リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第26回
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(1)レースの闘い方を知っていた四輪メーカーが、ただ一社だけあった!

――1963年日本グランプリに、やむなくであったかもしれませんが、自動車メーカー各社や輸入車ディーラーが関与し始めた。前回は、そのあたりまでお聞きしました。

「レースは5月の3~4日が決勝です。その前に、4月28日~5月1日という日程で公式予選のスケジュールがありました。そして、この時点でひとつ、明らかになったことがあります。それは、スバル・チームの“油断”と、そして、ほとんど“桶狭間”といえるようなライバルの巧みな戦略でした」

――“桶狭間”? 織田信長と今川義元の戦いですね?

「4月の10日頃から“オフィシャル・トレーニング”が始まりましたが、それにスズキは姿を見せませんでした。そして、公式予選までの間に、スズキ・チームがコースを借り切って練習したというような情報もなかった。だから、スバル・チームの中には、レース間近になってもコースに来ないのは“どうせウチに勝てっこないからさ”という雰囲気があったのです。このときのスバル・チームは、2万5千の大軍を擁しながら、3千弱の織田信長軍の奇襲を“桶狭間”で受けた今川義元軍そのものでした」

――“桶狭間”と評してしまうと、史実的には結果が見えてしまいますが?(笑)

「フフフ(笑)。要するに、スバルはスズキを侮っていた。でも、公式練習が始まった以上、もう、ドライバーやクルマの変更はできません。スバルは、主力となるドライバーを、この400cc以下クラスにはエントリーしていなかった。チームが“しまった!”と気づいたのは、公式予選の初日、4月28日だったはずです」

「ただ、このときにスバルがそういう“態度”になっていたのは、理由がないわけではなかった。それは、市販車の性能差です。車重はスバルが402kg、対して、スズライト・フロンテは525kg、その差は123kgありました。1トン半もあるようなクルマでの“100kg差”ではない、“500キロ級”でのその差ですからね(笑)。エンジンはスズライトのエンジンが21ps(4500回転)で、市販状態ではスバルの18ps(4500回転)より、たしかに出力では高かったけれど、でも、車重の差はこれではカバーできない」

「ただ、ぼくは、これはどうしようもないハンデとは見ていませんでした。スズキには、すでに二輪の世界GPチャンピオンを獲得していた高度な2サイクルエンジンのチューニング能力があります。そして、FF(前輪駆動)の長所を活かすサスペンション&足回りのチューンによっては、重量差は克服してしまう可能性もある」

――それは?

「ホイールとタイヤです。市販のスバル360は小径ホイールにこだわって“10インチ”が付いていた。対してスズキは12インチ・ホイール。これはレースなどの高速走行においては優位です。それをうまく活かせれば、操縦性能で、車体の重量差を克服してしまう可能性がある。さらにスズキは、実はこのとき、前年に自社のテストコースを完成させていました。だから《鈴鹿》に来なくても、エンジンやクルマのテストくらいはできたのです」

――おお!

「それと、最も重要な問題は“スズキ”をどう認識しているかでした。四輪メーカーとして見れば、このときのスズキは、たしかに軽自動車しか作っていません。しかし、このグランプリに参加した四輪メーカーの中で、実はスズキは唯一のレース経験メーカーだったのです」

――そうですよね、彼らには二輪レースのキャリアがあった!

「そのことに気づけば、スバルは安閑としていられなかったはずなのですが、そんな懸念や不安は微塵もないようなムードで、スバル・チームは《鈴鹿》に来ていた。レースの何たるかを知らない! このことに、ぼくは呆れていましたね」

――さらにスズキには“望月修”がいる?

「そうです! スズキのエース・ドライバーは“モッちゃん”、あの望月修さん。二輪ではぼくの師匠であり監督で、歴戦の理論派ライダーで鳴らした人です。案の定、公式練習に初めて姿を現わしたスズキは、オートバイのレーシングマシン並のキャーン!キャーン!という排気音を響かせて、スバルより1周で6秒以上速いタイムで《鈴鹿》を走り始めました」

――ウワ! それは凄いな。6秒違う“音”が聞こえてきそうです。

「まさに“桶狭間”ですよ、見事なり織田軍! いや、スズキと“モッちゃん”軍団! 奇襲というより、戦略として巧みでした。レースが“見えていた”のがスズキ、スバルはその部分が決定的に欠けていた」

――そして、もうひとつのスバル参戦のカテゴリーはツーリングカーの400~700ccクラスですが?

「トヨタ・パブリカのオンパレードといったところですが、まだまだマイカー時代ではなかったこの時期にあって、トヨタとすれば、マイカーへのエントリーモデルはこれだ、真の国民車は、価格でもそして車格でも、スバルなどの軽自動車ではなく、このパブリカなのだという自負がありました。メーカーは、それを実証する必要があったでしょう、このクラスの参加、その5割をパブリカが占めます」

「それに対するのが、スバル450、三菱500で、この二車はパブリカの添え物みたいで気の毒ではあります。主催者も、排気量別のクラス分けには頭を痛めたのでしょうね。まあ、興味はパブリカ同士で誰が速いのか。他の排気量クラスとのタイム差はどのくらいなのか。そして、450ccや500ccのクルマがどこまでパブリカ勢についていけるのかといったところでしょうか」

――と、ご自身エントリーのカテゴリーであるにも関わらず、このクラスについては、きわめてクールなコメントに終始する(笑)リキさんでありました。

(2)鈴鹿サーキットに現われた“黒船”!

