リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第106回
日本レース界の新たな進路になるか

1970年初頭のいわゆる“オイルショック”の煽りを受け、ガソリンを消費する自動車レースはその風当たりを真正面から受けることになったが、それを乗り越え、耐久レースの富士/フォーミュラカーの鈴鹿という流れが見え始めた。

----このストーリーも、日本で初めての自動車レースとなった1963年の日本グランプリレースを皮切りに、その後のレースはどのような内容で今日に至ったのか、リキさんに語って頂き、いつの間にか100回を超してしまいました(笑)。

「ホント、何回何回なんて数えていないからねー、恐っそろしい話(笑)。ただね、レースも色々なカテゴリーが増えたり消えちゃったりしながら昨年は記念すべき60周年だったのですが、最高峰レースの名称で年に一回の日本グランプリを中心の話ですから、日本のレース界全体を語りきってはいないのです」

----仰る通りですが、日本でのレースが始まったら、あっという間に色んなレースができてしまいましたから、そこまでは編集部でも処理できませんし、第一に死んじゃいますよ(爆笑)。

「そうね、レースより危ねーなー(爆笑)でも、そう言ってもらうの嬉しいな(笑)。それで次は何だっけ?(笑)、あっその前に、さっき日本のレースが昨年で60年と話しましたが、メディアは当然に肝心なメーカーでさへ、そのことを知らねーのネ、たまげたなー、、僕が、その話をすれば、あーそーなんだー、で終わり、まあ若年層はそれでも良いですよ、でも、あの時代に情熱を燃やした当事者や年代の人も、あのレースがきっかけで日本のモータリゼーションが一気に加速され、今日、世界に肩を並べる自動車生産国になったのだけど、それすら解らねーの、役所だって自動車関係の沢山な団体だって、みんな同じよ、あきれ果てたより残念なのか悲しくなっちゃってね、、この国は、そんな連中の集まりなんだってこと、若い人は特に覚えておいた方がいいよ、もっともコロナが3年も続いたから脳まで感染しちゃったんだろうなー、いけねーまた愚痴っちゃった(寂しい笑)」

----そうでした、私も、そのことを知って、何かやらねばと思いましたが、、。次の70年記念は大々的な景気づけをしたい ですね。そこで、トランプさんも返り咲いたことですし、我らの方向も再考しなければと考えていますが(笑い)。

「編集長も凄いねー、トランプさんも登場だから(笑)。日本では現職大統領の人気が高かったようだけど、ニックネームを花札(ハナフダ)にすれば勝てた? だめかなー(爆笑)。

----ハハハ!

「で本題ですが(笑)、前回までにオイルショックや富士スピードウェイでの大惨事、同コースのバンク廃止の話題のピットストップが多かったので進めませんでしたが、米国の自動車排気ガスを規定の数値に浄化できないクルマは輸入禁止することへの技術開発に全メーカーは忙殺されている最中にアラブからの原油輸入ができないオイルショックが重なり、とてもレースどころではない情況に追いやられた説明が続きましたね」

----重苦しい世相、当然にレースなんかできるワケありませんが、それでも。

「そうです、それでも今や日本のレースの顔にもなった富士グラチャンの場合、レース主催側はマシンに供給する燃料始めレース運営の機能も問題ない、ドライバー側のチームも特別な課題もない、要するに“こんなご時世にレース?、ザケンジャネー!”って世間体の方が大問題。でも、レースに憑かれた方は、そんなことより、この先レースなんか本当になくなってしまうかも知れない、という切ない思いだろうねー。

----フム。

「それならば11月末の(1973年)残っているもう一戦を最後のレースにしよう、ということでGCシリーズ最終戦・ビクトリー200km強行されたのですが」

----悲壮な決断ですね、ジーンとくるものがあります、、。それで何か言いそびれられたような?

「ええ、それ以外のレースは開催中止になるのですが、サヨーナラ-日本のレースと思われたのでしょう、大勢の観客になっちゃって、こっちの方が問題だよね、レース以上のガソリン使って来るのだから(爆笑)。まっ、それは置いといて、レースのスタートから混戦になったままの状態でバンクに突入し、数台がバンク上部のラインを占めていることから、一台が下段のラインに入って、そこから上部に移ろうとしたらしく(目撃談)突然にスリップ、横になった車体に後続車が激突、はじかれた一台がバンク最上部にあるガードレールにぶつかって燃料タンクが破損したのでしょうバンクにガソリンをまき散らし、炎のバンクとなった数台に引火、将来を期待された新鋭ドライバー・中野雅晴選手が24歳の生涯を閉じるのです」

----そうでした。私も将来が楽しみにしていた若手ドライバーでした。そうしますと、これは次の年の大事故に続いてしまったのですね。

「そうゆうことです。1974年の大惨事は強烈な記憶ですが、この前年の事故が何かを暗示していたようで、残念です」

----そうなりますと、事故の記憶で過去のできごとをつないでいるみたいで悲しいですが、中野さんが亡くなったレースが1973年11月で大惨事のグラチャンが1974年6月ですから、その間は半年ちょっとですね、オイルショックはどうなったのですか?

