マイ・ワンダフル・サーキット 浅間から鈴鹿、そして世界のHondaへ―― リキさんのレーシング日本史

第28回
動きが遅すぎる、……なら俺がつくる!


60年代初期、日本の「ロードレース」が開催場所を求めて“流浪”することになるのは、それまで熱闘の舞台としてきた《アサマ》での、つまり避暑地・軽井沢にも隣接するような場でのレース開催が拒否され、やがてはそのテストコースそのものも閉じられるという流れになったからである。

しかし、そんな浅間コースでレースができなくなったことを、ライダーやメーカーが嘆いて惜しんでいたかというと、そうではなかったようなのだ。リキさんは語る。

「1958年から59年頃、Hondaをはじめとして日本のメーカーも、海外のレースに出場するようになった。そこでは当然、路面は舗装路です。

でも《アサマ》はダートというのか、例の火山灰の、それを敷き詰めたようなコースと路面でしょ。そうすると、各メーカーにとっても、《アサマ》はテストコースとしての意味を成さなくなってくるのね」

……なるほど、アサマはもともと、レースのための場ではなかったわけで。

「実はそのアサマのコースを、時代に合わせて舗装したらどうかという案もでてきたんです。ただ、フカフカの火山灰という土壌なので、その舗装を基礎からやるとなると大変。これならほかの場所を探した方が早いということになってね」

そして、日本のバイクをよりよくしていくには、テストのためのコースが必要だという業界の要望もあり、当時の通産省(現在の経済産業省)がコースをつくるための調査費を用意する動きもあったという。

「そこから各メーカーも、ロードコースならどこそこがいいとか、さまざまな、また勝手な(笑)展望をした。一方クラブマンもね『常設のレース場ができるぞ!』ということで、期待に胸を膨らませていた」

そして、当時の日本に「サーキット」という語はなかったのだと、リキさんはいう。やがて出現することになる「鈴鹿サーキット」とは、単なる施設の名を超えて、それまでになかった新しい「文化」を語るようなコンセプト用語だったのである。

「ただね、この通産省や業界の動きが鈍いのよ! そうなると、何でこんなに進まないんだ?! とイライラしてくる人がいる(笑)。その極致が、そう、本田宗一郎だった」

上:苦難の土地探しの作業から浮かび上がったのは「鈴鹿市」。ザンドフールト・サーキット(オランダ)の設計で知られるジョン・フーゲンホルツ氏を招いて、サーキット計画が具体的な形になっていった。
下:当初の鈴鹿は、現在地の北側に、こんなレイアウトで計画されていた!!
写真/『鈴鹿サーキット モータースポーツ30年の軌跡』より

その頃のHondaは、1958年にデビューさせた「スーパーカブ」が大ヒットし、それを増産するための新工場として、鈴鹿製作所の建設を59年の秋に開始し、1960年4月に同製作所を竣工させていた。

すぐに軌道に乗ったその新工場は、社員の福利厚生施設として、体育館や運動場を設置しようと、工場周辺の土地の取得をはじめていた。そして、このような鈴鹿製作所の動きと、宗一郎の《ドリーム》がミートする時期である。

「本田(宗一郎)さんは、『俺がほしいのは運動場なんかじゃない、レース場なんだ!』というわけ。でもね、“レース場”なんていわれても、社員も誰もわからんのよ!(笑)」

前述のように、「サーキット」という語さえなかった時代のことである。しかし、もちろん、本田宗一郎は本気だった。「だから、社員の全員が青くなった!という話」(大久保)

1960年秋、Honda社内に「レース場建設委員会」が発足する。そして、本田宗一郎自身は、レース場(=サーキット)はほしかったが、なにも鈴鹿の工場近くにある必要はなかった。もともと彼は、社員の厚生施設などをイメージしてはいなかったからである。

しかし、土地探しはやはり難題であり、そして、すでに工場が存在する鈴鹿市には、他の市町村には見られないような航空測量図や土地の高低図といった図面が豊富に揃っていたそんな地形と地元の理解もあって「レース場」の建設がはじまったのは1961年の7月であった

(第二十八回・了)

(取材・文:家村浩明)



「マイ・ワンダフル・サーキット」TOPページへ 大久保 力 プロフィール 前へ 次へ