供給に不具合が生じて原油が高騰し、世界規模の“オイルショック”と呼ばれる事態が1970年代に2度発生し、世界経済全体が混乱した。日本では“石油危機”とも呼ばれ、石油を“浪費する”、自動車レースの開催が難しくなるのではないかとの懸念が国内レース界に広まった。
----1973年は日本のレースの中心がフォーミュラカーになるような傾向で、そのシンボルである日本グランプリが盛大に行われたのは、ほんとに幸運としか言いようがないですなー(笑)
「と、いうか、石油がなくなることなんか、ほとんどの国民も考えなかったのじゃないかなー。それが突然に騒然となったのは、当時の首相だったか大臣だったかが、〝石油がないとトイレットペーパーなんかの日用品もなくなる〟的な発言が火種となって西の方のオバチャンたちがスーパーに押し寄せ、日用品の買いだめが日本中に広まってしまった。その発言は、トイレペーパーや紙などを作るにも石油を炊いた高熱で乾かすからいろいろな生産に石油は欠かせない、ことを言ったのを曲解か誤解かされたんだって(爆笑)」
----その騒ぎになったのが秋口あたりだったのですね
「そうゆうことですから、世間が騒がしくなったのは年末辺りからひどくなって、レース仲間がガソリンじゃぶじゃぶ喰う大型車を駐車していたら、〝この非国民めがっ!〟ってクルマ蹴飛ばされたって(爆笑)。とにかくクルマ乗るのが引け目感じちゃって」
----そうなると、レースへの影響が長引いた?
「僕は、こんな情況じゃ、レースなんか出来なくなるなーって深刻だったけれど、社会的混乱も半年も経たずに平常になってきて、日本って、いっとき騒いだり慌てたりするけれど、悪い情況それなりに工夫して乗り越える知識や感性が高いのだろうね。一般生活も短期間で平常並に戻って翌年(1974)の春にはレースが再開したからねー。ただ年間のイベント回数は減り、鈴鹿では少ない燃料で長距離を競う耐久的な種目を増やしたり継続への努力が見られ、こういった傾向が一般への元気づけにもなったように感じたね」
----それで翌年もグラチャンがなくならずに開催され、鈴鹿サーキットではF1に直結する『F2シリーズ』が軌道に乗り始めたと言えますが、日本の自動車レース史の流れを変える大きなアクシデントが連続して発生したのはオイルショックとは別の意味でのショックでした
「そうですね、あまり触れたくない記憶ですが、1973年11月と翌年の1974年6月に,富士スピードウェイで大きなアクシデントが連続して起きてしまいました」
----合わせて3名のドライバーが亡くなる辛いアクシデントでした。そのいずれもが6kmフルコースのバンク手前の1コーナー周辺で起きたので、1974年6月のレースを最後に、6㎞フルコースは使われなくなり、以後のレースは4.3㎞のショートコースを使うようになったのですが、この大きなコース変更を、どう考えますか力さんはどうお考えでしたのでしょうか。
「バンクにもいろいろありまして、谷田部のテストコースや米国のデイトナ・スピードウェイなどのバンクは、ストレートから壁を登るように立ち上がる形ですが、富士の30度バンクは、ストレートからいきなり下ってバンクに入る、まあ特殊な形状ですね」
----このバンクを使わないスピードウエイの方針は、やはり危険だから、という理由でしょうか。
「まあ、そうなんでしょうねぇ。ただ、危険だからというのが最大の理由であれば、レースコースはどこもある意味危険なわけですから、僕は釈然としませんし、危険度を軽減する工事も可能でしょうに」
----この辺りの情況は、とことん検討の結果といったものが感じられませんでしたが。
「当時の概要を記せば、スタートして、トップを争う2台が、サイドbyサイドの接戦でバンクに向かっていき、それっとばかりにバンクに突入! その直前で2台が軽く接触して、軽くと言っても、250㎞/hの高速ですから僅かなマシンの挙動が他車にも大きく影響します。並列する2台の右マシンが互いの接触を避けようとした瞬間、左側の車に弾かれる形で、後にショートコースとなる1コーナー側にコースを斜めに突っ切って、後続車に絡み、その後にいた鈴木誠一と風戸裕が混乱の現場を避けようとしてコースを外れて左側の信号器ポールに当たってしまった。更にスタート直後で燃料が満タンだから、ひとたまりもなく火が出てさらに事態を悪くしてしまい、結果として鈴木と風戸が帰らぬ人となった、というのが専らの定説です」
----悲しい事故でしたが、私は鈴木誠一選手と風戸裕選手のアクシデントを観客として現場にいたのですが、それは大きなショックでした。
----その後、世界的に名高い6kmの高速コースは、バンクを省略してバンクの手前を右に切り込む4.3kmの右回りコースに変更されましたが6kmが当たり前のドライバーのお一人として、リキさんはどんな感想をお持ちだったのでしょう。
「そうねー、それまでは長いホームストレッチをアクセル踏みっぱなしの全開でぶっ飛びながら、どうバンクに突入すれば良いのか、それが身についてしまっている者にとっては、何か中途半端、小便が出っきれないような(爆笑)、おっと紳士にあらぬ言い方で(笑)。とにかくね、ストレートは最高速を出すための走りでしょ、ちょうどトップスピードの限界になる所から右コーナーとなれば、折角の最高速度をどこで止めりゃあいいんだ、ですよ。これって難しいのです」
----その気持ち、わかる気がします、せっかくの最高速度もったいないでしょうね(笑)。
「おっおーおー、編集長が解ってくれるなんて嬉しいねー(爆笑)、もっと硬派の説明になれば、今まで6キロに合わせたり考えたりの変速ギヤ設定が難しいのです。5段ミッションの高速時に5段から4段-3段に落とし右コーナーに入っていくのですが、快適な変速ができた試しがない」
----なーるほど、緻密なものなんですねー。そうなると、その後に、反対周回の左周りを使うレースが出てきますが、右周りのフルコース、左右両方のショートコース、そして6kmと、力さんは3種類のコースを経験しているわけで、それぞれどんな特徴があったのですか?
