マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第26回
レーシング・マシンとレーシング・ライダーの誕生


この「雁ノ巣」でのクラブマン・レースを、専門誌「モーター・サイクリスト」はどう報じたか。

特集記事の巻頭、扉ページいっぱいの大きさの写真に登場するのは、50ccクラスに出場した大月信和だ。

キャプションには「17歳の少年である。(略)クラブマン50ccの優勝者である」

各レースを写真で紹介したあとの本文には、こんなタイトルが掲げられた。

「レーシング・マシンとレーシング・ライダーの誕生」――。

つづく50ccクラスの詳報では、「CR‐110と新人・大月信和の完勝」

そして125ccのレポートは、「またもCRの独走――レーシング車とスポーツ車の相違あきらか」という見出しが付いた。

このときの「Honda CR」がどのくらい速かったかというと、たとえば50ccクラスでは、「このレースは、レース半ばに至らずして先が見えた。CR‐110・2車の確実な歩みが、8周のうちに3位以下をどれだけ離すかが残された興味となった」

優勝は大月信和、2位は(クラブは違うが)同じくHonda CRに乗る榎本正夫。3位に入ったトーハツ・ランペットと榎本の差は約58秒。ほとんど1分の大差だった。

“世界のグランプリで実証済みの力”を見せつけたCR93を駆る大月信和。『レースは走る実験室』を具現した最初のケースとなった。

そして、大月信和と渥美勝利が出場した125ccでは、渥美と大月がワンツーで勝利する。3位入賞のトーハツ・LR(ワークス・モデル)=生沢徹に、これまた51秒という差をつけてのフィニッシュだった。

この「CRの圧勝」というのは、やはりニュースだったのであろう。サイクリスト誌は、レース・レポートのあとに、62年クラブマンレースの「技術情報」として、「50cc/125ccクラスの2ストローク陣営の敗因を探る!」という解説記事を載せている。

この記事内では、「CR」はそれぞれ、「レーシング・カブ」、「ベンリイ・レーシング」と記され、レーシング・カブが国内初登場のレースであったこと。そして、ベンリイ・レーシングは、「実力はすでに世界のグランプリで実証済みのものであった」と紹介している。

この点について、リキさんは、つづける。

「世界で闘ってきたレーシング・マシンのテクノロジーを、市販車にふさわしい状態にするようフィードバックする」

「Hondaのスローガンである『レースは走る実験室』を具現した最初のケース、それがこの125ccマシン、CR‐93なんですね。もちろん、実際に市販もされたし」

 >> Honda・ベンリイ・レーシングCR‐93 試乗記事

さらにリキさんは、つづける。

「もうひとつの注目ポイントは、Hondaはあくまでも4サイクルにこだわったこと。こだわりつづけてきて、この雁ノ巣で、ちゃんと成果をだしたこと」

「当時は、2サイクル隆盛の時代です。とくにスポーツモデルでは、4サイクルは不向きだとさえいわれた時代――。しかしHondaは一貫して4サイクルを推し進めた」

「あ、ご承知のように後年、80年代にね。モトクロスとロードで、Hondaは一時、2サイクル・エンジンを手掛けます。 これは、他社が2サイクルでレースを高度化していたという状況に合わせて、あえて他メーカーと同じことをやって、どうだ、Hondaがやればこうなる!……ということを示したというべきでしょう」

(第二十六回・了)

(取材・文:家村浩明)



「マイ・ワンダフル・サーキット」TOPページへ 大久保 力 プロフィール 前へ 次へ