(1)晴れたら、ヤマハとホンダの差はさらに広がった!
――前回につづいて、《鈴鹿》の開幕戦、そのノービス350ccクラスについてのお話を伺っていきます。このクラスでは、予選タイムはけっこう拮抗していましたね。ポールのヤマハ/松島弘規選手と、二番手のホンダ/榎本正夫選手との差は0.1秒です。
「しかし、決勝では違います。優勝した片山義美選手と2位になった榎本正夫選手の差は、フィニッシュ時にはほとんど1分になりました。15周、約90kmのレースですけどね。ポールの松島選手は8周でリタイヤしましたが」
――1分! 雨のときの250ccクラスよりも、ヤマハとホンダの差は広がった?
「うーん……、このときの『TD1』と『CR72』では、この晴れのときのものが、その本来の性能差を示していたかもしれません。雨のときは、あまりスロットルを開けませんから、そのため、両モデルの“差異”があまり露わにならなかったとも考えられます」
15周で行なわれた350ccクラスもヤマハ圧勝! 片山義美選手は2位に約1分もの大差をつけてフィニッシュした。
――晴れと雨との速度差ということですか? レース中のベストラップで見ると、雨の250ccレースが2分52秒02、晴れの350ccクラスが2分43秒02で、ほぼ10秒差ですね。ともにヤマハの片山義美選手が記録しています。
「このときの『CR72』は、コーナリング性能においては、きわめてデリケートな部分があったと、当時の多くの関係者が証言しています。低速コーナーはまあいいんですが、速いコーナーで、ある速度域を超えると、そこから急にマシンの操縦がむずかしくなる、と──」
――それは、バイクが“暴れ馬”みたいになっちゃうのかな?
「そういう場合もあったようです。加藤爽平君とは、ぼくは同じオートバイクラブの仲間で、トライアンフやBSAなどの重量車を縦横に乗りこなす彼のテクニックは定評がありました。でも、そんな加藤君でさえ、『CR72』の高速域でのハンドリング特性には手を焼いていました。大馬力エンジンにボディ剛性がついていけなかったというのは事実でしょうね」
(2)1962年10月23日・早朝、ホンダ・チームにもたらされた悲報
――仮にそういうクルマだとすると、高速コーナーではガマンせざるを得ないというか、やむなく、ある速度以下で走るということになるかもしれないですね。……で、そうか! 雨の場合は、みんなが、『TD1』にしても『CR72』にしても、普段のようにはスロットルを開けられない。誰でもガマンという状態でのレースで、その結果として?
「ええ、晴れのときよりも、この2車のタイム差が縮まった。そういうことも考えられます。それと、本番レースでは、完走ということもアタマにありますから、仮にマシンが“悍馬”であっても、その暴れ馬としての特性をなるべく出さないような走りをするでしょう。ただ、本番ではそうでも──」
「たとえば練習走行というのは、テストでもあるわけですから、さまざまな意味で、もっと未知の領域を試したくなる。あるいは、マシンの特性がまだよくわかっていなければ、それの把握のためにも、こうしたらどうなるんだろう?といった走りを、レーシング・ライダーなら、やってみたくなる。ライダーとしての能力があればあるほど、そういうトライをしたくなるでしょう。……そうしたいろんな状況が重なって、あのアクシデントは起こってしまったのかもしれません」
――それは、渥美選手の……?
「そうです。鈴鹿サーキットのコースを使っての、ホンダ・チームだけの早朝トレーニングで、事故は起こってしまいました」
「当時の鈴鹿の最終コーナーは、いまのようなシケインはありませんでしたので、250Rの超高速コーナーです。左の130Rを抜けて、そのあとの右コーナー。メインストレートに入る最終コーナーですから、可能な限りのスピードを維持したまま駆け抜けたいという衝動と恐怖が交錯するコーナーでした」
――そこへ、速度的に曲がりきれない速度でコーナーに入ってしまった? あるいは、クリップを過ぎてスロットル・オンにしたら、例の特性が出て、クルマが暴れ出した?
「それはわかりません……。渥美君は、そのコーナーを抜けきる直前の個所で飛び出し、コース璧に激突、ほとんど即死の状態であったと聞いています」
――渥美勝利選手は、夏の“雁ノ巣クラブマン”での、125ccクラスでのウイニング・ライダーですよね?
