30度バンクを含む豪快な富士スピードウェイで始まった『富士グランチャンピオンシリーズ』は、かつてニッサンやトヨタがメーカーの総力をあげた大排気量・ビッグマシンレースに代わるほどの人気レースとなって日本のレース界に新たな息吹を吹き込む存在になろうとしていた。だが、そんな折、大きなアクシデントに見舞われることになった。
----前号で、富士から鈴鹿へ、という流れの解説をお願いしましたが、その前に、これは何としても触れておかなければならないことがありました。
「そうです。1973年11月と、1974年6月富士GCでドライバーが亡くなる大きなアクシデントが起こってしまい、このレースの内容や継続への大問題になったのです。今(2024年)からちょうど50年前でした」
----特に1974年6月のアクシデントは、事故の原因調査に地元警察署はてんやわんや、三大新聞が一面で報道するなど、社会的ニュースにもなりました。
「大事故の遠因となったのは富士スピードウエイの名物でもあった30度バンクで起こってしまったように言われ、あたかもバンクの中で4台も5台もぶつかり合ってのように見られますが、それは大きな間違いです。即ち、事故はストレートの終わり個所、バンクへの進入体制が始まる箇所ですから、バンクで事故が起きたのではありませんっ! なのに、事態はどんどんバンクがバンクの、といった方向へ進み、ボクには本末転倒な騒ぎになってしまった感がいっぱいでした」
現在のショートコースへの入口付近で接触事故は起きた。
1974年6月4日。2ヒート制の2ヒート目が、ストレートからバンクに向かったところでトップ争いの2台が接触、後方集団が混乱する中で、画面右の中団の2台が接触して隊列を横切ってコース反対側に放り出され、折り重なってショートコース入り口で炎上した。
2人は無事にマシンから出たが、ストレート左側を進んでいた鈴木誠一と風戸裕が信号機ポールに激突する大惨事となった。
----そういった雰囲気、金網の外にいた私も同じでしたが、リキさんたち、内部の人々の思いも同じだったのですね。
「そうです。バンクが悪いということではないのです」
----どうして、そんな経緯(いきさつ)になっていったのでしょうか?
「富士スピードウェイのバンクは、壁がそそり立つような斜面というのは度々話していますが、要するに、真っ平らな舗装のバンクではなく、帯状の舗装路面を下から上に3段4段と積み重ねたような形状なのです。多分、今から60年近い前の舗装技術、おまけに冬は零下になる地域での施工ですから、帯と帯の継ぎ目はアスファルトが滲み出たような凹凸路面になってしまい、とても真っ平らなバンク路面には程遠く、良い路面と悪い路面が混在のバンク路面でした。だから、どのドライバーも良い路面に入れるバンクへのアプローチに突入する時にポジション争いになり、その争いがすさまじく、自分に有利なライン獲得に他車を暴力的に排除するシーンが度々見られるようになってしまったのも事実です」
----他車を危険にさらすような運転はレース規定以前のドライバーとしての“質・人間性”の問題ですが、いつの間にか薄れてしまった?
「まあ、そう言われても仕方ない情況でしょう。とくにエンジン排気量が、小は1000㏄から大は6000㏄の混走となっていた日本GPでさえ凸凹舗装のバンクに突っ込んでいき、それが何の違和感もなくなっていたこともあるでしょう。必然的に大排気量マシンが“小ッチェエのはもっと端っこ走ってろ、コースの最速ラインはおいらのもんだ”とばかりに走り回り、った速いマシン・強い者は何でも優先が当たり前になってしまった内容でした。1969年の日本GPを最後に大小のエンジン排気量差はなくなりましたが、グラチャンには、メーカー直属の“ワークス”がなくなっちゃって、いわば浪人ドライバーの多くが参加し始め、マシンの大小強弱ではなく、ドライバーの中には〝遅い連中は俺の走りを邪魔するんじゃねー〟的な特別な存在といったようなドライバー意識のセンパイドライバーも結構いたからねー、、自分よがりの走りで周りへの安全や他人がどうなろうが構わない、、要はドライバーとして人としてマインドの欠如も感じるなー」
----ふーむ、む、大変な考察ですが(笑)やはりバンクが直接の原因ではないようで。
「大変な考察って、そんな風に取られるとは意外だねー(爆笑)、笑える場面じゃなくて(笑)、元々、どんどん高速化するレース内容に、舗装の継ぎ目・凸凹なバンク路面を補修しなければ危険性が増加するだろうということは誰もが同感でしたが、バンクがあるから危険なコースだ、という見方はあまり強調されなかったのではないでしょうか。フォーミュラカーレースが本格的になって、海外からの参加者たちは、バンク路面の凹凸がマシンの下面にぶつかる、などの苦情はありましたが、バンクそのものへの異論は聞いたことなかったのですが、それが、“バンク廃止”とはねぇ」
----それでも、第一コーナーがバンクとなる世界的にも珍しいレーシングコースは、“もうバンクは使用しない”ということで、事実上、バンク個所は封鎖の決定になってしまいました。
「そうなんですよ、ぶったまげたなー、、。それも事故から半年も経たずして、まあ、充分に検討したんでしょうが、、遠い過去の出来事になりましたが、ボクは未だに釈然としないのです」
----リキさんが、それほど強いわだかまりを持たれているとは存じませんでしたが、そうなると、仮に、仮にですよ、あの場面にリキさんが関与していた、または、事故の後始末に関わる一員であったとすると、どのような解決策を持たれていたでしょうか?
