり減ったタイヤを、まず丸坊主にして、そこに新しく『ブロック』を貼りつけたものを使った。当時のタイヤショップというのは、一種のタイヤ再生産工で、大きなところではカマを持っていた。そのワザを、ダート用タイヤの“製造”に使ったんですね」
「もうひとつの方法は、貨物用の6プライくらいの新品タイヤを持ってきて、それを山刀みたいなナイフで削って、表面をボコボコにするとか。まあチームの規模と予算に応じてね(笑)いろんな工夫をしてた」
「6月から7月にかけての、浅間コースでの練習期間というのは、各クラブ間の、こうした情報交換の場になっていましたね」
(第十三回・了)
(取材・文:家村浩明)
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