(1)第一回日本グランプリ、主催者は「JASA」
――前回は、1963年の“日本グランプリ”でメーカーは何の準備もしていなかったというお話を伺いましたが、この新聞記事を見ますと、どうもメーカーだけじゃないですよね?
「そもそも、主催者が“準備なし”だったかもしれないね(笑)。サーキット側としては、二輪のオープニングレースの次は四輪レースという企画を立てて、それなりの準備態勢を進めていた……らしい。でも実際問題としては、二輪レースが終わってから“さあ、次は四輪だ!”と、ようやく具体的な動きになったんじゃないでしょうか。だから、唐突と思われてしまうのは、まあ当然でしょうね」
――《鈴鹿》は、二輪関係者にとっては待望久しい常設のサーキットであったけれど、四輪業界にとっては?
「そうです、繰り返しになるけど、そういう風に、二輪と四輪では“状況”がまったく違っていた。この点は、歴史を見るに、やはり押さえておきたいところです。二輪は、施設(鈴鹿サーキット)ができたら、すぐに、世界水準のレースが開催できて、観客もそれを十分に楽しんだけどね」
――四輪は、昨今のハコモノとコンテンツの関係みたいに?
「何です、それは?(笑)」
――いや、ハコ(施設)だけができて、そこで催されるコンテンツというかソフトに関しては準備がないというか?
「まあ、1963年当時の“鈴鹿と四輪レース”という部分だけを取り出せば、そういうように見てもいいかもしれないな(笑)」
――あの、今日の視点でひとつ、ちょっとよくわからないのは、サーキットというものができたら、まずは、日本が世界に挑戦中の二輪レースを開催する。それはいいとして、それに続いては、こんなレース、あんな催しもやります、みなさんよろしく!とか、そういったPRとかアピールがなかったらしいこと?
「うーん、そうは言っても、《鈴鹿》ができて、すぐに国際レースを開催してという状況で、サーキット側も大忙しだったことは想像できますから。たしかに、その種の情報開示みたいなものがきちんとあれば、当時のジャーナリズムにしても喜んで記事にしたはずですね」
――その頃は広告代理店も隆盛じゃなかったからかなあ……?(笑)そのせいかもしれませんけど、この1963年1月の記事も、妙にシビアというか、冷めすぎているようなところがありますよね。たとえば、締めくくりの部分の見出しは「主催者の見解~規則と組織はこれからつくる」になっていて、これだけを読むと──
「あたかも、レースをやるための組織やルールは、何もできていないように見えるよね(笑)」
――はい(笑)、でも記事の本文を読んでみると、実はそうでもない。規則の細かい部分についてはたしかに検討中だったかもしれないけど、少なくとも組織というか主催者は決まっていた。だから新聞は、その組織に取材しているわけで。
「記事には、ちゃんと『JASA』という組織名も出ていますよね。これは『日本自動車スポーツ協会』のことで、会長はその記事でもコメントしている穴見一三氏。“日本グランプリ”は、この組織が主催ですが、ただ、日本初の四輪レースをどのようなカタチや内容にするかという、その根本的な部分から暗中模索の状態だったのではないでしょうか。当然、FIAとのコンタクトもあったでしょうし、いきなりフォーミュラカーのレースをやろうと思ったとしても不思議ではありません。しかし、外貨も自由に使えないような、きわめて制約の多い時代でしたから、計画は立てても、それをそのまま実現はできないということも多かったでしょうね」
――この記事では、その主催団体が「ホンダ系であるということも絡まって」という一節があります。《鈴鹿サーキット》という存在も含めて、そのへんの“特定のメーカー色”ともいえる部分を、社会的に、また業界的に、いったいどう判断したらいいものか。そのあたりがまだ不定だったというか?
