リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第0回
第1章「ロードレース創世記の項」のあらすじ

戦後の日本、まだ世界水準に達していないであろう日本製のバイクの、その性能向上のために、各社のバイクによる“性能較べ”をやろうではないか! まずは、こうした工業の「振興」をそのコンセプトにして始まったバイクのレースは、信州・浅間高原という場に、その《競走》のためのステージを得ることができた。

初めは公道も含んで、その《競走》のためのコースが造られたが、すぐに、同じ浅間という地に、パーマネントなコースが設営された。ただ、この段階でも、コースができた名目は、あくまでも「性能テスト」のためであり、したがって観客席などはなく、今日、われわれがイメージするような「サーキット」が浅間高原に存在していたわけではない。

しかし、そんな浅間というステージではあったが、また、コースの路面は火山灰の上を走るものであったが、レースが開催されるや、そこに観客は殺到。さらに、この観客のなかから、今度はアマチュアのレーサーが生まれるという循環となって、《アサマ》に、日本のレースの土壌が培われていく。

しかし、さまざまな要件が重なって、この“テストコース”は閉鎖となり、日本初の“サーキット”は浅間からその姿を消す。しかし、《アサマ》はなくなっても、ライダーとメーカー、そしてクラブの情熱と意欲は消えない。バイクでレースするという「場」を求めて、1960年代初頭には、日本の各地でレースが開催され、その会場には米軍基地も含まれていた。

そして、こうしてレースの歴史が始まると、メーカーにとっても、バイクを高速で走らせる状況(レース)と、そのための場(コース)は、製品開発においてきわめて有効であることがわかってくる。しかし、そのような場をつくってくれるような組織や人は、この日本にはどこにも存在しなかった。

しかし、海外でのレースを実地に経験したことで、コースの必要性を実感し、同時に、日本にはそんな“気運”は皆無であることも知っていたひとりの男がいた。それなら、「俺がサーキットをつくってやる!」という果敢な行動に出た男の名は「本田宗一郎」。そして、彼によって生まれたコースが「鈴鹿サーキット」であった。