60年代初期、日本の「ロードレース」が開催場所を求めて“流浪”することになるのは、それまで熱闘の舞台としてきた《アサマ》での、つまり避暑地・軽井沢にも隣接するような場でのレース開催が拒否され、やがてはそのテストコースそのものも閉じられるという流れになったからである。
しかし、そんな浅間コースでレースができなくなったことを、ライダーやメーカーが嘆いて惜しんでいたかというと、そうではなかったようなのだ。リキさんは語る。
「1958年から59年頃、Hondaをはじめとして日本のメーカーも、海外のレースに出場するようになった。そこでは当然、路面は舗装路です。
でも《アサマ》はダートというのか、例の火山灰の、それを敷き詰めたようなコースと路面でしょ。そうすると、各メーカーにとっても、《アサマ》はテストコースとしての意味を成さなくなってくるのね」
……なるほど、アサマはもともと、レースのための場ではなかったわけで。
「実はそのアサマのコースを、時代に合わせて舗装したらどうかという案もでてきたんです。ただ、フカフカの火山灰という土壌なので、その舗装を基礎からやるとなると大変。これならほかの場所を探した方が早いということになってね」
そして、日本のバイクをよりよくしていくには、テストのためのコースが必要だという業界の要望もあり、当時の通産省(現在の経済産業省)がコースをつくるための調査費を用意する動きもあったという。
「そこから各メーカーも、ロードコースならどこそこがいいとか、さまざまな、また勝手な(笑)展望をした。一方クラブマンもね『常設のレース場ができるぞ!』ということで、期待に胸を膨らませていた」
そして、当時の日本に「サーキット」という語はなかったのだと、リキさんはいう。やがて出現することになる「鈴鹿サーキット」とは、単なる施設の名を超えて、それまでになかった新しい「文化」を語るようなコンセプト用語だったのである。
「ただね、この通産省や業界の動きが鈍いのよ! そうなると、何でこんなに進まないんだ?! とイライラしてくる人がいる(笑)。その極致が、そう、本田宗一郎だった」
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