「何か大騒ぎしてましたね(笑)。結局、日本もオイルショック被害に襲われた12月、以前お話したように、当時の田中角栄内閣で副総理を勤め、翌年に首相になる三木武夫氏が原油産出のアラブ諸国を歴訪し、日本は貴方の国との親友です、アメリカとばかり付き合ってはいません、とかなんとか平身低頭したかどうか知りませんが(笑)、とにかく上々の外交でアラブ諸国の米国同盟国に対する禁輸・原油供給削減などを中止してもらい、翌年(1974年)春先にはほぼ元の状態に戻っちゃった(爆笑)。三木さんて凄い(笑)」

----そうゆうことだったのですか(笑)まずはメデタシ、ラッキーですね(笑)。

「でもね、同じようなことが再び起こるかも知れない、という防衛感覚が社会に芽生えたのか、忘れちゃったかなー(笑)、まっそんなことで、1979年1月のイラン革命の影響で再び石油危機、これを第二次オイルショックと呼びますが、になりますがガソリンスタンドの営業時間短縮や深夜TVの休止などありましたが大きな社会混乱はなかったですねー」

----レース界もひと安心ですね。

「いえいえ、そんな単純なことでなく、これを機に燃料を多く消費する競技種目を再検討し燃料消費量も加味した耐久レースなどの導入や新たな種目の工夫も生まれるのです。さらに、灯油やアルコールでの実験や実際の試走もありました。また、レースではありませんが、1960年代末から主として都会に発生しだした大気汚染、青空がなくなり灰色の空、目のかゆみ、咳き込みその他の症状、これらは自動車排気ガスが原因とされクルマ悪玉論が大手を振り、自動車人は辛い立場でしたがクルマだけでなく工場の排煙、生活ゴミ焼却などあらゆる排煙が元凶の解明に少しは安堵したけれど、よどんだグレーの空が段々と青くなってきたのは嬉しかったですね」

----オイルショックで自動車の走行が減った、青空が戻った、何か複雑な心境で(笑)、レースも悪玉に?

「それは曲解であって(笑)、確かに自動車メーカー自らのレース参加はなくなりましたが、米国の排気ガス規制をクリヤーするエンジン開発の中にはレーシングエンジンに用いた技術が参考になったことが結構多かったようですよ」

----それは嬉しいことですが、レースのエンジンはアクセル全開で沢山の排気ガスをドバーッと吐き出しますから綺麗な排気とかエコノミーに相容れない性質に思えますが。

「まあ一般的にはそう見られるでしょうし、一口にレーシングエンジンとクリーン排気ガスの同一性とかでなく、レーシングエンジンはシリンダーに取り入れた燃料と空気を超完全に燃焼させることが何よりも求められ,完全に燃焼し切れていない燃料ガスが混じった状態では最大の出力が得られずクリーンな排ガスになりませんから、意外と難しいようですよ」

----そのような情況もあって決められた燃料の量で、どのくらい速く・どれほどの長距離を走るか、の競技がメインになった?

「それはオイルショックを機に長距離・耐久のレースが増えていったのですが、1970年代になりますとスプリントが多くなっていきますが、鈴鹿サーキットで行われた2回の日本GPが1966年には完成直後の富士スピードウェイに移りまして、翌年(1967年)の4月にはフランスのル・マン、米国のデイトナ、ベルギーのフランコルシャンで行われている24時間のレースを富士スピードウェイでも実施し、6キロのコースを延々走り続ける〝富士24時間レース〟を開催し、7月には〝全日本富士1000キロ、12月には〝富士12時間〟

 翌年(1968年)の3月には前年と同じ“富士24時間レース”、7月の〝全日本富士1000キロ”の開催して、富士スピードウェイは耐久レースメインなのかと思われたものです」

----へーえ、それは知りませんでした。富士では大馬力・超高速のレースばかりと思っていましたから。

「まそうでしょうね、ボクは24時間も1000キロも参加しまして3年目も同じレースがクラスがあるものと思っていましたが24時間は2回でおしまい、1000キロはその後も続きましたが、やはり短時間の種目が増えていきましたね」

----えっ、リキさんは24時間レース、それも2年続けて参加されたのですね! ビックリだなーって感じで。24時間はフランスのル・マン24時間が有名ですから知っていますが、富士での、、となりますと、どんな内容のレースだったのか想像もできませんが。

「それで説明しろってか?(笑)。とにかく午後4時にスタートして翌日の同時刻にゴールのレースは、二人のドライバーが交互にドライブしますが、充分ではない明るさがグランドスタンド前のストレートのほんの一部を照らす以外はぜーんぶ真っ暗(爆笑)。真の闇とはあのことを言うのだなって今になって解るけれど、暗黒のコースを走行に耐えうる照明は市販車に付けられているヘッドライトの20倍の光量が必要で、なにしろ6キロコースの98%は真っ暗け(爆笑)」