「うん、ものごとの失敗に、ああしていたら・こうやっていれば、の、タラ・レバ論にされては困るけれど、事故の原因は、はっきりしているのです。即ち、2周のローリングスタートから直線スピードが最速になったところで、“さー、バンクに入るぞー”と気構える数台のトップ集団の車列が突然乱れ、複数台のぶつかり合いから4台が炎上、2名の死亡者を出してしまったのですが、この箇所がバンク目前でなく大小問わぬ平坦路の普通のコーナーであったら事故は起こらなかった、と言えるでしょうか」
-----う〜ん。
「要は、グラチャンでも日本GPでもツーリングカーでも、普通のコーナーと同じく先頭で入るのが有利ですから、そこに争いが当然のごとく起こります。とくに、富士のコースが出来た時から、バンクの良い路面と第2コーナーへの速度を上げるラインの獲得が必須事項になっていました。これは平坦な普通コーナーでも同じですが、ライン争いの数台が絡み合ったとしてもコースを外れエスケープゾーンにはみ出すのが通例です」
----確かに。
「けれど、同じ第一コーナーでも、バンクとなれば例外です。かつてバンク上部左端に、バンクを囲むように設置されていたガードレールを飛び越えて、20m近く落下してドライバーが亡くなる事故がツーリングカーレースで起き、大事故の前年1973年にはバンクの中で死亡事故が起きたことは知られていますから、ここでトチったら自分がどうなるか、他車にどんな危険を与えるか、とくにバンクへの進入には“絶対にしてはならない不文律”が育っていったように感じていました」
-----レースレギュレーションに織り込まれていた?
「いーえ、規則以前の問題というか、今の日本社会にも、“してはいけねーなら、そうゆう法律にすればいいじゃねーか”って自己行動を正当化するケースが目立ちますが、公の法律でも社内の規則でも、一般のルールに決められていない・書かれていない事柄はやってしてはいけない。そうした判断力・理解力に欠けていて、レース界にも同様のケースが多くなってきましたが、それを諫めるのはリーダー格の注意や周りからのブーイングに是正されてきた時代だったのですが。しかし、一人の勝手な自己中心の行動がとんでもない惨事につながるのがスピードレースなのですが」
----とうとう取り返しのつかない事態になってしまった。
「その結末が“悪いのはバンク”、ということで一件落着、こんなんでいいわけがありません」
-----そうなると、その時代にバンク廃止でオシマイではなく、当時のリキさんなりの解決策をお持ちでしたら、また、こんな惨事を再発させないためにいろいろお考えだったと思いますが。
「ええ、いろいろ話したり、簡単なコメントで取材に応じたりもありましたが、先にお話しした“絶対にしてはならない不文律”が、レース界全体に定着しつつあって、複数台が同時にバンク進入の体制の場合、ライバル車が5cmでも前にいれば、バンク内でのライン争いは控えるとか、バンク入口で3台並列なら狙ったラインをゆずって、前車の後方から次のコーナーでの隙を探るなど、大方の安定走行が通常になっていたこともありました。さらに、バンク内での走路争いは互いのロスを招く比率が大きいですから、特別な制限はしません。しかし、グラチャンが注目され出すとともに、バンク進入争いが激しくなり、安全性が保たれない公算が大きいのであれば、バンク入口の500m手前から車列の位置変更は禁止、当然、追い越しも禁止の制限箇所を設けるべき、というのが持論でした」
-----なるほど、理にかなってはいますが、レーシングコースに追い越し禁止区間がある、というのはどうなんでしょう。
