(1)1963年1月のモータースポーツ専門紙を読む
――あ、これが当時の新聞ですね。発行が1963年の1月5日、これはこの年最初の号ということでしょうか。紙名が『モータースポーツ』で、発行元が(株)モーターサイクル出版社、発行人には酒井文人さんのお名前があります?
1963年1月5日発行の『モータースポーツ』紙一面より。「カーレースに関心高まる」などの見出しが見える。同じ一面に掲載されている社説では「六三年はカーレース決行の年」(原文のまま)のタイトルで、早急に四輪車のレースを行なうべし!という論調が展開されている。
「二輪雑誌の『モーターサイクリスト』や四輪誌の『ドライバー』を出している八重洲出版の創業者ですね。その酒井文人さんが1962年に創刊した『モータースポーツ』という新聞で、月3回発行されていました。この新聞が言う“スポーツ”は、もっぱらバイク・レースとその話題が中心でした」
――なるほど。でも、あらためて思うのは二輪のレースはこの時点で、こういう専門の新聞を必要とするほどに日本で“流行って”いたということです。
「マン島TTレースへの参戦から3年経っていますし、日本の三メーカーが世界GPで躍進中でしたから、二輪車とそのレースへの注目度は高かったですね。そして、鈴鹿サーキットはできる、モトクロスは全国規模で開催されているということで、ニュースには事欠かなかったでしょう。ただ、月刊誌ならいざ知らず、新聞発行までの需要があったかどうか……。そのへんは、けっこうむずかしかったんじゃないかと思います。でも、出版社としての“先取り”精神はすごいものがありますよね」
――そういう新聞が「カーレースに関心高まる」という大見出しのもと、四輪レースについての特集記事を組んだ?
「この新聞は、二輪しか採り上げないということではなく、折に触れて、当時のF1など欧米の四輪レースのニュースも掲載していました。でも国内ネタで、この『カーレースに関心高まる』というタイトルには深~い意味というか、特別な感慨というか、そういった内容があるように解釈しているんです。なぜなら、ブンヤ(新聞記者)さん自身、“えっ、本当にやるの? できるのかねー”と。記事にしても、どこまで書いたらいいいのだろう? という困惑のような感じが出ていて(笑)」
――なるほど! だから、『……関心高まる』と振った割りには、もうひとつの大きな見出しが『初のレースに、とまどうメーカー』なんですね? (笑)
「ハハハ(笑)。四輪メーカーは何も準備などしていないし、また、社会や業界にそんな気運もなかったのに、カーレース開催の告知だけが世の中を駆け抜けた。1962年の暮れというのはそんな状況で、そのことがよくわかる見出しではないでしょうか」
――リキさんご自身が、鈴鹿サーキットでの四輪レース開催というニュースを最初に耳にされたのは1962年の12月?
「それがね、よく覚えていなくて(笑)。そもそも、ぼくは今回採り上げている新聞の発行元にいたのですが、新聞に書いてあることがホントかどうか“身内”にもわからないんですから(笑)」
――『いた』『身内』とおっしゃるのは、八重洲出版で仕事をされていた? あ!『モーターサイクリスト』誌では、この頃から原稿を?
「そうです、新車のテストレポートを書いたり、二輪レースに関連した記事の制作などに関わっていました」
――そんな身内から、四輪レース開催の情報が出て来たのに?
「ええ、アンビリーバブル!というのが先だったような(笑)。でも一方では、実際にレースが行なわれるなら、それにぼくは参加できるのだろうかと、そんなことも思ってました。それが1963年の1月末頃でしたか」
――そうか、リキさんはひとりのレーシング・ライダーでもあったから、その立場からの受け止め方があったわけですね。
「開催されるという四輪レースがどんなものか、ぼくでも参加できるようなレースなのだろうかという思いや好奇心から、『日本自動車スポーツ協会』という主催者に電話したこともありました。このへんのことについては、あとからまたお話ししますけど、当時のぼくは、この主催者が鈴鹿サーキットと同じ関係者であるなんてことは、まったく知りませんでした」
――この「日本グランプリ」と、ライダーからドライバーへというリキさんの個人史とは、実はディープに関わってくるわけですが、それは後のお楽しみとして、この頃の四輪とスポーツの状況をちょっと見ていきます。1962年後半という時点で、四輪メーカーにとっては“寝耳に水”だったレース開催ですが、ただ、モータースポーツとの関わりということでは、日本メーカーの活動がそれまで皆無であったわけではない?
