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そして、その9月。鈴鹿では、関係者だけを集めての、やや内輪での竣工式が行なわれ、世界GPレースマシンとHondaのワークス・ライダーによる模擬レースなどが行なわれた。そのメインイベントとして、メイン・ストレートにテープが用意された。それをカットするのは、もちろん本田宗一郎……のはずなのだが、しかし、ピットやパドックに彼の姿は見えない。 本田宗一郎が現われたのは、できあがったばかりの「サーキット」の最終コーナーだった。 宗一郎は、真っ赤な、小さなオープン・スポーツカーに乗っていた。竣工式に集まった人々が、この「Honda S360」を目にしたのは、このときが初めてだった。このプロトタイプS360は、やがて、S500として市販され、さらに、S600、S800に発展していく。 この日、鈴鹿を赤い四輪スポーツ車で駆けた本田宗一郎は、鈴鹿サーキットと本格ロードレースの時代がやって来たこと。そして、いずれは四輪の時代が来ること、そしてHondaも本格的に四輪の生産に踏み出さなければならない時期が来たことを、その全身で体現していた。 2ヵ月後の1962年11月、鈴鹿サーキットのコケラ落としとして第1回全日本選手権ロードレースが行なわれ、HondaのCR110とCR93は、50ccと125ccクラスで、ともに1位から3位までを独占した。 そして翌年の1963年、第1回日本グランプリ自動車レース大会が鈴鹿サーキットで開催され、日本での四輪レースの歴史がはじまる。このレースの1000~1300ccクラスに、Hondaの二輪ワークスライダー鈴木義一が出場し、優勝した。マシンはVW(フォルクスワーゲン)だった。 「鈴鹿」は本格的に始動した。この瞬間、Hondaだけではなく、日本の自動車レースの新たな時代が静かに始まったのである。 ロードレース創世記の項・完 (取材・文:家村浩明)
マイ・ワンダフル・サーキット 第1章『ロードレース創世記の項』は、Hondaホームページに2006~2009年にかけて連載されたものです。
オリジナルの第1章は、こちらでご覧いただけます。 |
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