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Honda・ドリームCB-72で350ccクラスをぶっ千切った片山義美。1970年代初頭に、ロータリー・エンジンのサバンナRX3で、スカイラインGT-Rとの死闘を演じ、4輪レースでも名を馳せることになる「関西の怪童」16歳の勇士。このレースがデビュー戦だった。
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そして、「続出した初優勝者」たちのなかで最もセンセーショナルだったのは、350ccクラスをHonda・ドリームCB-72で制した「新人・片山義美」だった。
このレースを片山は、平均時速110.23㎞/hで優勝するのだが、まず、この速度がこの大会すべてのレースのなかで(大排気量車とくらべても)最速であった。
そして、350ccクラス25周のレースで、「完走」扱いになったのは、優勝者である片山と2位の久木留博久(Honda・ドリーム)の二人だけだった。雑誌記事では、「ゴールイン11名、しかし完走者2名」と記された。
どういうことかというと、片山義美は、2位以外のすべてのライダーを周回遅れにして、さらに同一周回であった久木留との間に、距離にして2.9キロの差をつけていた。
今回のコースは、前述のように1周3.2キロだ。したがって、片山と2位のライダーは、かろうじて同一ラップにあったものの、その差はほとんど1周だったのである。
(1961年に登場したこの驚異の新人は、やがて四輪時代になるとマツダ・ワークス入りし、ロータリー・エンジンのロータリー・クーペやサバンナRX3を駆って、ニッサンのスカイラインGT-Rと壮絶なバトルを展開することになる)。
新人・片山義美(神戸・木の実レーシング)は、この日、250ccクラスにも出場。1周目、「あれは誰なんだ?!」という感じで首位に躍りでて、その快足を披露するも、結果は11位だった。
この250ccレースでは、宿願の「対ヤマハ・バトル」を制して、Honda・ドリームの折懸六三が優勝。2位も同じくドリームの宇野順一郎だった。
そして、このジョンソン基地での「第4回レース」では、はじめて、「日本選手権」と名づけられたレースが行なわれた。
このレースに出場する資格が与えられるのは、過去のクラブマン・レースの入賞者、メーカー所属のライダー、世界選手権レース出場経験者。つまり、いわゆる一流のライダーのみで、それゆえか、マシンに関しては、市販でも工場レーサーでも区別しないことになっていた。
この「選手権」での125ccクラスは、トーハツ vs コレダ(=スズキ)というワークス・バトルになったが、結果はコレダがワンツーでフィニッシュ。優勝ライダーは鈴木誠一、そして2位はこれがデビュー戦の藤井敏雄(のちにスズキ・ワークスとして活躍)だった。
また、30周で行なわれた「日本選手権」250ccでは、鈴木誠一のコレダ・ロータリーバルブ、望月泰志のヤマハという2ストローク・レーサーを制して、宇野順一郎のHonda・ドリーム(CR-71)が独走で勝利した。2位も、同じくHonda・ドリーム(マシンはCB-72)の市川勝夫であった。
こうしてこの年から、国内レースにおける「Hondaの逆襲」がはじまるのである。
(第二十三回・了)
(取材・文:家村浩明)
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