「ざっくり言うと、速度無制限のフルコース、これは解りますね、面倒多くてイラつく右周りショートコース、違和感なく結構楽しめる左周り、といったところかな。でも簡単なコースなんてありませんよ、ロードレースのコースって長さや形態だけでなく東西南北の位置も重要なのです」
----力さんがお好きだったのは?
「やはり、大排気量車から小排気量車それぞれの走り方ができる6kmフルコースですよ。ただ、バンクの壁が凸凹のアスファルト舗装でしたから現役の内にもっと平坦にならないものか、と常に思っていましたが、当時の土木工事レベルでは難しかったようだね。とくに富士での日本GPが1966年にあって、この時スタート後ダンゴ状態のツーリングカーがバンクに突入した途端、前々列の一台がガードレールを跳び越えて姿を消し、その破片か何かが僕のフロンドウインドウを直撃、前方視界ゼロで惨めなリタイヤの記憶が消えずのバンクだからねー、なんともです」
----バンクの話ばかりになってしまいますが、ここは度胸で突っ込んでいくのですか(笑)。
「度胸って、好きな女子を口説くには必須だけど(爆笑)、レースに度胸が必要かどうか考えたことないなー。確かにバンクを見て、ここを高速で走り抜けるのは度胸いるだろうなと思われるのは当然でしょうね。でも、そういったことでなく、全開で走るマシンからバンクを眺め、今走っているラインでバンクのどこを目指して飛び込むか、あるいは、どこの高さから下方に下れば速度が増すのか、その日の路面状態のバンクで安全なラインはどこか、など、そっちばかり計算です。ただ、バンクのみならず、オーバースピードでコースアウトしてガードレールや防護壁・機具に激突が避けられない場面では、咄嗟にどうぶつかればマシン・我が身とも損傷少なく済むか一瞬の判断して実行するのは、まぁ、言ってみれば度胸でしょうけどね」
----フーム。
「度胸というのと、ちょっと違いますね。冷静な決断力、まぁ、そんな感じかな?」
----そして、そのアクシデントが富士のレースの命運を大きく替えてしまいました。そのアクシデントを受けて、安全を日本にも知ってほしいということで、写真家の間瀬明さんが、懇意にしていたF1のコンストラクターの集まりのFOCA(フォーミュラワン・コンストラクターズ・アソシエーション)代表のバーニー・エクレストンに相談して、1974年11月のグラチャン最終戦のレース後に、5台のF1マシンを走らせる『F1デモラン』が行なわれました。
「5台の迫力ある模擬レースだった記憶があります」
----私が初めて観たF1レースは、1976年10月の日本GPでしたが、現役F1ドライバーとその年のF1を走っていたそのまんまのマシンが富士スピードウェイにやってくると聞いて、富士スピードウェイにすっ飛んで行きました(笑)。そのデモランで目の当たりにした5台のF1マシンは、猛烈な迫力で衝撃的でした。
「気持ちは、よ〜く分かりますよ(笑)」
----参加したのは、エマーソン・フィティパルディ(マクラーレン)、ロニー・ピーターソン(ロータス)、パトリック・デパイエ(ティレル)、カルロス・ロイテマン(ブラバム)、そしてジェイムス・ハント(ヘスケス)の5台でした。
「1974年ワールドチャンピオンのフィティパルディを筆頭に、確か全員がシリーズランキングのトップ10のトップドライバーだったですね」
----はい、ハント以外は優勝経験者でした。最終コーナーで観ていたら、カルロス・ロイテマンの白いブラバムが、タイヤが半分ダートにはみ出ているのにカウンターステアを当てたままアクセル全開で立ち上がっていく姿はいま思い出してもコメカミがジンジンします。
「若き編集長は、F1マシンの性能とドライバーのテクニックに度肝を抜かれたわけですね」
----ええ、22歳でしたから頭に雷が落ちたようでした(笑)。
「桑島正美君が、ロイテマンと交代してブラバムに乗ったのもトピックでした。
----現場にいたのに、その事実は、後々まで知りませんでした。
「それはそれは」
----さて、次回は、富士グランチャンピオン・シリーズに触れつつ、鈴鹿のフォーミュラ路線についてお話いただきたいと考えています。
「そうですか。よろしくお願いします」
富士スピードウェイのコースレイアウトは、歴史とともに変化した。それぞれのコースは、観る方にも思い出深い。 ・・・・
開場以来進化を続ける富士スピードウェイ。2022年には、最終コーナーアウト側に、コースを見下ろし、振り返ると富士山が見える素晴らしい景観のホテルが完成した。
第百三回・了(取材・文:STINGER編集部)
制作:STINGER編集部
(mys@f1-stinger.com)