(1)新工場をつくるなら、トヨタの隣だ!
1958年の夏に発表されたホンダのスーパーカブは、同年の10月、第五回全日本自動車ショーに出品された。これはもちろん、いまにつづく東京モーターショーの前身であり、この五回目から、それまでの手狭な日比谷公園から「後楽園競輪場」(現在の東京ドームに隣接)に会場が移されていた。これは同時に、四輪も二輪も、小さな会場では収まりきれないほどに、自動車ショーへの出展台数が増えていたことを示す。
この五回目のショーには、もちろんリキさんも勇んで見物に行った。お目当ての一つであったスーパーカブはどうだったかというと、「いや、もう、黒山の人だかりでね! ぼくに見えたのは、スーパーカブのハンドルだけだった(笑)」とリキさんは笑った。
それほどに、このスーパーカブへの関心と人気は高く、月に3万台という破天荒な需要予測も現実味を帯びてきていた。発売から2ヵ月後、ホンダ副社長・藤沢武夫は新工場の建設を決定し、埼玉製作所で生産管理課長をしていた塩崎定夫をその担当者とした。
発売翌年の1959年、スーパーカブの年間生産台数は32万台となり、月産3万台は目前となったが、それは同時に、浜松と埼玉の工場だけでは不可能であることも示していた。本田宗一郎と藤沢武夫、そして塩崎定夫は、「土地の話」があると、その都度、日本各地を飛び回っていたという。
ホンダにとって第三の新工場をつくろうというときの、こんなエピソードが残っている。それは、本田宗一郎は新工場を「トヨタの隣に」つくりたいと望んでいたこと。リキさんは、「やがてトヨタは、日本のみならず、世界企業となる。その“横綱”の隣なら、ホンダの社員も、それを追い越そうとファイトを燃やすはず」と、宗一郎が考えていたのだと語る。
結局、この“横綱の隣”というアイデアと願望は、適切な土地がなかったために早期に断念されるが、これはなかなか興味深い歴史の「if」のひとつではないだろうか。
そして、新工場建設担当の塩崎定夫は、リキさんの取材に対して、以下のように証言している。(『サーキット燦々』より)
「工場立地にいいところがあると聞けば、群馬の館林、栃木の宇都宮、愛知の犬山、長野など、どこへでも出かけました。(略)だいたいが県や市といった自治体からの話で、こっちの意向も聞かぬうちに、本田さま、夜席を設けてありますので……。(略)本田(宗一郎)は、『そんな席に、俺は来たんじゃねーっ!』と怒り出しますしねえ。あるところでは、同行の社員を置き去りにして、自分で運転して帰ってしまったこともありました」
こうした経緯を経て、また、当初の計画よりもさらに大きな土地が必要になってきたということも絡んで、三重県の「鈴鹿市」と折衝する機会が訪れる。1959年であった。
(2)“鈴鹿”を決めた熱いお茶と荒野に立った旗柱
本田宗一郎とその一行が、鈴鹿市を訪れたのは夏の暑い時期だったという。そしてその一行は、アロハシャツや長袖のワイシャツといった軽装で市庁舎にやって来た。当時の鈴鹿市長・杉本龍造は、まずお絞りを出す。訪問者たちが汗をぬぐったところで、次に出されたのは熱いお茶だった。
当時の鈴鹿市長・杉本龍造。
「冷たいものじゃなかったんだね。お茶だから、逆に、喉の渇きをピタッと止める」(リキさん)
このとき、杉本市長は、一行のなかで最もラフな格好のアロハシャツの男が、まさか「本田宗一郎」であるとは、当初まったく思わなかったという。このへんも、なかなか“ホンダらしい”話ではある。
そして、すぐに用地の説明に入るが、これは机の上ではなく、現場で行なわれた。市庁舎からクルマで10分ほど走ると、小山が点在する見渡す限りの“荒れ地”が出現する。第二次大戦の終わりから14年が経っていたが、鈴鹿市は、戦時中の飛行場跡や、海軍工廠の広大な跡地があり、その処理に悩んでいた。
その荒野で、一行の前に数歩進み出た作業服姿の杉本龍造は、サッと右手を挙げた。すると、荒れ地のあちこちから、一斉に旗が立った。「この旗が見える範囲で、10万坪です」と、たんたんと杉本の説明が始まる。
数刻後、杉本市長は、ふたたび手を挙げた。また、パタパタッと旗が立った。「この旗までですと15万坪です。こんなところでよろしければ、お使いください」。きわめて現場主義的な、そして何が最も大事なのかという“ツボ”を押さえた、杉本龍造の“プレゼンテーション”であった。
その“荒野”からの帰りの車中、宗一郎は藤沢に呟いた。「おい、ここにしようか」。即断だった。藤沢も異議はなかった。「ホンダ人」はこういった意志決定には慣れている。あまりの即断に杉本は驚き、本田、藤沢の人間性に涙を押さえきれなかった。
「いろいろな場所を見るたびに、本田(宗一郎)は『工場の立地条件は(略)その土地、地元自治体の人間性だ』と言っていました。まさに本田は、杉本さんの人間性、市職員の対応に惚れ込んだのであって、巷間でいわれる、近くに名古屋港があるからというのは、結果論でしかないのです」(塩崎定夫・『サーキット燦々』より)
「工場に必要なのは、水とか電気じゃないんだね。何で鈴鹿に、ホンダの工場ができたのか。さらには、サーキットが鈴鹿に生まれたのはなぜか。その因となったのは、杉本さんをはじめとする鈴鹿の人々だったというのは、やっぱり歴史として知っておきたい、残しておきたいと思うんだ」……とリキさんは言った。
第三回・了 (取材・文:家村浩明)