リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第15回
250ccホンダ『CR』系市販レーサー、その原点と“ヤマハ・スポーツ

「ヤマハの動きを知ったホンダは、急遽、2気筒OHC、カムシャフトはギヤで駆動するスペシャルエンジンを、クロームモリブデン鋼パイプのスペシャルフレームに積んだドリームSS『CR71』を少数販売し、250ccのクラブマンクラスで、その王座を死守するのです。ライダーは、天賦の才能を謳われた北野元君でした」

――あ、その『71』があったが故の『CR72』なんですね?

「その通り! 59年浅間での『CR71』というのは、前年の浅間レースに登場した『C71』マシンの進化型でした。ですから、62年の鈴鹿オープニングに登場した『CR72』は、それなりの歴史を重ねてきた“ホンダ市販レーサー”の延長線上にあるわけで、鈴鹿開幕戦を目当てにポッと出てきたモデルということではないのです」

――はい、だから、クニさん(高橋国光選手)が、翌年の世界GPの他、ヨーロッパのサンデーレースに『CR72』で走ったりしたんですね。

「ただ、“『CR72』と鈴鹿”という関係でいえば、時間はあまりにも少なかったでしょうね。時間でいうなら、わずか3ヵ月ほどで――。ですから、レーシングマシンとしては、プロトタイプ(試作車)の状態で実戦に臨むことになったと言っていいのかもしれません」

「対するヤマハの『TD1』は、海外レースでの経験も含めて、レーサーとしての基本的な部分を数年かけて熟成してきていましたからね。……まあ、ホンダ陣営に、ある種の油断があったというのも確かなんですが」

――それは、ホンダにはスグレものの『CB』があったから、でもありますよね?

「そうです。今回は『CB』と『CR』ってあまり変わらないじゃないか!?ということから話が始まりましたけど、これは、なかなかいいトコロをついている。『CR72』もそうですが、実は『CB72』自体が画期的な存在であったことを忘れてはならないでしょう」

「当時の250ccクラスですと、2サイクルが全盛で、4サイクルならOHV単気筒が当たり前の時代に、ホンダは2気筒OHCの『C70』を出すのです。これが1958年のことでした」

「当時のホンダは、大量生産に効果がある鋼板プレスのフレームが主流で、悪路の泥はねを防ぐ深いフェンダーや、その重厚なデザインが、お寺や神社の建物をイメージしたかのようでしたので、“神社仏閣型”なんていわれましてね(笑)。そのフレームのまま、マフラーをアップにしたスポーツ型の『CS71』というのが出て、これは当時のライダーの憧れでした。ぼくも乗っていましたが、ちょっと周りの視線が眩しくてね!(笑)」

――テレビ番組のヒーロー「月光仮面」が乗ってたのは、たしか、そのアップマフラー・モデルですよ!

「あ、それで子どもにウケたのかなあ?(笑)まあ、それはおいといて、このプレスフレームは、後にホンダの四輪製造技術に活かされるのですが、この『Cシリーズ』の人気に気をよくしている間に、ヤマハは本格的なパイプフレームのスポーツ型モデル『YDS』を発売するのです。これが1959年でした、ちょうど、最後となった浅間火山レースに合わせるようにね」

日本のバイク、なかでもスポーツ車の歴史を変えることになる2台。ホンダCB72(上)とヤマハYDS1。

――“ヤマハ・スポーツ”ですね! あれは、プレスフレームのバイクを見慣れていた少年にとっては、いかにも軽そうな、そして、向こう側が透けて見えるような(笑)パイプフレーム車で、外観だけでも、ものすごく新鮮でした。

「ホンダはパイプが苦手だったかというとそうではなく、プレスの『Cシリーズ』絶頂の時期に、同じエンジンを使ったパイプフレームのドリーム『RC‐70F』というオフロード車(スクランブラー)を発表して期待されたのですが、これは市販されませんでした」

「そして、ヤマハ『YDS1』に先を越されたホンダは、1年半後の1960年11月に、神社仏閣型から完全に脱皮したパイプフレームの『CB72』を登場させます。エンジンはプレスフレーム『Cシリーズ』の2気筒OHCがベースですが、エンジンは同系でも、『CS71』の20HP/8400rpmに対して、これは24HP/8000rpmとなり、さらに、クランクシャフトが180度のタイプⅠと360度のタイプⅡの2種類ありました」

