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英国から招かれ、“清原”のコース開きで走りを披露したジェフ・デューク。50年前のミハエル・シューマッハと言えるビッグネームだ。帯同したチャンピオン・マシンのノートン・マンクスとそのライディングだけでなく、クロムウェルのハーフヘルメットやワンピースツナギも垂涎の的だった。
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そしてそのマシンで、前回に述べたような、舗装ともいえない粗末なコースであることも厭わず、デュークは急ごしらえの「清原」のコースを走ってくれた。
単気筒500ccのレーシング・エンジンは、コース周辺の落花生いっぱいの畑を震わせ、
「すべての見物者一歩も動けず、ただ眼(まなこ)を開くのみ」
であったと、リキさんはその著『サーキット燦々』に記している。
「ロードレースの走り方、また、そのためのマシンとはどういうものなのか? こういったことのすべてを、ジェフ・デュークは当時の『日本』に教えた。それはまさに、明治の文明開化以来のインパクトだったと思うね」(大久保)
さらにデュークは、この清原・走行プレゼンテーションのあと約1ヵ月の間、日本に滞在する。その間に、ジェフが訪れたメーカーは、Honda、ヤマハ、スズキ。そこで、各社のロードレース関係者との話し合いの場を持ち、大きな刺激を与えて離日した。
このとき、デュークとコンタクトしたワークスライダーのなかに、のちにマン島TTレース50ccクラスで、日本人として初めて優勝することになる伊藤光夫(スズキ)がいた。
こんな背景のもと、1960年の8月、宇都宮郊外・清原で第3回のクラブマン・レースが開催される。しかし、「一部のみ舗装」という状態でのロードレースにはやはり不満の声が上がり、「来年こそは、ちゃんとした舗装路でレースをしたい!」という願望は、ますます高まっていく。
また一方では、モトクロスの人気もさらに高まる気配があり、嗜好が分化しつつ、バイクを使ってのスポーツが盛り上がっていったのが「アサマ以後」であった。
そしてリキさんは、その頃の状況として、こんな一面があったことも付け加えた。
「そうそう、当時にはね、モトクロスだけじゃなくて『トラックレース』もあったのよ。
クラブ連盟の有力なクラブが、モトクロスを主催しはじめるでしょ。それと同時に、ほかにも可能な競技があるはずだとして、これは主として東京や阪神地区のバイク販売店が協力して、トラックでのレースをはじめたわけ」
とくに東京では、近くの大井や川口に「オートレース場」があったため、ここをクラブマンに開放して、年に何回かレースをやったのだという。また、関東だけでなく、名古屋では熱田神宮、静岡の浜松にもオートレース場があり、さらには広島や九州でも同様のことが行なわれていた。
このなかで、神社でのレースというのはちょっと意外な気もするが、
「熱田神宮では、戦前にトラックレースが盛んだった時代に、神社の広場で『奉納レース』として行なわれていたものが、このとき、そのまま引き継がれたみたいね」
……と、リキさん。
「要するに、走れる競技なら、何でも走りたかった時代なのよ!」(大久保)
(第二十回・了)
(取材・文:家村浩明)
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