では、この頃、レーシング・ライダーとしての大久保力選手は、どうしていたか?
2サイクルエンジンのオートバイメーカーの老舗、トーハツ(東京発動機)のサポートを受けてレース活動をしていたリキさんだったが、そのトーハツが業績不振により、レース体制を縮小する方向となった。そのため、ライダーへのレース車の提供を制限する状況となっていた。
このまま、トーハツ・チームに属していても、自分には、クルマ(レーサー)が回って来ないのではないか!? こう読んだリキさんは、新しい道を探る。
「旧知の“モッチャン”望月修さんが、スズキの国内レースのマネージャーをやっていたんですね。そこで彼に相談しました、スズキに乗せてもらえませんか、と」
「モッチャンは、よかった、ちょうど応募してきたライダーの選考をするところだったんだ、募集に応じたという格好でうちのチームに加わってくれ、と──」
――なるほど、当時のスズキ・チームというのは?
「さっき述べたように、全国レベルでのライダー募集の動きが各社にあり、このときスズキでは、応募してきたのが300人くらいでした。そこから、推薦された書類を選考して200人ほどに絞り、その200人をテストコースに集めて、実技の試験をしました」
――おお、スズキには、テストコースがすでにあった?
「スズキは、1960年から、マン島TTレースに出ていましたからね。海外レースに参加したことで、テストコースが必要であることを知り、間に合わせ程度の簡単なものでしたが、テストコースをつくっていました」
「場所は、本社のある浜松市の周辺、『米津浜』(まいつはま)というところ。もとは農道で一本道。長さは2キロほど、幅は3メートル強。コースの端まで行ったらUターンして戻ってくるというレイアウト。これはホンダの荒川コースにも似てますね」 「海というか、浜を目の前にしてのコースだったので、スズキでは、このコースのことを『前浜コース』と呼んでいました」
スズキが確認のために作った米津浜のテスト風景を眺める経営陣。
――そこでトレーニングを行なったわけですね?
「62年の9月末頃から、この『前浜』でトレーニングが始まりました。書類選考で200人くらいいましたが、実際にトレーニングが始まって、そして最後まで残れたライダーは14人だけだった」
「このときにライダーたちの先生役となったのは、望月修氏、久保和夫氏でした」
「でもね、スズキのレース全体を統括していた岡野総監督は、11月のレースでは、到底ホンダには勝てないと見ていました。スズキのマシンは市販車ベースのチューンモデルであったのに対して、ホンダは、鈴鹿のために、すでにスーパースポーツ車といえる“市販レーサー”を用意していたからです」
そして、リキさんはつづけて言った。
「メーカー系のチームは、こうして、『11月の鈴鹿』に向けて、着々と準備をしていました。その一方では、メーカーとは無関係のプライベーターたちに対しては、鈴鹿でのレースに参戦できるような“救済策”も設定されました」
「それは、10月に鈴鹿で行なわれる、サーキット走行の一般講習会を受講しなさいということ。その講習後、各自でトレーニングを積み、のちに行なわれるレースの参加資格テストで規定のタイムをクリアすれば、予選に出場できるというものでした」
この呼びかけに応じて集まったマシンのなかには、パリラ、ドゥカティ、NSUといった外国車もあった。しかし、この“救済策”で救われたマシンやライダーは、実際にはほとんどなかったという。
「1962年の《鈴鹿》完成という段階で、本格的なロードレースとなれば、『メーカー系』以外で、11月のレースに参加するのは、まずムリでしたね……」(リキさん)
第十回・了 (取材・文:家村浩明)