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1962年7月・雁ノ巣のレース。この現場で、「鈴鹿に凄いものができるらしい」という噂が立ち始めていた。
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アサマ、宇都宮・清原、ジョンソン基地、そして雁ノ巣飛行場と三沢……。関東、九州、東北と、全国にその開催の場を求めて行なわれたクラブマン・レースは、もちろん当時の日本にパーマネントなサーキットがなかったのだから当然なのだが、「流浪」をつづけて、そして(いったん)消えた。
「でもね、たしかに“流浪”はしていたけど、クラブマンレースがこの国に引き起こしたものというのは、すごく大きかった」
リキさんはこのように、この時代とクラブマンレースを評価する。
「何より、たったの3年で、クラブマンレースはメーカーが目を向けざるを得ないものになった」(大久保)のだ。
最終的によくも悪くも、クラブマンレースがメーカーの代理戦争という趣になっていったのは、各メーカーにとっても、このクラブマンレースがそれだけ重要なものであったことを意味している。
たとえばHondaは、世界GPで闘って培ってきた技術を、惜しげもなく「雁ノ巣」のレースに注ぎ込んだ。いいかえれば、それをせざるを得ないほどに、日本のクラブマンレースの質とレベルは高かったのである。
リキさんは、この時期のクラブマンレースが「育てた」ものとして、以下の事々を挙げる。
「まず、ライダーという人が育った」
「そして、ときには危険性も持つこの競技への、きびしいマナーを含むライディング・テクニックが磨かれた」
「もうひとつは、レースのシステム、あるいはマネージメントです。これも、このレースを通じて人々が習熟し、それを知るところとなった」
リキさんは、その快著『サーキット燦々』において、この時期のクラブマンレースを以下のように総括している。その引用をもって、今回の結びとしたい。
「海外では、Honda、ヤマハ、スズキの世界制覇争い、国内ではクラブマンレースをカモフラージュしたメーカー代理戦争が激しくなっていく」
「雁ノ巣で行なわれた(略)レースは、その新たな火付け役であり、鈴鹿サーキットでの新たなロードレース時代への幕開けでもあった」
(1958年、アマチュアが参加できる「クラブマンレース」を開催するという)「決断と実行がなかったら、日本のモーターレーシングは21世紀でも大したレベルに達していないだろうし、本田宗一郎のサーキット構想も変わっていたかもしれない」(大久保力)
(第二十七回・了)
(取材・文:家村浩明)
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