この「雁ノ巣」まで、Hondaはどういう戦略で、国内で闘いつづけてきたのか?
リキさんは語る。
「61年までのHondaは、国内レース・シーンではずっとヤマハの後塵を浴びつづけていて……。それはもちろん、その通りなんだけど、ただ、しかるべき理由もあったんです」。
「Hondaのマシンは、あくまでも、すでにある市販車をベースに、レースに向けてモディファイしたもの」。
「レースの目的は、市販車をさらによくするため。製品へのフィードバックがその目的であるという《Honda・ポリシー》があって、レースのため(だけ)に本格的なスポーツ車をつくってしまうといったことについては積極的ではなかった」。
……なるほど。たとえばこの時期のHondaの125cc市販車は、その愛称が「ベンリイ」。であるが、この名はもちろん、実用的に「便利!」であるということを語源につけられたものである。
これをひとつの例として、本田技研工業という会社は、そもそもは、戦後日本の社会を“元気に”すべく、人力ではなく、エンジン装備の二輪車という交通手段を人々に提供することからはじまっていた。
そしてそれは、Hondaにとっても、また庶民にとっても《夢》のようなことだったはずで、だからこそ、Hondaの最初の本格バイクは「ドリーム」。と名づけられていたはずだ。
125ccはベンリイ、そして、250ccはドリーム。実用車メーカーとしてのこうした社会貢献の歴史を経たのち、50年代後半の「Honda」は、新たな局面である「レース」に向かい合って行く。
そして、そのスピリットは、マン島TTレースへの初挑戦(1959年)という壮挙にまで至るのだが、一方では、こうした「海外展開」で手一杯であったことが、田中健二郎の指摘にもあるように、国内レースの“軽視”につながっていた。
そのHondaが、1961年を境に変貌する。
こうした国内戦略の変更について、リキさんはこんなエピソードを紹介した。
「1959年のアサマで、新星・北野元がHonda車に乗って、125と250の2クラスで優勝しますよね。このときのマシンは、実はどっちも、少数生産の特殊市販スポーツ車だった。それまでの市販車・改」ではなくてね」。
「つまり、将来の市販に向けて、アサマという実戦を走らせたというのが事実に近い。こういう戦略のテストケースという側面も、あのレースにはあったのです」。
このときの「少数生産」250cc車が、アサマでの勝利を経て、1960年に、ドリームCB-72として市販されるのだ。
「だから、このCB-72は、それまでのドリームの歴史と、北野によるアサマ・スペシャルの混合技術によって生まれたモデルといっていい」(大久保)。
こうしたHondaの「少数生産車」の基盤となるものは、このように、1961年までは《アサマ》であった。
しかし1962年、それが《世界》に変わるのである。
「Hondaが59年にマン島で初陣を飾って(完走して)、そしてその後、Honda車は世界GPでも勝利するように成長して行きます」。
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