マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第16回
そして“最後のアサマ”へ


ここではもう一度、海外での華々しい活動と並行して展開した1958~59年頃の国内の状況を見てみる。

1958年に初めて行なわれた浅間コースでの「クラブマン・レース」は大いに成功を収めたが、同時に、こうした「浅間的」なスピードレースはけっこうシビアであり、もっと気楽に入って行けて、多くの人に楽しめるような“競い合い”はないものか。

クラブ連盟は、こんな模索もはじめていたが、そのひとつが「モトクロス」だった。この種の競技は、実は1955~56年頃から、米軍の基地内で不整地を利用し、ジャンピング・スポットも設定したりして「スクランブル・レース」という名で行なわれていた。

(この呼び名に合わせて、日本メーカーは市販車のラインナップに「スクランブラー」という仕様を加えてもいた)

ただ、そうした米語ではなく、イギリス風に「モトクロス」と呼ぼうという声が上がり、奈良県の信太山(しのだやま)で、全日本モトクロス大会が行なわれたのは、1959年の4月だった。

このとき、排気量問わずのオープンクラスで、Hondaディーラーのメカニックだった18歳の少年がモトクロス・デビューした。その少年の名は「北野元」。

そして、夏の浅間、8月に行なわれる予定の、1年の空白を受けてのメーカー対抗の耐久レースでは、大盛況だった例の「クラブマン・レース」と、このワークス・バトルである「浅間火山レース」を「併催」したらどうかという流れが生まれてきた。

「自工会もね、アマチュアのレースであんなに観客が集まるのかという驚きがあって、だから、それとメーカー・レースをくっつけたら、もっと大きな大会にできるなと思ったわけ」

「そこに、浅間を走れるなら行きましょうという感じで、北野もエントリーした。まあ、それまでに浅間を走ってた連中は、いくら信太山で速かったからといって、浅間とはカテゴリーが違う、通用しないよ……と思ってたけどね」(大久保)

写真上:“見たこともないようなスーパーマシン”として1959年の「浅間」に登場し上位を独占したRC160。
写真下:1959年をもって「浅間」はその幕を閉じることになった。最後の、そして最大の浅間を前に、レーサーの前でポーズを取る本田宗一郎。(Photo by Heiji Mizunuma)

……おっと、話が先へ行ってしまったが、ということで、1959年の「浅間レース」は、メーカー対抗の「全日本オートバイ耐久ロードレース」としては第3回であり、そして、「全日本モーターサイクル・クラブマンレース」としては第2回であるということになったのだ。(ちょっと、ややこしい!(笑))

大会は、1959年8月の22~24日という三日間で行なわれた。そして、クラブ連盟からの申し出が受け入れられ、クラブマン・レースで上位3位までに入ったライダーは、メーカー対抗である「耐久ロードレース」に出場できることになった。

この「耐久ロードレース」のクラスは、125cc、250cc、350cc、500ccの4つ。そして出場メーカーは、Honda、スズキ、トーハツ、クルーザー、ライラック、フジモーター、ホスク、メグロの8社だった。

ただ、今回こそ「打倒ヤマハ!」をめざしていたHondaだったが、このエントリーからわかるように、ヤマハは「耐久ロードレース」には出場しなかった。このときヤマハは、クラブマン・レースに出場する各クラブのサポートをするという体制を取ったのである。

そして、この浅間レースで、センセーショナルなことが起こった。

あの「北野元」は、クラブマンの125ccで、まず優勝。そして、台数が多かったため2クラスに分けられたクラブマンの250ccで、最も最上位のタイムであったので、ここでも優勝。

規定により、メーカー対抗である「耐久ロード」を走る権利を得た北野は、市販スポーツ車・改であるベンリィSSで、125ccクラスに出場。

そして、谷口尚巳/Honda RC142、あるいは伊藤光夫/スズキ・コレダRBといったワークスライダー/工場レーサーに果敢に挑み、何と独走で優勝してしまうのである。

リキさんは、「いまでも北野は飲むと、市販車でワークスマシンに勝ったって、このときのことを自慢する」と苦笑するのだが、しかし、その後の「北野 元」の活躍を見れば、そのくらいのジマンはアリではないかと思う。

そして、このときの「浅間」でのもうひとつの話題は、Hondaのスーパーマシンだった。いままでに見たこともないようなマシンが、浅間にでてくる! この噂は真実となり、それまで聞いたことのないようなエキゾースト・サウンドが浅間高原に響いた。

Honda「RC160」、250cc並列4気筒、推定40馬力/14000回転。このマシンは、「耐久ロードレース」250ccクラスでの1~3位を独占する。

……しかし、9万とも11万ともいわれる観衆を集めた浅間でのレースだったが、この「1959年」のビッグイベントをもって終焉となってしまう。

次年度、つまり1960年でも浅間でレースを開催しようとしたクラブ連盟だったが、コースを管理する「浅間高原自動車テスト協会」からの回答は、「レースのためにはコースは貸せない」であった。本来の、テストコースとしての使用のみにするというのが、その理由であった。

そしてリキさんは、「浅間終焉」の理由として、「場所と季節」も挙げている。

「軽井沢、そして浅間は、そもそもは別荘地。そして、その夏というのは、避暑地にとって絶好のシーズン。そこに、何万台ものバイクが来て、ウォンウォン!と走り回ったら、それはやっぱり、やめてくれということになると思う……」(大久保)

そう、そもそも「浅間」に遠慮会釈もなくエキゾースト・ノートが響くことになったのは、秋も深まった11月だった。その頃の浅間には、もう人はいないから……ということであったはずだった。

それが、アマチュア重視ということで夏休みを利用したクラブマン・レースになり、その開催時期は動かさないままに、プロアマ合同の大会になって大盛況となった。

こうして1959年を最後にして、日本のレースの歴史を拓いた「浅間」は、その幕を永遠に閉じたのである。

(第十六回・了)

(取材・文:家村浩明)



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