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“世界のグランプリで実証済みの力”を見せつけたCR93を駆る大月信和。『レースは走る実験室』を具現した最初のケースとなった。
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そして、大月信和と渥美勝利が出場した125ccでは、渥美と大月がワンツーで勝利する。3位入賞のトーハツ・LR(ワークス・モデル)=生沢徹に、これまた51秒という差をつけてのフィニッシュだった。
この「CRの圧勝」というのは、やはりニュースだったのであろう。サイクリスト誌は、レース・レポートのあとに、62年クラブマンレースの「技術情報」として、「50cc/125ccクラスの2ストローク陣営の敗因を探る!」という解説記事を載せている。
この記事内では、「CR」はそれぞれ、「レーシング・カブ」、「ベンリイ・レーシング」と記され、レーシング・カブが国内初登場のレースであったこと。そして、ベンリイ・レーシングは、「実力はすでに世界のグランプリで実証済みのものであった」と紹介している。
この点について、リキさんは、つづける。
「世界で闘ってきたレーシング・マシンのテクノロジーを、市販車にふさわしい状態にするようフィードバックする」
「Hondaのスローガンである『レースは走る実験室』を具現した最初のケース、それがこの125ccマシン、CR‐93なんですね。もちろん、実際に市販もされたし」
>> Honda・ベンリイ・レーシングCR‐93 試乗記事
さらにリキさんは、つづける。
「もうひとつの注目ポイントは、Hondaはあくまでも4サイクルにこだわったこと。こだわりつづけてきて、この雁ノ巣で、ちゃんと成果をだしたこと」
「当時は、2サイクル隆盛の時代です。とくにスポーツモデルでは、4サイクルは不向きだとさえいわれた時代――。しかしHondaは一貫して4サイクルを推し進めた」
「あ、ご承知のように後年、80年代にね。モトクロスとロードで、Hondaは一時、2サイクル・エンジンを手掛けます。
これは、他社が2サイクルでレースを高度化していたという状況に合わせて、あえて他メーカーと同じことをやって、どうだ、Hondaがやればこうなる!……ということを示したというべきでしょう」
(第二十六回・了)
(取材・文:家村浩明)
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