「公道コースでは、そういった制限箇所は結構ありますし、パーマネントコースでもマシンの種類やイベントの内容で様々な制約も見られます。富士の場合、先に述べたような安全への危惧があるならば、そして、1974年6月以降のグラチャンが継続させるなら、バンク禁止という短絡なものでなく、もっと熟慮すべきでした。それにしても富士スピードウェイが、もうバンクは使わないという決定で大惨事を決着させたとはねー、、よくも決断したものだと思いますよ。〝総て世は事もなし(1800年代・英国RD)でよかったでしょうか、、」
----リキさんのお気持ちは未だに変わらないのですね。
「いえっ変われないないのです、、。前に話したかもしれませんが、警察での大事故聴取が続いたのでしょう? 疲れ切ったクニミツ(故高橋国光)がウチにふらりと来て、警察での色んなことを涙うかべて話し、帰りがけに〝なーリキ、お前こんなことになっちゃたけど、レースやめねーだろうな、やめないでくれよー〟って、顔をクシャクシャにして俺の手を放さねーんだ。〝そんなことねーよ〟俺の応えに安心したように帰ったけれど、僕らにもサーキットやレース界、ファンに対して、どうすれば良いのか、何も出来なかったねー、どす黒い雲に覆われたようでね、、。鈴木誠一・風戸裕、二人の故人に贈る哀悼の言葉もね」
----鈴木さんは、デイトナの耐久レース、風戸さんはCAN-AMとヨーロッパのF2に参戦を開始し、やがてはF1への夢を持っていたところでしたので、無念だったと思います。
「自動車なる乗り物が登場してから150年近くになるけれど、自動車の登場は馬や汽車との競争の始まりでもあって、それが競技となり今日に続き、同一のクルマでも、それを速く走らせるドライバーと他車より速いクルマを造るエンジニアとのタッグが生まれ、命がけなタッグチームの闘いにはドライバーの生死は付き物、仕方のないものとされてきたのです」
----確かに、そうゆう流れはあって、ドライバーの死は数えきれず、マシンを開発のエンジニアも開発研究やマシン製作の過労が死をもたらした話もあります。
「とくに第二次世界戦争が終結し、モーターレーシングが再開され、戦争での兵器製造の技術や材料が自動車製造にも流用され、また、石油加工のナイロン、プラスチックに代表される新しい工業素材は逸早くレーシングカーへの採用も盛んになりました」
----マシンの軽量化も急速に進みました。
「そうです、配線コードから車体の構成、まあ次々と出てきまして、1930年代の車体構成をエンジン排気量に合わせた部分改造が多く、それに新しい部品で造れるパーツを組み込んだり、要は新旧技術の合作といったようなマシンも出てきます。とくにクラッシュを想定の個所は新しく強固にしたのでしょうが燃料タンクは旧来のままでスピードばかり高まっていくのです。そういったマシンが事故れば、多くは火災が発生の焼死者も目立って多くなった時代です」
----そうゆう場面、良くグラビアなんかで見ましたが、火災を防ぐ研究などは遅れていた。
「その通りですが、マシンの構造だけでなく、ドライバーのユニフォームも不燃の素材でなければならないとなったのも1970年代初頭辺りからでした。今のF1でクラッシュしても滅多に火災にはならなくなりましたが、レース全体、ワークスマシンもプライベートマシンも防火・クラッシュ被害低減など安全規定の基本が整えられたのは1980年代に入ってからのことなのです」
----フォーミュラカーやレーシングGTは当然ですが、ビギナー向けのマシンでも基本的なセーフティーは同じくらいのようですが、その分マシンの価格も高すぎることから若年層の減少の原因でもあるようですが。
「そういった課題もありますが、マシンからドライバーの外部露出が大きいフォーミュラカーなどは、仕方ない規制でしょう。フォーミュラといえば、今の時代になって、ファンの増加が目に見えて多くなってきたようですから、次から(106号)は、フォーミュラカーと鈴鹿の現状に入っていきましょう」
第百五回・了(取材・文:STINGER編集部)
制作:STINGER編集部
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