マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第27回
クラブマン・レースの時代とは


リキさんは、この「1962年7月・雁ノ巣」という現場に、実際にいた。 そこでは、Hondaが鈴鹿に「すごいのを!」つくってるらしい……というウワサが駆けめぐっていた。

歴史的にいえば、1962年・春という時点で、Hondaの鈴鹿サーキット建設計画は着々と進んでいた。そしてもちろん、それはまだ社外秘でもあった。

ただ、「Hondaは鈴鹿にこだわっていたわけじゃない」と、リキさんはいう。

「静岡、水戸、浜松、名古屋……、Hondaはいろんなところで、サーキット建設のための土地探しをしていた」

「候補地として一番有力だったのは三方が原で、ここでは土地の買収もはじまっていたんだけど、それが不動産屋にバレて予定敷地の一部を買い占められ、“虫食い”の状態になってしまった」(大久保)

こうした窮地のとき、工場にはならない(工場建設に向かない)山間地を鈴鹿市が提供するということが市側から提示され、Hondaと鈴鹿市の間で合意していくことになる。

このときに一時、水田にも使えるような土地がサーキットの用地候補となったが、それを知った本田宗一郎が、「米ができる土地をつぶすな! サーキットは何にもできないようなところにつくれ!」と一喝した……という伝説がいまに残る。

ただ、1962年に完成した「鈴鹿サーキット」で、この年に、そしてこれ以後も、「クラブマン・レース」というかたちでレースが行なわれることは、ついになかった。

翌年の1963年、第6回のクラブマン・ロードレースは青森県の米軍・三沢基地内で行なわれたが、ここでの路面は完全舗装路ではない。

そして、それ以後のクラブマン・レースは、1966年(富士スピードウェイの完成)までの間、いったん休止されるのである。

1962年7月・雁ノ巣のレース。この現場で、「鈴鹿に凄いものができるらしい」という噂が立ち始めていた。

アサマ、宇都宮・清原、ジョンソン基地、そして雁ノ巣飛行場と三沢……。関東、九州、東北と、全国にその開催の場を求めて行なわれたクラブマン・レースは、もちろん当時の日本にパーマネントなサーキットがなかったのだから当然なのだが、「流浪」をつづけて、そして(いったん)消えた。

「でもね、たしかに“流浪”はしていたけど、クラブマンレースがこの国に引き起こしたものというのは、すごく大きかった」

リキさんはこのように、この時代とクラブマンレースを評価する。

「何より、たったの3年で、クラブマンレースはメーカーが目を向けざるを得ないものになった」(大久保)のだ。

最終的によくも悪くも、クラブマンレースがメーカーの代理戦争という趣になっていったのは、各メーカーにとっても、このクラブマンレースがそれだけ重要なものであったことを意味している。

たとえばHondaは、世界GPで闘って培ってきた技術を、惜しげもなく「雁ノ巣」のレースに注ぎ込んだ。いいかえれば、それをせざるを得ないほどに、日本のクラブマンレースの質とレベルは高かったのである。

リキさんは、この時期のクラブマンレースが「育てた」ものとして、以下の事々を挙げる。

「まず、ライダーという人が育った」

「そして、ときには危険性も持つこの競技への、きびしいマナーを含むライディング・テクニックが磨かれた」

「もうひとつは、レースのシステム、あるいはマネージメントです。これも、このレースを通じて人々が習熟し、それを知るところとなった」

リキさんは、その快著『サーキット燦々』において、この時期のクラブマンレースを以下のように総括している。その引用をもって、今回の結びとしたい。

「海外では、Honda、ヤマハ、スズキの世界制覇争い、国内ではクラブマンレースをカモフラージュしたメーカー代理戦争が激しくなっていく」

「雁ノ巣で行なわれた(略)レースは、その新たな火付け役であり、鈴鹿サーキットでの新たなロードレース時代への幕開けでもあった」

(1958年、アマチュアが参加できる「クラブマンレース」を開催するという)「決断と実行がなかったら、日本のモーターレーシングは21世紀でも大したレベルに達していないだろうし、本田宗一郎のサーキット構想も変わっていたかもしれない」(大久保力)

(第二十七回・了)

(取材・文:家村浩明)



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