「そうですね。言われるように当時は、その種の戸惑い──ある種の“ワケのわからなさ”が、できたばかりの《鈴鹿》にはありました。ただ、一メーカーが……と言うけれど、クルマ(バイク)が存分に走れるコースを国の機関につくらせようとしたって、それがいつになるかわからない。業を煮やした本田(宗一郎)さんが、待ってられねえ、俺がつくる!って言って《鈴鹿》を建設したわけでね」
――ええ、すでに世界基準を知っていて、そしてそこで闘っていた者だけが感じていた思いや切迫感が、鈴鹿サーキットの開設にはこめられていたと思います。
「ぼく個人にしても、1962年冬という段階では、JASAが“ホンダ系”であるというのは知らなかったから……。でも、その『JASA』ってところに、ぼくは電話したことがあるんですよ!(笑)」
(2)どうすれば、1963年5月の自動車レースに出られるのか?
――え、主催者のJASAに? それは雑誌の企画など何かの取材で?
「いいえ、違います。記者としてではない。何だろう、“いちライダーとして”かな? あ、ライダーじゃないか、四輪だからドライバーですね。5月に行なわれるという“日本グランプリ”とは、いったいどういうレースなのか、参加基準はどうなっているのか、そういうことを知りたかったので」
――参加の基準?
「ええ、それを含めた問い合わせでした。その電話がいつだったかは、いまちょっと正確には思い出せないんですが、いま話題にしているこの新聞記事よりはあとで、もちろん(レース開催の1963年)5月よりずっと前です。そのとき、電話に出た『JASA』の方は、結構ていねいに対応してくれましたよ」
「ぼくが一番知りたかったのは、そのレースには、どんな人が出られるのか、です。二輪のレースなら、たとえばクラブマンという資格があって、さらにどういう条件が満たされれば参加できるとか、大方の予測はできたけど、四輪はまったくわからなかったから」
――あっ! エントリーすると?
「まだ、そこまでは決めてない(笑)。ただ、ぼくみたいな立場でもエントリーできるのかどうかを知りたかった。それから、クルマの問題もあります。どういうクルマを用意すれば、そのグランプリ・レースに出られるのか」
――なるほど、日本グランプリ開催というニュースを、そういう立場からお聞きになったのか。それはすごいことだなあ!
「まあ、そういう時代で、ぼくもそういう年齢だったということ。この1963年冬という時点で、ぼくは23歳でした。そして、自分でも四輪レースができるのかなあ? ──これは、そういった技量が自分にあるのだろうかという意味ですが、そんな思いもありました」
「クルマということでは、当時、ぼくが所有していたのはメッサーシュミットKR200というドイツの三輪サイクルカーでしたので、ついでに、これでレースに出られるのかも聞いちゃいました。ハッハッハ(笑)、怖いもの知らずでしたねえ」
安価なクルマでも、“グランプリに参加できる!”。
――いやあ、とても興味深いです。今日は、このセンでのハナシにしましょう!(笑)
「その電話では、軽自動車でも何でも、ちゃんとした四輪乗用車ならば、国産輸入を問わず、走れる(レース参加ができる)規定になるでしょう、というのが主催者側の回答でした。そのときにひらめいたのが、一番安く買えるクルマとなれば、トヨタのパブリカがあるということ。そうか、パブリカなんかでもいいんだ!と思いました」
「ただ、そのときのぼくは、ただのパブリカではレースには出られないと思い込んでいてね(笑)。幸い『パブリカ・スポーツ』というオープンモデルが市販されていて、それを見て、あ、これならレースできる、と。ぼくも、わかっていなかったし、また、スポーツカーとはオープンカーなりという時代でもあったので(笑)」
――じゃあ、そのパブリカ・スポーツを?
「ええ、パブリカの価格は廉価版で38万円くらいでしたから、これなら分割払いで買えそうな気がしまして、本気で注文しようかと思っていました。その頃は“割賦”(かっぷ)と言ってましたけどね。月賦のことをローンなんて言い出すのはずっと後のことです」
――でもリキさん、これはすでに“史実”ですけど、ドライバー大久保力選手は第一回の日本グランプリで、パブリカで走ってはいませんよね?
「ええ。ぼくがそんな動きをしてるときに、ある方が声をかけてくださった。そして、“こういう話”があるんだけど、どうする? と聞かれたのです。まあ、これがいわば運命というものなのでしょうね……」
第二十一回・了 (取材・文:家村浩明)