マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第20回
ジェフ・デュークがやってきた!


1960年、全国のクラブマンが「レースする場」を探し、そんななかから、清原飛行場跡でのレース開催が決まっていく。

そして、こうした動向と併行して、浅間でクラブマン(アマチュア)によるレースを行なうことを提唱した八重洲出版の酒井文人氏は、もうひとつ、注目すべき動きを見せていた。

レースをつづけていけば、それに参加するメーカーによって、マシンは開発され成熟して行くであろう。しかし、それだけでは片手落ちだ。なぜなら、マシンだけあってもレースはできないから。

そこから酒井氏は、マシンだけでなく、日本の「ライダー」を育てたいという願いを持つ。そのための方策として、レース先達のヨーロッパから一流のライダーを招いて、日本で走ってもらったらどうか。そしてもちろん、ただ走りを見せるだけでなく、同時に、レースについて、さまざまな点で教えを請うこともしたい――。

そんな「極東」の国の願いに応じてくれたライダーがいた。その名はジェフ・デューク(Geoff Duke)、英国の伝説的なライダーである。

ちなみに、この「極東」というのは近年はあまり使われない表現かもしれないが、英語でいえば Far East。AMラジオの「FEN」はファーイースト・ネットワークであるというのはご存じの通りだが、つまりこの日本などを含む東アジアというのは、欧米から見た場合は「東の果て」に位置するということ。

そのジェフ・デュークは、トライアルからそのキャリアをスタートさせ、ロードレースに転じてからは、マン島TTレース優勝のほか、6回にわたって世界GPのチャンピオンになっていたという輝かしい戦績を持つ。

――この「ジェフ・デューク」ですが、いまでいうと、四輪も含めてでけっこうですが、たとえば「誰」がやってきた!というようにイメージしたらいいんでしょう?

こんな質問に、リキさんは即答した。

「それならシューマッハだね! もちろんラルフじゃない、ミハエルの方よ。そのくらいに、雲の上の人だった。だから、たかだか日本のクラブ連盟や酒井文人氏あたりの招きで、まさか、あの『デューク』が来るはずがないという声もあったほどでね」

しかし、ジェフ・デュークはやって来た。そしてジェフは、ただ来日しただけではなく、TTレースのウイニングマシンである「ノートン・マンクス」を帯同してきていた。1960年の日本に、いきなり、レーシングにおける「世界基準」というべき人とマシンが飛来したのである。

英国から招かれ、“清原”のコース開きで走りを披露したジェフ・デューク。50年前のミハエル・シューマッハと言えるビッグネームだ。帯同したチャンピオン・マシンのノートン・マンクスとそのライディングだけでなく、クロムウェルのハーフヘルメットやワンピースツナギも垂涎の的だった。

そしてそのマシンで、前回に述べたような、舗装ともいえない粗末なコースであることも厭わず、デュークは急ごしらえの「清原」のコースを走ってくれた。

単気筒500ccのレーシング・エンジンは、コース周辺の落花生いっぱいの畑を震わせ、

「すべての見物者一歩も動けず、ただ眼(まなこ)を開くのみ」

であったと、リキさんはその著『サーキット燦々』に記している。

「ロードレースの走り方、また、そのためのマシンとはどういうものなのか? こういったことのすべてを、ジェフ・デュークは当時の『日本』に教えた。それはまさに、明治の文明開化以来のインパクトだったと思うね」(大久保)

さらにデュークは、この清原・走行プレゼンテーションのあと約1ヵ月の間、日本に滞在する。その間に、ジェフが訪れたメーカーは、Honda、ヤマハ、スズキ。そこで、各社のロードレース関係者との話し合いの場を持ち、大きな刺激を与えて離日した。

このとき、デュークとコンタクトしたワークスライダーのなかに、のちにマン島TTレース50ccクラスで、日本人として初めて優勝することになる伊藤光夫(スズキ)がいた。

こんな背景のもと、1960年の8月、宇都宮郊外・清原で第3回のクラブマン・レースが開催される。しかし、「一部のみ舗装」という状態でのロードレースにはやはり不満の声が上がり、「来年こそは、ちゃんとした舗装路でレースをしたい!」という願望は、ますます高まっていく。

また一方では、モトクロスの人気もさらに高まる気配があり、嗜好が分化しつつ、バイクを使ってのスポーツが盛り上がっていったのが「アサマ以後」であった。

そしてリキさんは、その頃の状況として、こんな一面があったことも付け加えた。

「そうそう、当時にはね、モトクロスだけじゃなくて『トラックレース』もあったのよ。

クラブ連盟の有力なクラブが、モトクロスを主催しはじめるでしょ。それと同時に、ほかにも可能な競技があるはずだとして、これは主として東京や阪神地区のバイク販売店が協力して、トラックでのレースをはじめたわけ」

とくに東京では、近くの大井や川口に「オートレース場」があったため、ここをクラブマンに開放して、年に何回かレースをやったのだという。また、関東だけでなく、名古屋では熱田神宮、静岡の浜松にもオートレース場があり、さらには広島や九州でも同様のことが行なわれていた。

このなかで、神社でのレースというのはちょっと意外な気もするが、

「熱田神宮では、戦前にトラックレースが盛んだった時代に、神社の広場で『奉納レース』として行なわれていたものが、このとき、そのまま引き継がれたみたいね」

……と、リキさん。

「要するに、走れる競技なら、何でも走りたかった時代なのよ!」(大久保)

(第二十回・了)

(取材・文:家村浩明)



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