リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第1回
《鈴鹿》の“生みの親” その1

「第1章では、鈴鹿サーキット誕生というところまで話が進んで、そしてそれは、私たちへの“ホンダからの贈りもの”だという風に総括しましたよね」

「そこから、その“贈りもの”の中身を探ったり、さらには、一気に《鈴鹿》以後というか、《鈴鹿》によって何が始まったのかということへ行くのもいいんですが、でも私としては、もう少し“鈴鹿そのもの”にこだわってみたい」

いつも楽しく、また有意義なお話を伺っている都内某所のテーブル席で、コーヒーのカップを傾けながら、リキさん(大久保力)は言った。

なるほど、いまでこそ、全国各地に「サーキット」というものはあり、そこをレーシングマシンが走り回るというのは、べつに珍しいことではないかもしれない。

しかし、第1章をお読みの方ならすでにご承知と思うが、1960年代の初頭、浅間高原のテストコースが“消えた”後では、二輪であれ四輪であれ、それが高速で自由に走り回れるというスペースや施設は、日本にはまだなかった。ゆえに、たとえば米軍基地内の一部を使ってまで、人々はレースをする「場」を探したのであった。

1962年に完成した待望の鈴鹿サーキット。当時の常識からは、度肝を抜くスケールだった。

そういう状況のなか、1962年に「鈴鹿サーキット」が誕生するのだが、しかしこれは、それまで日本人が見たこともなかったモノが、いきなり三重県に出現したということ。そういう意味では、いまの言葉でいうなら、これはベンチャー以上の“大ベンチャー”であったはずだ。

さらにリキさんは、こんな質問を投げかけてきた。

「《鈴鹿》の“生みの親”って、何だと思います?」

……ウーム、“生みの親”? つまり、いったい「何が」当時のホンダに《鈴鹿》をつくらせたのか、ということですね?

エーと、ホンダは1959年に「マン島TTレース」に出場していて、そして《鈴鹿》ができたのが1962年だから、“生みの親”というなら、それはやっぱり「マン島体験」でしょうか?

その要素は、もちろんないとはいえないね……と、リキさんは微笑んだ。でも、もっと実質的で切実な理由があったとして、リキさんはこう言った。

「《鈴鹿》の生みの親は、『スーパーカブ』なんです」

……あ!? 二輪の? あの、今日でも売られてる、あの実用バイク?

「そうです、このときのホンダには『スーパーカブ』があったから、それで《鈴鹿》という土地が必要になった。まずは工場として、ですけどね」

……そうか、この『スーパーカブ』も、いまでこそアタリマエのように存在しているが(そしてコピー品まで出回っているが)、鈴鹿サーキットと同様に、それまでは誰もつくっていなかったタイプのモノ──この場合はバイクを、ホンダ=本田宗一郎が《創造》したものであった。

◆スーパーカブという“怪物”

では、この『スーパーカブ』とは、いったい、何であったか? 時計の針を60年ほど戻し、この空前絶後のヒット商品を考察してみよう。

この『スーパーカブ』は、そもそもは、ホンダの社長であり技術屋の本田宗一郎と、その片腕で営業面を支えつづけた副社長・藤沢武夫の二人が連れ立って、1956年に欧州視察を行なったときの“打ち合わせ”に、その端緒があるとされる。

このあたりについては、大久保さんの著書である『サーキット燦々』に詳しいので、これからの引用もまじえつつ、この『スーパーカブ』について考察してみる。

1945年の敗戦から1950年代にかけて、自転車に“後付け”で付けるエンジンというものが売られていた。これを付けることにより、人々は、人力で動く自転車を「エンジン駆動」に変えることができた。

そして、「本田技研工業」という会社は、この自転車に付けるためのエンジンであるホンダA型、そしてその発展型の「カブ」エンジンをつくることで発展してきたメーカーだった。

しかし、ホンダ副社長である藤沢武夫は、こうした自転車に付けるエンジン(=カブ)には、もう未来がないことを見抜いていた。そこから、宗一郎とともに行動した1956年の海外視察の間にずっと、カブに代わるべき新商品をつくれと、宗一郎に言い続けるのだ。

そして、その新商品の企画には、ある限定も設けていた。それは、原付第一種、今日にまで至る「50cc」の枠内にあること。それこそが、藤沢の狙いとする「底辺拡大」の必要条件であった。

藤沢「ちゃんとボディがあって、それに50ccのエンジンがついている新しい乗りもの。それが『バイク』の底辺を広げる。それなくして、ホンダの未来はない」
宗一郎「たかだか50ccで、そんな乗りもの、つくれというのか?」

そして、視察してきた欧州のモペットなどを参考にした宗一郎のアイデアに、藤沢は、すべて、ダメを出す。

宗一郎「そんな……、何でもダメだといってたら、つくれるものなんか、ないじゃないか!」
藤沢「だから、ないから、つくれといってるんだ」

以上のやり取りは、『サーキット燦々』からピックアップしたものだが、このようにして、藤沢武夫は、『スーパーカブ』をつくらせるべく、本田宗一郎をプッシュしつづけたのである。

第一回・了 (取材・文:家村浩明)