----でも、例のバンクくらいは照明が。

「ないっない!、あのねーこの話になると二晩はかかるから何かの機会にしてもらって」

----そうですね、失礼しました、でも真っ暗なバンクに突入する心境くらいは。

「気持ちって言ったって、暗黒の谷底に落下するだけ、おしまい(爆笑)」

----わっかりました(笑)超高速が売り物の富士が耐久長距離レースから始まっていったことが良く解りました。そうすると、この時代、日本のレース先駆者・鈴鹿サーキットはどのような情況でしたか。

「まあ、鈴鹿は四輪だけでなく二輪も関係していたし、ホンダの市販車テストにも使われていましたから、レースコース一本の富士とは根本的な違いがあります。とくに日本GPが持って行かれちゃった、あれー言い方に語弊があるかな(笑)まっ、いいか(笑)。

 とにかくGPの旗印がなくなりましたから、ぼくもガッカリでしたが、僕の学校で同級生が鈴鹿に勤めたので良く会いましたが、このサーキットの運用をどのようにしていくのか、大変だったようです。結局、当面は主に関西の有力な自動車クラブや団体がレースを主催し、コースを貸し出す方向に専念したようです」

----そうなると地主さん家業で(笑)。それにしても関西方面には大きな自動車愛好クラブが多かったみたいで、やはり鈴鹿ができた影響ですか。

「ええ、仰る通りで世界的スポーツカー始め名だたる高級車をお持ちの方が多かったですよ、ただ、鈴鹿が出来たからではなく、もっと以前から四輪だけでなくオートバイでも高価な輸入物の所有者も多く、カッコばかりつける東京なんて適わない裕福な方が多かったですよ、これは現代でも同じではないですか」

----その方達が同好会を作ってレースを主催する、なんか欧米社会のようで(笑)、どのような種目が開催されたのでしょうか。

「開催は土・日が殆どですが、驚いたことに鈴鹿での日本GPがなくなった1965年には2日間のイベントがあれば日曜日だけの正にサンデーレースもあって車種は殆どがツーリングカー、市販スポーツカーですね。それに富士SWがオープンした1966年には500キロレースに1000キロ、12時間レースなどの長距離・耐久レースが毎年必ず何回かは行われていました」

----それは富士が新設サーキットオープンの初っぱなから24時間レースを行ったことへの意地とか?

「どーも陳腐な想像だなー(笑)。全く違います(笑)。耐久性のレースは自動車クラブからの要望もあったようです。即ち、短距離スプリントでは自動車へのチューニングが大変でカネははかかるし、段々とレースを楽しめなくなって、勝敗よりも沢山走りたいの希望が基になったらしく、オイルショックになった年の始めから例年の通り300キロ、500キロ、1000キロの耐久レースが開催されていたのです」

----大変失礼致しました、ハイ、(笑)。要するに鈴鹿は自分のとこのコースをどう使っていくか鈴鹿なりの考えがブレていない?

「それはあるでしょうからオイルショックが落ち着いた時からカレンダー通りに動いていましたよ。それと、富士での日本GPがやっとこさフォーミュラカーに大変身遂げたものの欧州F2エンジンの規定が迷走する中で、鈴鹿は長年抱いてきたフォーミュラカーレースが本格的な動きになることを先取ったのか、オイルショックが落ち着き、富士での大惨事が起こった1974年にはフォーミュラカーレースの開催を始め、さらにフォーミュラカーがメインのJAFグランプリレースの開催もするくらい新しいレース界の方向に同調するのです」

----そのようですね。私も富士での日本GPがゆらぐ中でフォーミュラカーのことを色々と知るようになりましたが、1976年11月には遂にF2000による日本グランプリ開催を取り戻しました。

「正に苦節十年 石の上にも三年ですねぇ(笑)。残念ながらF1を開催するようになって日本GPの名称が使えずJAFグランプリの名称に戻りますが、何れにしましても鈴鹿はフォーミュラカーレースに力を集めるようになっていきます。とくに1974年5月に初開催の“全日本選手権鈴鹿フォーミュラレース”は今日の“スーパーフォーミュラカーレース”の糸口でもあって、あれから50年を迎え、これからが楽しみなレースになるようですから、次回は鈴鹿とフォーミュラカーの話題にしたいですね」

----それは良い考えと思います。11月9日と10日のスーパーフォーミュラのシリーズ最終戦にはリキさんも観戦に行かれたようですから来年へのお話を交えて下さい。

「編集長のご快諾有り難うございます(笑)。なにせ、レース合間には、本物のF2マシンにドライバーの姿が全く無く、コクピットに詰め込んだAI機器の無人ドライブと生身のF1ドライバーがレースするアトラクションまで披露したのですから」

----ロボットも乗っていないフォーミュラカーには違和感しかありませんでした。

「ホントに」。

11月9日-11日に鈴鹿サーキットの全日本スーパーフォーミュラ最終戦JAF鈴鹿グランプリでデモランを行なった“無人フォーミュラ”。コクピットにドライバーは乗っていない!

11月9日-11日に鈴鹿サーキットの全日本スーパーフォーミュラ最終戦JAF鈴鹿グランプリでデモランを行なった“無人フォーミュラ”。コクピットにドライバーは乗っていない!


第百六回・了(取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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