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浅間終焉の後を受け、ロードレース渇望の発露となった宇都宮郊外の清原飛行場跡地。1周2.75kmの旧陸軍少年飛行学校滑走路(現在は工業団地)のコースは、砂塵の上がる走路も含まれ、視界を失ってコースアウトするライダーもいた。
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とりあえずクラブ連盟=MCFAJは、この動きに対応して、モトクロスをもっとやろう!という姿勢を示す。モトクロスなら、レースと違って場所を選ばない。いってみれば、「持ち主がOKなら近所の野山でもできる」(大久保)からである。
また、市販型スポーツ・モデルが各社から登場し、それをベースに、モトクロス・マシンに改造するアマチュアは全国規模で存在していた。
この頃、日曜日になると、46都道府県(当時は沖縄が入っていなかった)で必ず、それも1ヵ所以上で、モトクロスが行なわれるようになっていったと、リキさんはいう。
クラス分けは、50/125/250/251cc以上というもので、この251以上というカテゴリーでは、外国製のBSA、トライアンフといった英車、またハーレーのスポーツスターといったバイクが走っていた。50~125では、Honda、ヤマハに加えて、トーハツ、スズキ、山口オートペット、タス、といったマシンが有力エントラント。250では、新明和工業のポインターも強かった。
「ただねえ、《ロードレース》をできないかという流れというか願いは、やっぱり止められなかったね!」(大久保)。
たとえ、路面がダートというより火山灰であっても、《アサマ》という高速コースでのレースの衝撃は、それだけ大きかったのだ。
そしてもちろん、コンペティションの場として整地/不整地のどっちを好むかという選択も、この頃から生まれてくることになる。
ロードレースをやりたいとして、各クラブの有志が「場」を探しはじめた。しかし、なかなか見つからない。
ようやく浮上したのは、宇都宮にある旧・陸軍の飛行場跡だった。宇都宮のあるクラブマンから、「宇都宮・郊外、清原の飛行場跡が使えるかもしれない」という連絡を連盟にしてきたのだ。これは1960年・春のことだった。
ここでは、戦後に満州から引き揚げて来た、かつての「満州開拓団」が畑を作って開墾していた。そして栃木のクラブが、その開拓団と交渉、「清原」のコースを借り受けることに成功するのである。
「ただ、ここは路面はボコボコでね。……いや、完全舗装路というハナシだったの。もともと、飛行場の跡だしね。でも、少しはキレイにしようとして掃除したら、コンクリートもいっしょに剥がれてきちゃって(笑)」
結局、補修工事もできず、コース(2.76km」の半分は、走るとセメントが粉になって舞い散るような“セミ・ダート”状態のままで、60年5月のコース開きを迎えることになってしまう。
しかし、半分であっても舗装路でレースをしたということが、これ以後、本格ロードレースへの渇望(「ちゃんとしたところでレースをしたい!」)をいっそう高めることになっていく。
(第十九回・了)
(取材・文:家村浩明)
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