「渥美君は、彼のお兄さんである渥美実さんがホンダ・スピードクラブのライダーだったので、その影響もあってレースの世界に入ったようです。ぼくは雁ノ巣レースで、初めて彼に会ったのですが、はじめから何となく気が合いましてね。鈴鹿でのトレーニングが始まってからも、チームは違いましたが、彼とはよく話をしました」
「あれは、レース本番の十日くらい前だったかなあ。何だか憂鬱そうな、元気なさそうな渥美君と、パドックでパッタリ会って、『どうだい、そっちの調子は?』なんていう話が始まりましてね。すると、渥美君が言うんですよ、『もう、どう走ったらいいのか、わからなくなっちゃいました。自分では一生懸命走っているつもりなんだけど、タイムは上がらないし』」
――“雁ノ巣”以後の彼への期待が高かったので、その分も?
「彼『渥美勝利』は、世界GPをめざした“テクニカル・スポーツクラブ”のエリートライダーであり、盟友の大月信和君ともども、田中健二郎さんの秘蔵っ子でもありました。そんな期待に応えなければならない重圧と、開発されたばかりという状態のマシン(CR72)との絡みもあったのでしょうか」
「ぼくは、いままで原稿にも書かなかった、いや書けなかったし、これまで誰にも話したことはなかったのだけど、パドックでの雑談の終わりに、渥美君はこんなことを言いだしたのです。『リキさん、どうも、ここがぼくの死に場所になったのかもしれないですよ』って……。だからぼくは、『何をくだらねーこと言ってんだ、そんなこと言うもんじゃねーよ!』って、叱ったんですよ、こっちは大先輩ですから」
「(このときに)白い歯を見せて、人なつっこく、寂しげに笑った彼の顔は、いまでも忘れることができなくてね。空がやけに青い、秋晴れの日でした」
――そうでしたか……。
「当時、このことについて、“渥美を殺したマシン”などと書いた雑誌もありましたが、いったい何が原因なのか、ぼくにはわかりません。ただ、いま思うと、自分が思うように走れないマシンとの格闘、それが積もっていく焦燥。そして、仮に扱いにくいマシンであっても、それに打ち克ち、彼の名前の通りに“勝利”を挙げれば、世界GP出場も夢ではない──。このときの渥美君は、レースやライディングと闘っていただけではなく、それ以上に、若くして人生初めての“賭け”に直面して、そして“自己との闘争”に苦しんでいたのでしょうね」
「彼は《鈴鹿》初の犠牲者になってしまったのですが、考えてみれば、この事故はトレーニング中ではあるものの、レースは危険なもの、命をかけるものなどといわれながらも、実は日本では初めてのケースなのです。戦前のレースはよくわかりませんが、また、浅間クラブマンレースでも事故はありましたが、これは高齢のクラブマン・ライダーが練習走行中に脳溢血を起こしたものなので、渥美君とはケースが異なります。これは歴史上も、日本のロードレース史上初の出来事といえるのでしょう。それにしても、本当に、惜しい若人を失いました……」
○ノービス350cc予選 1962年11月1日 天候:晴れ 順位 ライダー タイム マシン 1 松島弘規 2分41秒9 ヤマハTD1(260cc) 2 榎本正夫 2分42秒0 ホンダCR77 3 片山義美 2分42秒1 ヤマハTD1(260cc) 4 加藤爽平 2分42秒9 ホンダCR77 5 池田德寛 2分47秒3 ホンダCR77 6 大沢 瞭 2分50秒2 ホンダCR77 ○ノービス350cc決勝 15周 90.06km 1962年11月4日 天候:晴れ 気温21度 順位 ライダー タイム km/h マシン 1 片山義美 41分26秒3 130.40 ヤマハTD1 2 榎本正夫 42分29秒2 127.18 ホンダCR77 3 池田德寛 43分29秒6 124.24 ホンダCR77 4 田中八郎 43分33秒0 124.08 ホンダCB77改 5 松本 明 43分58秒5 122.88 ホンダCB77改 6 青木 格 41分40秒7 14周 ホンダCB77改 20 松島弘規 8周 ヤマハTD1 最高ラップ 片山義美 2分43秒2 (132.44km/h) ヤマハTD1 注: ヤマハ車はTD1/250ccを255ccにボアアップしたもの。 ホンダCR77は、市販レーサーCR72を305ccにボアアップしたマシン。 CB77改は市販スポーツ車CB77(305cc)をベースにキットパーツでチューンしたもの。
第十七回・了 (取材・文:家村浩明)