◆1962年当時の資料から、《鈴鹿》を考える
――今日は、先日見せていただいた当時の資料について、お話を伺いたくて──。
「え? ネタになるような、そんな特別資料なんか、あったっけ?(笑)」
――いや、当時、リキさんのように、リアルタイムで“事態の推移”にお付き合いされた方々にとっては、あまりフシギではなかったのかもしれません。でも、いまの“目線”で見ると、当時の資料って、興味深いところがいっぱいあるんですよ。たとえばですね──
その日のリキさんとの談話は、こんなふうに始まった。
ここで話題にしている当時の資料のタイトルを列記すると、
- 「鈴鹿サーキットの説明」1962年11月現在〈日本自動車協会/この後『日本自動車レース協会=JASA』と改名された)
- 「全日本選手権ロードレース大会」トレーニングと地方予選はこうしておこなわれる(日本モーターサイクルレース協会)注
- 「スピードと技術の祭典」MFJ主催 第1回全日本選手権ロードレース大会のしおり(日本モーターサイクルレース協会)
サーキットじたいが珍しい存在。まずは“その説明”が必要だった。
以上である。カッコ内は発行元というか、これらに盛られた“新情報”がどこから発せられているのかを示す。
1962年という時点で、《鈴鹿サーキット》という、それまで日本には存在しなかったものが出現した。
そしてそれは、単に出現しただけでなく、そこを新たなステージとして、日本では「行なわれていなかったこと」を挙行しようとしている場であった。
そのために、必要なことは何か? それを行なうには、どんな準備や決意が要るか? さらに、そもそも「サーキット」とは何なのか?
このようなことを、当時の日本の社会に対して“広報”しなければならない。《鈴鹿》をつくって、それを運営しようとする人々は、おそらく、このように考えたに違いない。
リキさんは言う、
「それは、そうかもしれない。何といっても、完全に舗装のコースなんて、それ自体が信じられない話で……。ただ、ライダーなら誰しも望んではいたけれど、いざ、実現したとなれば、今度は、いったいどうやって走れば良いんだろうって、変な不安もわいてね」
――そもそも、整備された舗装路というのが珍しかった?
「そうです、当時の日本の道は“酷道”(国道)と“険道”(県道)しかなかったから!(笑)」
たとえば、『スピードと技術の祭典』という小冊子には、こんな記述がある。
「世界の一流強豪選手が最高時速250キロ、平均時速でさえ150キロ/時から180キロ/時というスピードで、技術のすべてを賭けてタイトルを争う世界選手権ロードレース、MV、MZ、ノートン、クライドラーおよびホンダ、スズキ、ヤマハなど、世界のトップクラスにあるチームが全力を注いで記録に挑戦するグランプリ・レース、これこそ機械文明のシンボルともいえる最高のスポーツでしょう」
「そこで、近年急速に盛り上がってきた国内モーターサイクル・スポーツを、国際的なルールに基づいて正しく指導し、青少年に夢と希望を与えるための雄大な目標をつくり、われわれ日本人の目の前でその活躍ぶりをあますところなく展開しようということで計画されたのが、第1回全日本選手権ロードレース大会なのです」
「コースには、新設の鈴鹿サーキットを選び、わが国で初めて、FIMの制定する国際ルールによって、全日本選手権のタイトルが争われます。その水準は高く、最高200キロ/時以上のスピードと、日本のトップクラスの選手によって争われるこの選手権大会は、その豪快なスピードとテクニックで観客の心をとらえ、まったく新しいスポーツとして全国的なブームを巻き起こす最初の行事となることでしょう」
――「青少年に夢と希望を……」ですからね。格調高いというか、喜びと誇りでいっぱいというか?
「当時は、日本のメーカーが既に世界GPに参戦していまして、彼らも、レースというものが外国ではどのように扱われ、日本では想像できない社会的認知を得ていることを改めて知ったのです。そして、早く、日本もそうありたいという気持ちが強かったですね」(リキさん)
――あと、いろんな資料で、「速度」についての記述が多いですが?