「1957年という時点で、トヨタは19日間で1万7000キロを走破するオーストラリア一周ラリーに参加しています。クルマは1955年型のトヨペットクラウン、ドライバーは神之村邦夫さんと近藤幸次郎さんで、同社のディーラーの方だったようです」
――あ、“ダットサンとサファリ”とか、ニッサンの海外スポーツ活動がこの頃あったなとは思っていたんですが、しかし、先駆けはトヨタだったんですね、これはちょっと意外です。
「ニッサンは、このラリーに、その翌年の1958年に『ダットサン210』で出場しました。のちにニッサンチームの監督となる難波靖治さんがドライバーでクラス優勝をしています」
「二輪はロードレースが主体であったのに対し、四輪のスポーツ活動はラリーが多かったですね。それはクルマの耐久性が勝負になるとの考えからで、日本国内でも、1958年には約4000キロを走る『日本一周読売ラリー』を読売新聞社が主催しています。それらの影響もあって、翌1959年からは、日本アルプス近辺の山岳路を中心とする約1000キロを3泊4日で走る日刊自動車新聞社主催の『日本アルペンラリー』が行なわれるようになります」
「こういった競技のほかに、急坂路を登り切るタイムを競うヒルクライムや、米国駐留軍基地内の広場を使ってのジムカーナなども行われていたのですが、二輪ほどの広がりはありませんでした。もっとも、こういった趣味や遊びができるのは、きわめて裕福な、ほんの一握りの人たちだけでしたから、ぼくら“オートバイ乗り”には無縁の存在でもあったのです。ただ四輪でも、性能競争への関心があったのは二輪と同じでしょう」
――はい、国内での富士登山~浅間~鈴鹿という二輪レースほどの華やかさはないにしても、四輪でも、スポーツへの志向は1950年代からあったわけですね。
「そして1961年の8月に、プリンスが『スカイライン』を駆って、ヨーロッパの『リエージェ・ソフィア・ラリー』に参加。それから1962年11月には、三菱がマカオGPに『三菱500』で出場しています。おそらく、これが日本メーカー初のロードレースへの参加ではなかったかと思います」
――そのプリンスのことは、この1963年1月の新聞『モータースポーツ』にも出ていますね。ちょっと記事を読んでみます。カーレース開催に対する「メーカー側の意見」として、まず“ポジティブ組”の見解があり、その見出しは「熱意を見せるプリンス」。この「プリンス」とはニッサンと合併する前のプリンス自動車工業であるという注釈をいまの読者のために挟んでおきますが、この記事では、同社企画部の養老慶一氏が取材に対応しています。「カーレースをやっていないのは、ひとり日本だけといってもいいすぎではないだろう」と海外事情にも触れていますね。
「それは、前述のように、ヨーロッパのラリーに出場していたから。養老さんは、そのときのチーム・マネージャーであったと聞いています」
――でも、この記事を読み進むと、「メーカーとメーカーの泥仕合になるのではないかと心配だ」「うちの会社としては、まだ(注・日本グランプリに)出るとも出ないとも決まっていない」……とあります。どこが『熱意を見せるプリンス』なのか、よくわからないなぁ?(笑)
「まあ海外であれ、モータースポーツに首を突っ込んだ日本メーカーがあるということでのプリンスへの評価なんでしょう。そうした姿勢では、この頃、『イースト・アフリカン・サファリ・ラリー』に本格的な参戦体制で臨むことを発表したニッサンも同様ですね」
――そのニッサンですが、この記事では、スポーツカーには不出場だがセドリック、ブルーバードでの出場はあり得るという記事になってます。これは多分に、新聞側の希望的観測が入っている感じもしますが?(笑)
