(1)“世界基準”のライダーたちが鈴鹿サーキットにやってきた!
――1962年の鈴鹿サーキット、そのコケラ落としとして行なわれたレースに関する興味深いさまざまなお話、ありがとうございます。……で、持ってきていただいた資料を見てますと、これまでずっと話題にしてきたノービス・クラスのレースのほかに『セニア』のレースも行なわれていて、これがちょっと気になるんですが?
「そうでしょうね、このオープニングレース、基本的にはノービス主体なのですが、鈴鹿サーキット側のもうひとつの計画は、このイベントを成功させて、一刻も早く《鈴鹿》で世界GPを開催するということでした。したがって、その見本として、GPレースとはこういうものなのだというのを観客に見てもらう。そういう意味もあって、ノービスではないレベルのレースが行なわれたわけです」
――この『セニア』、まずメンバーがすごいですよね! ホンダでいえば、あの“マン島組”が勢揃いで?
「《鈴鹿》開幕! その主役はホンダですからね。まずホンダ勢が顔を揃えなければ話にならないでしょう(笑)。そのお披露目にふさわしく、この年、ホンダは125cc、250cc、さらに350ccの各クラスで、世界GPのチャンピオン・メーカーになるという偉業を達成しつつありました。マン島TTレースで世界にデビューした社内のエキスパート・ライダー、谷口尚己、田中楨助、北野元、島崎貞夫らは全員集合ですね」
――それに加えて、外国人ライダー、ジム・レッドマン、ルイジ・タベリ、トミー・ロブもいます。
「日本人GPライダーも凄いですが、まあ、これだけの世界一流ライダーとそのライディングシーンの公開は本邦初といったところでしょう」
――そしてスズキも、当時の世界GPへの参戦ライダーがそのまま《鈴鹿》に集結したということではありませんか?
「その通りです。とくにスズキは、この年から始まった新しい50ccクラスでチャンピオンメーカーになっていました。その立役者がエルンスト・デグナー選手。彼に加えて、フランク・ペリス、ヒュー・アンダーソン。そして日本人では、市野三千雄、伊藤光夫がこのレースに出場しました」
いまはすっかり通称になっている“デグナー・カーブ”は、エルンスト・デグナーがトップ走行中に転倒して命名された。写真は、マン島を疾走中のデグナー。
――デグナー選手は、当時の東ドイツから亡命という大事件を引き起こした後に、スズキのワークスライダーになったんですよね?
「それは1961年の9月、西ドイツで行なわれたGPのときのことでした。東独のMZに乗っていたデグナーが行方不明だ!というニュースが世界を駆け巡りましてね。日本では“デグナー”といわれても一般的な知名度はほとんどありませんでしたが、当時の欧米ではセンセーショナルな話題でした」
――“MZ乗り”の名手、あの天才ライダーが“消えた”?
「そして、その2カ月後ぐらいでしたか。事件の主人公であるエルンスト・デグナーが、何と、東京銀座のホテルに泊っているというのですからね。あれは、たまげました!」
――いわゆる東西冷戦の真っ只中、“ベルリンの壁”が作られたのもこの1961年で、この年の10月には“キューバ危機”も起こっている。そんな時期の亡命というのは、よほどの決意ですよね。
「いまでもこれは、映画やTVドラマの題材になるでしょう。そのデグナーとスズキの間に、どのようなストーリーがあったのか興味深いですが、ライダーの心境からすれば、当時のソ連に支配された東ドイツから自由を求めるゆえの行動は、少しも不思議ではありません。まして、世界GPで世界を巡って、自由主義国圏の空気を知ればなおさらですし、スズキの高度なマシンに自分の人生を賭けたくなった気持ちはよくわかります。でも、ほんとに、命がけだったでしょうね……」
――あ、そういえば《鈴鹿》の「デグナー・カーブ」って!?
