いつものティールームで、コーヒーカップを傾けながら、リキさんは切り出した。
「いや、前回の内容で、ちょっと気になることがあってね……」
そして、鈴鹿サーキット関連の当時の資料や、その後に書かれた《鈴鹿》についての関連記事などをテーブルに広げた。
「たとえばここで、江端さんは、こんな証言をしてます」
リキさんが指さしたのは「スズカサーキットとともに20年・江端良昭」というタイトルの雑誌のコピーだ。これは、鈴鹿サーキットの誕生からレースを見つめてきた当時の取締役支配人・江端良昭とリキさんの対談記事で、1983年に発行された「別冊モーターサイクリスト」誌に掲載されている。
ちなみに、今回いくつかの古い資料に触れてわかったことだが、鈴鹿サーキットは、かつては「スズカ……」とカタカナで書かれることが少なくなかった。また、しばしば「スズカ・レーシング・サーキット」という、今日ではあまり使われない呼び方もされている。
では、その「証言」を読んでみよう。たとえば、鈴鹿サーキット建設時についてはこんなやり取りがある。
大久保「コース形状とか構造など、世界中のコースを参考にされたと思いますが?」
江端「ウチの塩崎専務や、当時のホンダチームのマネージャー、飯田佳孝さんたちの建設部隊が、欧州のサーキットを回って見てきました。路面も、向こう(海外)の路面を茶筒のように40cmの円柱に切って、持ってきたりもしたんです」
大久保「へえー、舗装を切り抜いたんですか?」
江端「ええ、路面の階層がわかるようにですね。それをこっち(日本国内)の専門家に分析させて、材質の配合などを調べたんです。それで、同じ石を捜しましたら、岐阜のほうにありましてね。そのへんに転がっている石を使ってるわけではないんです」
フーゲンホルツ(左)を招いて、コースレイアウトが検討された。右から二人目で指示を出すのが本田宗一郎。中央が塩崎定夫。
こんな発言もある。
江端「(鈴鹿の)コースは、最終的には、河島さんとか本田(宗一郎)最高顧問あたりが決められたと思うんですが、いろいろな方にアドバイスはいただきました。なかでも、オランダのフーゲンホルツという設計家の意見は大きかったと聞いています。オランダのザンドフォールト・サーキットをつくられた方ですから、基本的にはそれを参考にしたと思うのですが」
大久保「ライダーの意見というのは?」
江端「当時のホンダのGPライダーの谷口尚己さんとか、故・鈴木義一さんたちの意見が生かされているようです」
――なるほど、いろんなリサーチをして、そしてヨーロッパに詳しい人、ヨーロッパでの現場体験を持っていた人たちなどから、広く情報を収集していたんですね?
「そうです。前回のような言い方だと、サーキットに関するまったくの素人が“猪突猛進”で突っ走って、そのまま、素人感覚で《鈴鹿》をつくった……ように思われそうな懸念がある。でも、そうじゃないということ」
「レーシング・サーキットについての基礎知識は、たしかに、なかった。でも、それはしょうがないよね、それまで、そんなもの、誰も見たことなかったんだから。当時の日本人で、海外のほんとうのレースコースを知っているのは、世界GPに出ているホンダのライダーやチーム員くらいしかいなかった」
「でも、だからこそ、関係者は強い学習意欲と旺盛な好奇心で、サーキットつくりに関わった」
さらにリキさんは、もうひとつの記事を指差した。
それは「モータースポーツ界の夜明け」と題された塩崎定夫の一文だったが、そこにはこんな“すごいこと”が書かれていた。
日本における本格的なレーシング・サーキット建設プロジェクトの中心的な役割を担い、後に(株)モータースポーツランドの初代総支配人を務めることになる塩崎は、サーキットのコースをデザインするに際して、「ヨーロッパを見て来い」という指示を本田宗一郎から受ける。
《鈴鹿》のプロジェクトは、そもそもはクルマ(二輪、四輪)の基本性能を上げるためのコース(サーキット)つくりだったから、「(そのためには)ヨーロッパのテクニカルコースが良いとの本田(宗一郎)さんの考え」があったと、塩崎はこの一文のなかで語っている。
そしてこのとき、本田宗一郎は、ヨーロッパへ出向く前の塩崎定夫に、こう言うのだ。
『いきなり見に行くより、自分で一回つくってみろ。そうすればカーブの限界点など、疑問がわいてくるはずだ。疑問を持って行けば、要点を狙い撃ちで調べられる。ムダ足踏むな、時間を稼げ』
「そこで私も自分のイメージをいくつか練った後、模型店へ、千分の一(サイズ)の(サーキットの)石膏模型を頼んでから渡欧しました」(塩崎定夫)
――なるほど! まったく白紙の状態で海外視察なんかに行くな、まず自分の“手を動かして”、何かをやってみてから、その体験をベースに外国を見て来い、と?
「そういうことです! たとえばエンジンやバイクをつくるにしても、あくまで自分たちでまずやってみて、そして、もし“外”に学ぶべき点があるなら、それを採り入れる。そういうスタンスがあったからこそ、ホンダは多くの独創的な製品を生み出してきたのでしょう。そのスピリッツの継承と高揚を忘れないでもらいたいのですが……」
また、塩崎定夫は、別の資料である『鈴鹿の道は世界に通じた(ホンダランドの創立)』のなかで、このときの欧州視察について、以下のように書いている。
「オランダのアッセンとザンドフォールト、西ドイツのニュルブルクリンクとホッケンハイム、ベルギーのスパ・フランコルシャン、イタリーのモンツァ等々と精力的に調べまくり、コースの形状測定、付帯設備調査にとどまらず、(略)レース運営資料の収集に熱中した。その年の大晦日に帰国、正月休みも返上して、プランに取りかかった」
――うーん、“熱い”証言ですね!
「そうでしょう? この頃の日本企業は、まだ国内体制を固めるのに精一杯でした。外国への進出意欲はあっても、実践できる企業は僅かだったし、まして、まったく未知の“レース場建設”でしょう? これを理解できる人を探すことの方がむずかしい時代でもあった」(リキさん)
第五回・了 (取材・文:家村浩明)