「当時の総務部・広報課阿部氏の話として『国の内外を問わず、性能の向上、発展のため、レースは利用させていただいている』という記事がこの新聞には載っていますね。そして、『カーレースが開催されることは非常に好ましいこと』というコメントもあります。ただ、そう答えつつ、インタビューの最初には、会社としては『レースの主催者からまだ何も聞いていない』と前置きしてますけどね(笑)」
(2)「何も聞いていない/何も考えていない」……
――そして、この記事を書いた記者はトヨタにも赴いていますが、しかしそこで直面したのはけっこう冷たい反応(笑)。紙面の見出しは「“何も考えてない”とソッケないトヨタ」。
「この記者は、トヨタ自動車販売に取材に行ったようですね。当時はトヨタは『自販』と『自工』に会社が分かれていました。自販ということは、九段のあのビルに行ったんでしょう」
――このときの自販・宣伝部は、ノーコメントの極み(笑)みたいな対応をしてますね。「うちとしては、カーレースそのものを問題として採り上げるかどうかも、まだ考えていない」──
「まあ、社内の情報がすべて宣伝部の末端にまで行き渡るということもないので。そして、この時点としてはしょうがないというか、むしろ正直な対応だったでしょう。ニッサンのコメントにもあったけど、1962年の12月という時点では──63年1月発行のこの記事の取材は、当然その時期になりますが、レースの主催者は、対メーカーということでは、まだ“動いてない”わけですよ。ですからトヨタに限らずどこであれ、この段階でメディア側からの取材を受けても、“なにそれ!? 状態”だったのではないですか(笑)」
――“寝耳に水”は決して誇張ではなかった!(笑)
「でも、ちょっと時間を先に進めますが、この時点ではこんな対応をしていたトヨタですが、予定通りに開催された1963年5月の『日本グランプリ』では、トヨタは積極参加組のうちのひとつになりました。あと、プリンス、いすゞ、日野自動車、富士重工、鈴木自動車(現・スズキ)、こういったメーカーが“ポジティブ組”といえます」
――それ以外は“消極組”だった? あ、ニッサンは?
「ニッサンも、決して消極的ではなかったように思います。結局のところ、第一回の『日本グランプリ』には、東洋工業(現・マツダ)とダイハツ以外は、何らかのかたちで関与することになりました」
「ホンダは、今日の読者には想像しにくいことかもしれないけど、“消極組”というより、このグランプリにエントリーできるような自社製の四輪車がラインナップになかった。鈴鹿サーキットをつくったのはホンダだったのに、ね」
――この記事のなかにも、ホンダ関連のものがありますね。見出しは「“出たいが出られない”ホンダ」。そして、営業部の小松原礼三氏が『うちは出たくても出られない状態』とコメントしています。
「ホンダのスポーツカー『S360』『S500』は、1962年の第九回自動車ショーで“ショー・デビュー”はしていました。ただ、この記事でも小松原さんが『まだ製造の段階にまでこぎつけていない』と語ってますね」
――でも、さすがの“ホンダ人”というか、同氏はこの記事で、「カーレースが行なわれることには大賛成だ。今年はどうも間に合いそうになくて残念だが、将来はどしどしレースに出場する」と明言されてます。他社のコメントとは、かなりトーンが違ってますね。
「1963年5月の『グランプリ』にも、ホンダは“クルマ”は出てないけど“人”は参加してるんですよ。そのへん、詳しくは別の機会に述べますけど、積極/消極という今回の斬り口でいえば、ホンダは“無念きわまる超・積極派”でしたね、1963年時点では」
第二十回・了 (取材・文:家村浩明)