「《アサマ》にしても、最高速というのは、ダートということもあって、直線で160km/hくらいしか出なかった。米軍基地を借りての舗装路でのレースにしても、滑走路への誘導路をコースにしただけのものだから、直線もわずかでした。だから、あまり《アサマ》と変わらない」
――なるほど。しかし《鈴鹿》は、それらとは異なる、異次元の速度である、と?
「だから、250ccなら220キロ(km/h)は出るとか、125ccでも180キロ以上なんて、オートバイの設計者が聞いたら、たまげるような噂ばかり広まってね。話を聞いただけで、レースに出る元気がなくなっちゃった人、けっこう、いましたよ(笑)」
もうひとつ、当時の資料で多用されている表現がある。《鈴鹿サーキット》は「世界一のレース専用コース」であると宣言しつつ、同時に「スズカ・レーシング・サーキット」という言い方で語られていることが多い。リキさんは述べる。
「これは、僕の著書(『サーキット燦々』)にも出ていますが、当時、《アサマ》も、それからモトクロスも含めて、オートバイの競争といえば、船橋や川口の公営オートレースとごっちゃにされていたのです。そこで、『レーシング』、とりわけ『ロードレース』を強調した用語が使われ始めた。」
「『サーキット』という呼び名も、耳慣れませんでしたね。これは、オートレース場とは違うんだ、の意味もあったでしょう」
――なるほど、さまざまな意味で、今度できた《鈴鹿》というのは、あなた方が知らない「場」ですよ、と。ゆえに、ちゃんと学習してほしい?
「だから、トレーニングなしには、鈴鹿は走らせないよ、ということになるのは当然ですね。ただ、それなら、どうすれば走れるのか、どんな資格が要るのか? 全然わからなかったのですが……」
「でも、このへんは上手く考えられていて、“完全なロードコース”をちゃんと走れるであろうというライダーだけを選別する、そういう仕組みをつくることから始めるようになっていたのですね」
――そこで、「トレーニングと地方予選は、こうしておこなわれる」という冊子になるわけですね。
「その冊子に、『心構え』という項目があるでしょう。要するに、日本で行なわれていたそれまでのレースとは丸っきり違うんですよ! ハッキリ言えば、どんな経験者でも、みーんな新入生ですよ! ということ」
――これですね、『スズカ・レーシング・サーキットにのぞむ心構え』。ここに、「コース幅が広くて(中略)視界が広すぎるため、いままでの日本人ライダーの持つスピード感覚ではついてゆけないものがある」とあります。
「でも、そんなこと言われても、何のことだかわからない(笑)。国際レースの経験があるライダーだったら、話は別だったでしょうが」
――ははあ、そういう「スピード感覚」というか、そんなにも「速く走れる」場というものが、《鈴鹿》以前の日本にはなかったんですね。そこから、「いままで国内で開催されたどんな競技とも本質的にまったく異なる高度な水準の競技が、このコースで開催される」という説明になってくる?
「ええ、日本初のロードレースに出たいと思う人はゴマンといるわけです。ですから、ロードレースへの出場希望を申し込めば、規則や道徳教育のような精神面での注意など、それこそ学校の教科書のように、たくさんの書類が送られてきました」
「でも、そこにある注意書きや、書かれている内容が、正直なところ、なかなか実感できない。サーキットに行って見て、初めて、ああ、こういうことなのかってわかるのです。僕だって、鈴鹿サーキットを初めて走ったのは、レース決勝の2週間前くらいですからね」
そして、リキさんは、付け加えた。
「とにかく主催者とすれば、歴史的レースに重大な汚点を残したくない、社会の批判を浴びることがないようにと、心配だらけだったのでしょう……」
第七回・了 (取材・文:家村浩明)