「これで、ヤマハと双璧の本格的なスポーツ車がホンダからも登場したということになりました。この『CB72』と『YDS1』の登場で、日本のバイク、とくにスポーツ車の方向性がガラッと変わったのではないでしょうか」

全国からライダーを公募したホンダ戦略とその裏事情

――そういえば、この鈴鹿・開幕戦のために、ホンダは大々的に、また全国的に、ライダーを公募したようですね?

「『CR72』という“新兵器”の開発、そうした市販レーサーをつくるのも大変だったでしょうが、ライダー集めも大ごとだったはずです。というのは、ホンダには、鈴鹿の開幕レースを走るためのライダーがいなかったからです」

――え、ライダーが!?

「ええ、いないのです。このオープニングレースは、全国各地から抜擢されたノービス・ライダーが主体ですから」

――あ、地方代表というか、そういう名目でした、このレースは?

「そうです、……なので、たとえば世界GP出場経験者は参加できない。実際にも、何人かのライダーはGPに出張中で、このときの《鈴鹿》を走れるホンダの有資格ライダーは、社員で“ホンダ・スピードクラブ”の神谷忠君しかいなかった」

――そうか、ホンダには世界GPを転戦しているような猛者はいっぱいいても?

「そういうことです。この時期には、田中健二郎さんがコーチ、マネージャーが藤井璋美さんの“テクニカルスポーツ”という若手ライダーの育成機関がありましたが、それも、まだ動き始めたばかり。第5回クラブマン雁ノ巣レースで優勝の大月信和君(CR110/50cc)や渥美勝利君(CR93/125cc)は、実はこの雁ノ巣が初の他流試合だった」

「そのくらいに、国内のレースを――とくにノービス・クラスを走れるライダーはいなかったので、以前にも述べていますが、全国の販売店に声をかけ、我こそは!の走り自慢を集め、藤井さんが取り仕切って、神谷“チュウさん”がライダー兼コーチ役で、60人余のホンダ・ライダーを選抜したのです。60人のライダーとなると大所帯ですが、全国からの応募者は500とも600人とも聞いていますし、50ccから350ccまで、4クラス全部に出場ですから、そのくらいの数にはなりますね」

「そのメンバーに選ばれた面々を見れば、ああやはり!と納得できるライダーが多かったですよ。一部に《浅間》の経験者もいますが、ほとんどはクラブマン・ロードレースやモトクロスで活躍していて、ぼくの知っているライダーも結構いました。ということは、世間には、俺が一番速い!って、オートバイをぶっ飛ばす連中がたくさんいるけれど、日本中で“レースができる”ライダーということになれば、それは限られた人数しかいなかったということですね」

――うーん、ある見方をすれば、マシンはプロトタイプ、そしてライダーは訓練中ということですね。それが、鈴鹿開幕戦でのホンダだった……。

「そういう大所帯で、一匹狼の集まりで、だから、統率するのは大変だったでしょうね。ただ、レースの前のトレーニングは、やはり鈴鹿サーキットの“地主チーム”ですから、そこは恵まれていて、かなりの時間、コースを使えたのではないかと思います」

「でも、『CR72』マシンが最初から、全ライダーの数だけ揃っていたわけではありませんから、『CB72』で練習したりという状態だったようです。それと、『CR72』ができてきても、まだプロトタイプの段階ですから、トレーニングはマシンのテストも兼ねていた。クルマの改良をつづけながらの訓練で、ライダーの側も大変だったでしょう」

「マシンが安定していれば、そういう“モノサシ”がひとつしっかり決まっていれば、それをベースにしてのコースの走り方など、ライダーの技量のための本来のトレーニングが可能です。でも、マシンのテストが中心みたいなトレーニングでは、たとえコースを走る時間が多くても、本来のトレーニングになっていたかどうかは疑問ですね。そこから、悲劇的な事故も起きてしまうのです……」

第十五回・了 (取材・文:家村浩明)