「そうです、このセニア、50ccクラス10周でのレースでのことでした。前日の豪雨がウソのような快晴。スタートして、1~2周をトップで独走していたデグナー選手でしたが、S字コーナーから180Rの左コーナーを抜けた先、80Rの右コーナーで転倒しましてね、観客は総立ちになりました。といいましても、現在のような大型ビジョンに映るような装置なんかありませんから、場内アナウンスで知ったのですが。名手が転んだ!として、そのコーナーが“デグナーカーブ”と呼ばれるようになり、今日に至っているわけです」
(2)1962年《鈴鹿》開幕戦がその後の日本に残したもの
――リキさんは、そんな“彼らの走り”をナマでご覧になったと思いますが?
「まあ正直申せば、ぼくらノービスからすれば雲の上の存在ですから、やはりスッゲーな!ぐらいの印象しかありません。ただ、できあがった《鈴鹿》というコースにふさわしいのは、やっぱりこういうレースなのだろうなという実感は強烈でした」
――その“スッゲー”部分、これは違うな!と実感されたようなところを、もし挙げるとすれば?
「第一にクルマです。ワークスマシンは、市販車ベースのレース車とはまったくの別物ですから、走り方からして、丸っきり違う。具体的に表わせば、まずは、よく、あんなにもマシンを倒せるものだ!」
――コーナーで、あれほどまでにマシンを寝かせていいのか!?
「そうです、ぼくらのレース車で、あのような速度でコーナーに進入したら、絶対に曲がりきれないという、ブレーキングとコーナリングの姿ですね。それと、意外に豪快さを感じないライディングシーンというのもありました」
――キレイというか、ムリヤリに走ってないというか?
「ええ、乱暴さを微塵も感じさせないようなコーナリングですね。ていねいというか、芸術的というか──。そして、そうではあるんですけど、一転して、直線では強烈な加速と速さを見せてくれる。これにも驚きました」
「それに、世界一流のマシンを走らせるということでの、チームが一丸となっての緊張感、これに目を見張りました。当時のファクトリーマシンは、それこそ秘密と特殊技術のカタマリで、その取り扱いは神経質そのものでした。ピットにも近寄りがたいものがあって、この点でも、あー、やはり世界が違う!と思いましたね」
――セニア・レースは50cc、125cc、250ccと行なわれましたが(350ccは豪雨のため模範走行のみ)、リザルトによれば、そのどれもで、首位となったのはすべて外国人ライダーですね?
「まあ、それが世界レベルとの差ということなのでしょうが、彼らの走りがひときわ目立ったのは、もう一つの背景もありました」
――それは?
「実はセニア・クラスといいましても、実際に世界GPに参戦しているマシンとライダーだけでしたら、ほんのわずかな台数のみになってしまうので、それらだけが走っても、なかなか迫力あるレースにならない。そこで、クラスによっては、ノービス・クラスの速いライダーとそのノービスのマシンに、急遽、即製のカウリングをつけて台数を増やしましてね。レースとしての体裁を整えたというか、見栄えをよくした(笑)。だから、さらに、世界トップクラスのライダーとマシンの圧倒的な速さが目立って、うーん、こりゃスゲー!って、なかなか巧みな演出でしょ(笑)」
――最後に、この“セニアたち”のレースや走りが、その後の日本レース界に残したものということでお話をいただけますか?
「オープニングレースは、第1回全日本ロードレース選手権大会の名称通り、ノービス最高位のイベントという位置づけでした。したがって、『セニア』はレースというより、世界レベルの見本を見せるというものであったかもしれません。しかし、ライダー、メカニックなど直接の関係者のみならず、多くのレースファンは、この走りを見て、それまでとはまったく違うレースの時代になったことを痛感したのではないでしょうか」
「とくに、この翌年の1963年から、鈴鹿サーキット(日本グランプリ)が世界GPシリーズに加わり、一気に世界的なロードレースが日本でも身近になりました。同時に、世界に挑んでいる日本のオートバイ産業の姿が《鈴鹿》で示されることで、それがその後の日本の工業界全体にも、大きな刺激を与えていくことになるのです」
第十八回・了 (取材・文:家村浩明)