マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第23回
流浪するロードレース 3 Hondaの逆襲始まる


1961年。「浅間」「清原」を経験し、ロードレースを渇望する声が探し求めたのは、現在の航空自衛隊・入間基地。当時、“ジョンソン基地”と呼ばれた米軍基地で、第4回全日本クラブマン・レース大会が行なわれることになった。

『「モーター・サイクリスト』誌はさっそく、このレースについて、「完全舗装に集う300台」という見出しを掲げて特集記事を組んだ。

興味深いのは、その「詳報」である。ここでは、「はじめてなった本格的ロードレース」というタイトルとともに、サブタイトルには、「各クラスとも初優勝者続出」となっているのだ。

リキさんはいう。

「宇都宮・清原までは、《浅間》流の走り方で(レースは)やれた。不整地を腕力でねじ伏せるというか、そうやって走るライダーが強かった。

でも、ジョンソン基地でのレースになって、舞台が完全な舗装路になったら、(走るのって)こんなにむずかしいのか!という声があがりはじめた。

たとえばダートの場合は、アクセルをオフにすれば、それだけでブレーキングになる。下(路面)が粗いからね。

でも、オール舗装となったら、まったく新たな『ロードでレースする』というテクニックが必要になった」

日本の“ロードレース”は、こうして新時代に突入した。

Honda・ドリームCB-72で350ccクラスをぶっ千切った片山義美。1970年代初頭に、ロータリー・エンジンのサバンナRX3で、スカイラインGT-Rとの死闘を演じ、4輪レースでも名を馳せることになる「関西の怪童」16歳の勇士。このレースがデビュー戦だった。

そして、「続出した初優勝者」たちのなかで最もセンセーショナルだったのは、350ccクラスをHonda・ドリームCB-72で制した「新人・片山義美」だった。

このレースを片山は、平均時速110.23㎞/hで優勝するのだが、まず、この速度がこの大会すべてのレースのなかで(大排気量車とくらべても)最速であった。

そして、350ccクラス25周のレースで、「完走」扱いになったのは、優勝者である片山と2位の久木留博久(Honda・ドリーム)の二人だけだった。雑誌記事では、「ゴールイン11名、しかし完走者2名」と記された。

どういうことかというと、片山義美は、2位以外のすべてのライダーを周回遅れにして、さらに同一周回であった久木留との間に、距離にして2.9キロの差をつけていた。 今回のコースは、前述のように1周3.2キロだ。したがって、片山と2位のライダーは、かろうじて同一ラップにあったものの、その差はほとんど1周だったのである。

(1961年に登場したこの驚異の新人は、やがて四輪時代になるとマツダ・ワークス入りし、ロータリー・エンジンのロータリー・クーペやサバンナRX3を駆って、ニッサンのスカイラインGT-Rと壮絶なバトルを展開することになる)。

新人・片山義美(神戸・木の実レーシング)は、この日、250ccクラスにも出場。1周目、「あれは誰なんだ?!」という感じで首位に躍りでて、その快足を披露するも、結果は11位だった。

この250ccレースでは、宿願の「対ヤマハ・バトル」を制して、Honda・ドリームの折懸六三が優勝。2位も同じくドリームの宇野順一郎だった。

そして、このジョンソン基地での「第4回レース」では、はじめて、「日本選手権」と名づけられたレースが行なわれた。

このレースに出場する資格が与えられるのは、過去のクラブマン・レースの入賞者、メーカー所属のライダー、世界選手権レース出場経験者。つまり、いわゆる一流のライダーのみで、それゆえか、マシンに関しては、市販でも工場レーサーでも区別しないことになっていた。

この「選手権」での125ccクラスは、トーハツ vs コレダ(=スズキ)というワークス・バトルになったが、結果はコレダがワンツーでフィニッシュ。優勝ライダーは鈴木誠一、そして2位はこれがデビュー戦の藤井敏雄(のちにスズキ・ワークスとして活躍)だった。

また、30周で行なわれた「日本選手権」250ccでは、鈴木誠一のコレダ・ロータリーバルブ、望月泰志のヤマハという2ストローク・レーサーを制して、宇野順一郎のHonda・ドリーム(CR-71)が独走で勝利した。2位も、同じくHonda・ドリーム(マシンはCB-72)の市川勝夫であった。

こうしてこの年から、国内レースにおける「Hondaの逆襲」がはじまるのである。

(第二十三回・了)

(取材・文:家村浩明)



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