「《鈴鹿サーキット》は1962年9月にオープンするのですが、その年の11月には、ここで、二輪の全日本選手権ロードレース大会が行なわれる。そういう予定なんですね」
リキさんは言った。なるほど~、レースする場ができればレースもあるよな……と聞き流してしまいそうだが、よく考えると、鈴鹿にコースができたという時点から、そのコースでの実際のレースの開催まで、時間的に二か月もないことになる。
そして、60年代前半という時点で、本格的なロードレースを行なえる施設は(新設の鈴鹿以外には)日本のどこにもなかった。ごく一部の海外でのレース経験者を除く、すべての日本人にとって、「本物のロードレース」は、やるにしても見るにしても、まったくの“未体験ゾーン”だった。
ただし、《鈴鹿サーキット》という施設がつくられていること、また、そこでレースが行なわれることは、当時の日本でとくに秘密ではなかった。
その裏付けとなる事実も、程なく明らかになり、1962年8月の終わり頃、この11月に新設のコースで全日本選手権ロードレースが行なわれるという告知が行なわれた。時を同じくして、全国のバイク販売店(大手銘柄を看板に掲げたショップに限られたが)の店頭には、「ライダー求む!」というポスターも貼り出された。
さらに、《鈴鹿》で行なわれる本格的なロードレースを“仕切る”ための新しいオーガナイザーも、その活動を開始していた。
「場も、人も、組織も、すべて一新しよう! いいかえれば、レースに対して、みんなが“新入生”であるという時代になったんだね」(リキさん)
“眠れる獅子”が目覚め、1962年の《鈴鹿》オープニングに投入した市販レーシング・スポーツ、ホンダCR110のレース仕様(上)と、CR110スポーツモデルが出た後に、モトクロス用として発売された市販モデル(下)。
しかし、《鈴鹿》のオープン時期とレース開催の間はきわめて短い。つまり、ライダーをはじめとするレースの関係者が、みんなで新しいコース(鈴鹿)に慣れ、しかる後にレースをしよう……というスケジュールではなかったのである。このことを一番よく知っていたのは、サーキット建設そのものに深く関与していたホンダだった。
ホンダは「11月の鈴鹿」のために着々と準備を進めていた。7月のクラブマン・レース(九州・雁ノ巣)では、工場レーサーと見紛うばかりの「市販レーシング・スポーツ車」を持ち込んで、50ccと125ccのレースで圧勝した。これは、来たるべき《鈴鹿》のレースのための予行演習であった。現場にいたリキさんは、「それはまるで、眠れる獅子が目覚めたかのような迫力だったね!」と語る。
ホンダが《鈴鹿》でのレース開催に備えて、全国から集めたライダーは500~600人に達したという。そのメンバーを走らせる練習場所は、もちろん、本番と同じ鈴鹿サーキットである。
その訓練を仕切ったのは、闘将・藤井璋美監督。「キミたちのライバルは多いんだぞ!」と、集まった“レーサー志願者”たちを叱咤激励し、ハードなトレーニングを行なった。《鈴鹿》というシビアな場と、慣れないコースで、トレーニング中の怪我人も少なくなかったが、指揮するもの、集まってきたライダー、そのどちらもが熱かった。
第九回・了 (取材・文:家村浩明)