――いまここに、「第一回日本グランプリ自動車レース」の「出場選手名簿」というものがあります。つまり、エントリーリストですね。これをパラパラと見ていきますと、二日間に渡って行なわれた「グランプリ」で、同じクラスのはずなのに、どちらの日にも決勝レースがあるカテゴリーがあります?

「『国際スポーツカー』の1000cc以上のクラスですね。たしかに、5月3日、4日の両日に決勝レースがありました。ただし、その二回の総合タイムとか、あるいはポイントの合計で順位を決めるということではなく、初日は20周、二日目は30周と周回数を変えて、同じクルマとドライバーによるレースをしました」

――このカテゴリーについては、いわば“二回興行”が行なわれた?

「そうです。どちらの日に来た観客にも、このレースを、つまり“本物のレース”を見てもらいたいという主催者の考えだったのでしょう」

――“本物”とは、クルマであり人であり?

「ええ、マシンもドライバーも──。この『国際スポーツカー・クラス』にやって来たクルマは、排気量別でほかの『スポーツカー・クラス』に出て来るクルマとは違ってました。他のクラスのスポーツカーは、MGにしてもトライアンフにしても、それらは街を走る後ろ姿を見るだけで十分に憧れの対象だったですが、しかし、この『国際スポーツカー』のクルマはそんなもんじゃなかったね!」

「本や雑誌でしか知らないような……というより、もっと言えば、本でも見たことがないような(笑)クルマが《鈴鹿》に来ていた。ポルシェといっても356とかそういうのではなくて“カレラ”だったし、それからフェラーリもいた」

超満員のスタンドを背にスタートする“黒船”。ペチャンコのマシンに全員の視線が釘付けだった。右がポールポジションを奪ったピーター・ウォアのロータス23。

――“街乗りスポーツカー”ではないクルマ?

「そう! ぼくらが何となく知っていた“スポーツカー”という概念に、まったく当て嵌まらないクルマ。とくに『ロータス23』とか『ジャガーDタイプ』という、いわゆる“レーシング・スポーツカー”を初めて間近で見たときは、ほんとにたまげました」

「ぼくが本場のレースってことでイメージしていたのは“オープン・ホイールカー”でした。車輪が剥き出しの、いまで言うフォーミュラカーです。でも、この種のレーシング・スポーツカーは、それとも違っていた。そもそも、シートは二つあるしね(笑)」

――ヘッドライトも付いてるし、そしてワイパーまであって?(笑)

「そういう装備があって、しっかりとボディで覆われているのに、しかし、車高が1メートルにも満たないペッチャンコなレースカー! 初めて見ましたよ、そんなの。へえ、こんなのがあるんだ!……という感じ」

――“レーシング・スポーツカー”という概念や、その実車に触れるのも初めて?

「そういうことです。地べたを、もっと自由に、そして縦横に走り回るためには、つまり、レースという状況で、サーキットをさらに速く走るためには、こんなクルマまでも外国の連中は作ってしまうんだ……と思いましたね」

――さらに、ドライバーも?

「ええ。後にF1ロータス・チームの監督を務めることになる24才のピーター・ウオアがいるかと思えば、ポルシェ・ファンなら誰でも知っているというポルシェ・レーシングチームの監督で、名ドライバーでもあったH.V.ハンシュタインが、何と52才という年齢で“カレラ2”に乗る。こういうドライバーの幅広い年齢層にも、たまげましたねえ。GP(グランプリ)はこのレースだけでいいんじゃないかと思ったくらいですよ。ぼくはこのGPではエントラントのひとりであったわけですけど、この『国際』クラスのレースに関しては、完全に“観客目線”になってました(笑)」

――フシュケ・フォン・ハンシュタイン氏ですね。あ、バロン(男爵)って呼ばないといけないのかな?(笑)このときの《鈴鹿》では、彼はポルシェを華麗にテール・スライドさせてヘアピンを回っていたそうです。

「ハハハ……(笑)。あと、もうひとつ華麗だったのは、2500cc以上のスポーツカー・クラスでした」

――ジャガーEタイプvsオースチン・ヒーレー?

「『国際クラス』のアーサー・オーエンの特別参加を加えて、エントリー8台のうち、ジャガーEタイプが5台! 豪華版です。このクルマ、日本での当時の価格は515万円ですよ。今日に換算すれば、8千万円近くになるはず。それを持ってるだけでなく、レースに出ちゃう人がいることがビックリを通り越して仰天でした。とくに鉄工所経営の横山達さんは、長年ジャガーに乗っている方と聞いていましたが、だから、6気筒4200ccで265馬力という大馬力車にも慣れていたのでしょうね。4月中旬頃のトレーニングでは、日本人ドライバーでは最速の3分10秒をマークしていました。クルマがクルマとはいえ、このコースをそんなも速く走れるものなんだと驚いたものです。横山選手は、のちに、ニッサンのワークス・ドライバーに抜擢されますね」

第二十六回・了 (取材・文:家村浩明)